ローランドの婚約
あれから私はしばらく眠ることができず、ウトウトとまどろんだのは明け方だった。
眠りは浅かったが、眠っている間だけは絶望を忘れることができた。
そして、目覚めると現実に失望した。
私室にセシルの気配はなく、少し前にサロンへ向かったと、朝食を運んできた侍女長から報告を受けた。
私はシャワーを浴びて身を清め、昨日から着たままだった服を着替えた。
シャツの胸元から、微かにクララの残り香が漂ったようだが、そのままクリーニングへと回した。
もう後ろを向いている暇はない。先に進まなければ、みなが死ぬ。
私には国民の命がかかっているのだから。
執務室に向かう途中で、セシルが早足でこちらに歩いてきた。
ずいぶん急いでいるようで、少し息を切らしていた。僕を見ると、そのまま駆け足で近寄ってきた。
「アレク、執務室に来て!カイルが待っているわ」
「カイル?何かあったのか?」
「詳しいことは分からないんだけど、ローランドを殴ったらしいの。メイドと衛兵が見ていたから、ちょっとした騒ぎになっていて」
「ローランド?大丈夫なのか?」
「ええ。でも、一応、医務室に連れていったわ」
「そうか。わかった」
カイルは昨夜、クララを護衛していったはずだ。もう戻っているということは、クララは無事に保護されているのだろう。
だが、なぜローランドと諍いを。クララ絡みなのだろうか。
思考が顔に出ていたのだろう。セシルが眉を潜めて小声で言った。
「私情は禁物よ。人目があるわ」
セシルがこういう風に念を押すとは、やはりクララ絡みだ。私はため息をついた。
「わかっている」
執務室に入ると、側近たちが一斉に席を立って私に敬意を表した。
僕は何も言わすに頷いて、その中を通り抜け、セシルに続いて応接室に入った。
そこには、カイルと書記官がいた。書記官はすぐに頭をさげて退出していったが、カイルはいつもの無表情のままだった。
ただ、少し伏し目がちで、何があったとしても、それなりに反省はしているようだった。
「話はセシルから聞いた。言いたいことはあるか」
「ありません。ただ、処罰をいただきたく」
「理由も聞かずに、罰することはできない」
「すべて私の責任です。ローランドに落ち度はありません」
「それなら尚更、理由は言えるだろう」
「ご処分を」
カイルは一貫として、自分に咎があるという態度を貫いた。
この男がこうなってしまったら、それこそ自白剤を使ったところで口を割らないだろう。
騎士はそういう訓練を積んでいるし、彼の性格からしてもそれは明白だった。
「私の側近と円卓が対立したとなると、軽い沙汰ではすまないが」
「心得ております」
私への不敬と取られてもかと問うたところで、答えは知れている。私は諦めて言った。
「わかった。それでは謹慎を言い渡す。許しがあるまで出仕しないように」
「ありがとうございます」
頭を下げて去ろうとするカイルに、私は思わずクララのことを聞きそうになった。
だが、セシルがいる前で、それはできなかった。
彼女のことはセシルに一任したのだ。聞きたいなら、そちらに聞くのが筋だった。
ドアを開けたとき、執務室から少しざわついた空気が流れた。ローランドが来たのかもしれない。
セシルがドアを開けて確認すると、やはりローランドだった。
ローランドは少し疲れているようだったが、特に目立った怪我はないようだ。
騎士ほどではないが、私の側近たちはそれなりに鍛えてある。これなら大丈夫だろう。
「怪我はどうだ。大丈夫か」
「申し訳ございません」
「カイルには、謹慎を申し付けた」
「お待ち下さい!カイルに非はありません」
それは、カイルと全くと同じ反応だった。
クララのことに関しては、私たちは似た者同士だ。自分が悪者になることなど厭わない。むしろ、自ら喜んで悪になる。
私は椅子から立ち上がって、ローランドの肩に手を置いた。
「心配しなくていい。あくまで表面的な措置だ。目撃者がいる以上、こちらとしても何らかの措置をとらなくてはならない。婚約式までには謹慎を解く」
「申し訳ございません。ご配慮、感謝いたします」
私がソファーに座ると、ローランドとセシルもそれにならった。
黙っているのは時間の無駄なので、私は話をすすめることにした。
「お前も、理由を言う気はないようだな。カイルも一切、理由を話さなかった。自分が悪いの一点張りだ。これでは埒が明かない」
「申し訳ございません」
ローランドは頭を下げただけだった。どうやら、本当に話す気がないらしい。
私がもう少し厳しく問いただそうとしたとき、セシルが席を立った。
そして、ローランドの後ろに回り、彼をかばうように両手をその肩に置いた。
「アレク、もういいでしょう。ローランドは私の侍女の婚約者よ。さっき報告があったの。プロポーズは見事に成功したらしいわ」
私は一瞬たじろいだ。
こんな風に急に報告されるとは思っていなかった。まだ、しっかりとした心の準備ができてはいない状況だった。
私はあわてて、表情を取り繕って言った。
「そうだったのか。それは、めでたいな」
「ありがとうございます。殿下に祝福いただければ、彼女も喜びます」
ローランドの幸せそうな声に私は動揺し、彼から目を逸らしてしまった。
そんな私にセシルが助け舟を出した。
「今日はもう、ローランドを帰してあげましょう。急に決まったことで、まだ指輪ももらってないそうよ。婚約にはいろいろ準備が必要だし、昨日はそのまま徹夜をしたみたいだもの。少しは休ませてあげましょうよ」
執務室で徹夜をしたなら、クララと婚約したのは今朝か。クララは王宮に、そうか、王女のサロンに来ているのかもしれない。
それでカイルも来ていたのなら、色々なことに合点が行く。私だとて立場が許されるなら、クララを奪っていく男に、一発見舞ってやりたいくらいだ。
「そうだな。もう下がっていい」
「ありがとうございます」
私が立ち上がると、ローランドも席を立った。
ドアに向かうローランドに、セシルにしてはめずらしく真剣な声で問いかけた。
「彼女を愛してるの?」
「はい」
「幸せになれるの?」
「はい、必ず幸せにします」
クララを幸せにすると、そう堂々と言い放つローランドに、言いようのない殺意が芽生た。
私は目をつぶって、その感情をやり過ごした。
そんな私に気がついたのか、セシルが容赦なく畳み掛けてきた。
「ですって!よかったわね、アレク。私のせいで、みなに迷惑をかけたけど、とにかくうまく纏まってくれてホッとしたわ」
「そうだな」
僕はなんとか落ち着きを取り戻し、かろうじて祝いの言葉を述ることができた。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
私は改めてローランドを見た。
彼は羨ましいほどのいい男だ。クララは幸せになるだろう。
「では、この話はもう終わりだ。これからはプライベートについては報告しなくていい。明日からは政務に力を尽くしてくれ」
これ以上は無理だった。私は瓦解する表情を隠しながら、ローランドに背を向けた。
「承知しました」
ローランドは頭を下げてから出ていった。
セシルと少し言葉をかわしていたようだったが、私はもうこの話は聞きたくなかった。
「彼女がお世話になります」
ローランドの声が耳に入り、それに私をさらに苛立たせた。
すでにクララは自分のものだと、暗に釘をさされた気がした。
私が所在なく机の書類を手に取ったとき、セシルがドアを閉めて言った。
「クララの婚約は、予定通りに私たちの婚約式で正式に公表するわ」
「わかった。悪いがその話はここまでにしてくれないか」
私はそこで話を切った。これ以上、心を乱されたくなかった。
セシルはそれでも、何か言いたそうにしていたので、彼女が口を開く前に、私は応接室を出た。
もう何もかもがたくさんだった。
セシルも私に続いて応接室を出た。そして、今日はサロンで過ごすと、執務室から出ていった。
今日はもう、ローランドもセシルもいない。
しばらくはクララのことを考えずに仕事に没頭しようと、私は執務机の上の書類の山に手をつけた。