偽りの婚約者 [クララの視点]
ヘザーが私を訪ねて来たのは、王宮を出てカイルの家に匿われてから三日目だった。
「クララ!無事でよかったわ!顔色が悪いけど、大丈夫なの?」
「ちょっと寝不足なだけ。すごく元気よ」
あの夜から、私はずっとうまく寝付けずにいた。
目を瞑ると、思い出してはいけない人の顔がうかび、音のない空間に、その優しい声が幻聴のように蘇ってくる。
私は精一杯の笑顔を作った。ただ、それがヘザーに通用したのかは分からない。
「そう。ならいいけど」
ヘザーはちょっと心配そうな顔をしたけれど、すぐに気を取り直したように微笑んだ。
「心配かけちゃって、ごめんね。急なことで、連絡もできなくて」
ヘザーは私を抱きしめて、「無事ならいいのよ」と髪をなでてくれた。
ヘザーの温かい体温に癒やされたけれど、同時にそれはあの人の熱い抱擁を思い出させる。
私はまた目が潤んでしまい、それを隠すように、ヘザーをぎゅっと抱きしめた。
若いメイドが持ってきたお茶とお菓子で、私たちは午後のお茶をすることになった。
私が王宮を去った夜に降りはじめた雪は、もうすっかり解けてしまっていた。
外は快晴だったけれど、冷え込みはさらに深くなっている。
熱いお茶を飲むと、ヘザーはふうっと息をついた。
「それにしても驚いた。あんたがカイルの家に匿われているなんて。カイルって家ではどうなの?学園のときみたいに、ポーカーフェイス?一緒にいることあるの?ギャップ萌えイベントとかあった?」
「カイルはそんなに変わらないよ。無口だけど優しい」
「ふーん。ツンデレか」
すごく冷静に分析するヘザーを見て、そう言えばヘザーはこうだったなあと、学園時代を懐かしく思った。ヘザーは男子の評価はすごく適当だ。興味がないのだ。
「王女様のお使いで来たんでしょう?侍女じゃなくて、秘書になったのね。ヘザーにはそっちのほうが合っているわ!」
大人っぽく髪を結い上げて、ドレスというよりはスーツといったほうがいい装いは、いかにも職業婦人という感じがした。
「当たり前よ!私はキャリアを目指しているって、知っているでしょう?後宮とか、そういう女っぽい場所にいるなんて、実際は想像もつかないわよ」
読むのも書くのも好きだったヘザーの夢は、新聞記者だった。もちろん、貴族の娘がなれるものではないのだけれど。
「そうね。侍女に戻った人はいたの?」
私は気になっていたことを、思い切って切り出した。
侍女に戻った令嬢は、殿下の後宮に側室として上がる。そして、情勢が落ち着けば、いずれは殿下のお手がつくだろう。
それは愛とかいう問題ではなくて、後継を絶やさないという目的のために。
そう思いたかった。
本当は王女様以外の誰かが、殿下の寵愛を受けることを想像するだけで、叫びだしてしまいそうだった。
たとえ、そこに愛がなかったとしても。
「誰も戻らなかったわ。秘書に転向したのは、私とルイーズとカトリーヌ。ユリアとマリアンヌはそのまま退職したわ」
ヘザーの答えに、私は心底ホッとしている自分を恥じた。
国の繁栄のためには、殿下の幸せのためには、そのお心を癒やす愛妾の存在を望むべきだ。
それなのに、私にはとてもそんな清らかな心は持てそうになかった。胸の中には、ただただどす黒い嫉妬が渦巻くだけで。
「そうなの。誰も残らなかったのね」
それでも、私は少しだけ元気が出たように思った。殿下は王女様だけのもの。それならば、まだ耐えやすい。
「まあ、表向きはそうなんだけどね。実は殿下から、後宮への出仕は不要と、希望者に打診があったらしいわ。そりゃあ、そうでしょうよ。私たちなんて当て馬で、殿下も王女様も、あんたを側室に狙ってたんだから!」
私は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになり、思わずゴホッゴホッとむせた。
「ちょっと待って。なんでそんなこと」
ヘザーに隠し事はできない。昔からそうだった。私とローランドのすることは、彼女がなんでもお見通しだった。
「ふうん。そんなに焦るってことは、殿下もとうとう、気持ちを伝えたわけね。鈍いあんたでもはっきり告白されたら、そりゃ分かるわ。で、ここにいるってことは、殿下は振られたってことか」
どう答えていいのか分からず、私は黙ってカップの中の紅茶を見ていた。
私は殿下が好き。そして、殿下も私を好いてくれていた。お互いの気持ちをやっと確認できたのが、別れるときだった。
こんなことは、誰も知ってはいけないことだったし、言う気もなかった。
ヘザーはしばらく、一人でお菓子を食べて、お茶を飲んでいた。
こういうときは何も言わないのが、ヘザーの優しさだった。
「あの、王女様はなんて?」
ヘザーは王女様の秘書として来ている。そうでなければ、私の居場所は知らされていない。
しばらく身を潜めて、北方の目を自分から反らすことが、今の私の使命だったはずだ。
「あんたの婚約を急がせたいって。王女様の婚約式には公式発表するから」
殿下と私の関係を、無関係を、はっきりと内外に示すには、正式な婚約者を持つか、または結婚してしまうことが、一番の近道だとは思う。
それでも、こんな急に言われたところで、相手の心当たりがない。
「私の婚約?え、何それ……誰と?」
「ローランド」
「ちょっと待ってよ!ローランドの婚約者は、ヘザーでしょ?」
私はヘザーの指に光る、大粒のルビーの婚約指輪を見て言った。
「知ってたの?なんで?」
「べルダの店で聞いたの。その指輪、べルダのでしょ」
「ああ、そういうことか」
ヘザーは自分の指にはまっている指輪をじっと見つめた。かなり大粒の真っ赤なルビーの指輪を。
あの襲撃の日、私はローランドのジャケットを着たまま、ブラックベリーの茂みを駆け抜けた。そのせいで、茨の棘に引っかかって、ジャケットの袖のあたりに傷ができてしまっていた。
それを弁償しようと、カイルに頼んで、ローランドがいつも服を誂えている、べルダの店に連れて行ってもらったのだ。
私はかなり強引な変装をして、カイルの婚約者のフリをした。
いくらお役目とは言え、カイルに申し訳ないと小さくなっている私を、べルダ氏は照れているんだと勘違いしたらしかった。
微笑ましい……という感じでこう言った。
「若い方はいいですなあ。ローランド様もハミルトン伯爵令嬢とご婚約とか。みな殿下に倣って、おめでたいことでございます」
私の知らない間に、幼馴染と親友が婚約していた! しかも、カイルはすでにそれを知っていたのだった。
『違う!違うよ!私はローランドのことなんて、別になんとも!』
王女様のお茶会で、ローランドへの気持ちを否定するヘザーは、いつもの彼女っぽくなかった。
なんというか、すごくバレバレというか、ダダ漏れな感じだった。
普段のヘザーなら、もっと上手に気持ちを隠したと思う。あれはある意味で不意打ちだったし、たぶん、ヘザーの中で想定外の事態だった。
ヘザーは、許婚と言われていた私に遠慮して、自分の気持ちをずっと隠してきたんだと思う。
そんなことも知らず、ぼんやりしていた自分が恥ずかしかったし、すごく心が痛んだ。
だから、ローランドがヘザーの気持ちに気がついてくれたのが、とても嬉しかった。
果樹園で、私とローランドは、選択を迫られた。そして、それぞれの答えを出したのだと思う。
はっきりと言われたことはなかったけれど、ローランドは私を好いてくれていたと思う。だけど、私はローランドを愛してはいなかった。
ローランドはそれを知って、きちんと正しい道を選んでくれた。お互いを愛して慈しみ合えるパートナーを見つけてくれた。
私はそれがなによりも嬉しかった。
ローランドを傷つけてしまったと思う。彼を愛することはできなかったけれど、それでも大事な人であることは変わらない。本当に幸せになってもらいたいと思っている。嘘偽りなく。
だから、私は本当に二人のことが嬉しくて、べルダの店を出てからも、一人で興奮して頬を上気させていた。
あまりに挙動不審だったからか、カイルに相当心配されて、ガッチリガードされる羽目なったけれど。
「そのことなんだけどね、ローランドは」
ヘザーは声に不安をにじませて、少し言い淀んだ。
ヘザーは昔から、私たちのことはなんでもお見通しだった。ローランドの私への気持ちにも、気がついていたと思う。
でも、ローランドはヘザーを選んだ。彼は人の心を弄ぶような人じゃない。ヘザーと結婚したいと思ったから婚約したんだ。
「おめでとう。よかったね。ヘザーはずっとローランドが好きだったんでしょう?運命の相手だったんだよね」
「その婚約なんだけど」
それでもヘザーは気まずそうに、左手の薬指にはめられているルビーの婚約指輪に、視線を落とした。
ヘザーが憧れていた『真実の恋』で、主人公が恋人に贈った石だ。
「私のことは気にしないで。ローランドのことはなんとも思ってないから。その指輪、素敵じゃない。ローランドったら、結構キザなのね。ルビーなんて」
ローランドは、ちゃんとヘザーのことを思っている。ヘザーが好きなことを、好きな物を、ちゃんと知っている。ヘザーのことを大切にしている。
それがすべてだと思う。
「それ、本気で言ってる?」
ヘザーは指輪をぎゅっと握りしめながら、私のほうを見ずに言った。
「もちろんよ」
私が断言すると、ヘザーは目線を指輪から私に移して言った。
「あんたは、ローランドが好きなんじゃないの?」
「好きじゃないわ」
「じゃあ、なんで殿下の側室を断ったの?」
私が王宮を去ったのは、他に好きな人がいたからじゃない。好きになってはいけない人を愛してしまったから。殿下を好きになってしまったから。
でも、そのことは、ヘザーであっても悟られてはいけない。知られれば、殿下の覚悟を台無しにしてしまう。この国を危機に追い込んでしまう。
「私、他に好きな人がいるの」
私はとっさに嘘をついた。誰でもいい、とにかくヘザーを納得させなくては。
殿下でもローランドでもない誰かを、私は愛していなくてはいけない。
「クララ、何か私に遠慮しているんだったら、それは違うから」
どうしよう。殿下でなければローランドだと、ヘザーは思っているのかもしれない。
果樹園で、私も一瞬、ローランドならと思った。このまま奪ってくれるなら、もう楽になれると。
ローランドを愛せると思ってしまったけれど、それは間違いだった。
「そうじゃないの。私はカイルが、カイルが好きなの」
その言葉に、ヘザーが息を飲んだと思った瞬間、肩に誰かの手が置かれて、私はビクッと飛び上がった。それはカイルだった。
今の言葉、カイルに聞かれた!
自分で招いた状況についていけなくて、私は混乱を極めていた。
カイルに否定されたら、ヘザーに嘘をついたことがバレてしまう。
「遅くなってごめん。一人で心細かったろう」
カイルはそう言うと、そのまま私の顎に指を当てて上を向かせ、私の唇に軽いキスを落とした。
驚いて目を瞠る私に、カイルはここは任せてと目で合図した。
「ヘザー、いらっしゃい。クララの婚約者は僕だ。王女様に伝えてくれ」
呆然としている私の前で、ヘザーは真っ赤な顔をして目を見開き、両手で口を覆っていた。