理想の伴侶
「クララは、行ったのか?」
いつの間にか、セシルが部屋に戻ってきていた。私は窓辺に立ったまま、更に降りしきる雪から目を逸らさずに言った。
「雪が、ひどくならないといいわね。辺境の守りが厳しくなるわ」
セシルは僕の側に立って、やはり外を眺めながら言った。そして、窓枠に置いている私の手を、とんとんとたたいた。
「心配しないでちょうだい。悪いようにはしないから」
「すまない」
私がそう言うと、セシルは自分の手を、私の手に重ねて、さらさらと優しくなでた。
「言ったでしょう。これは、私のせいなんだから」
「いや、私のせいだ」
クララをこんなことに巻き込んでしまったのは、つまりは私が、彼女を望んだからだ。
苦悩が顔に出ていたのか、セシルが背後に腕を回して、ぎゅっと抱き寄せてくれた。
幼いころ、私が失敗して落ち込んでいると、聡明なる彼女は、こうやって慰めてくれたものだった。
兄弟姉妹のいない私には、それこそ姉のような存在だった。
「私たちには、やるべきことがあるわ。落ち込んでいる場合じゃないのよ」
そして、こうやって発破をかけるところも、昔と同じだった。私は自然と笑みがこぼれた。
セシルなら、いつか私を、また普通に微笑めるようにしてくれるだろう。
「君がいてくれてよかった。共に戦える相手がいるなんて、私は幸運だ」
「あら、今更ね。知れたことよ。こんな美女を侍らせて、男はみんな嫉妬するわよ」
「……はは。違いない」
先程までの苦しさが、セシルのおかげで少し和らいだようだった。
私には、感傷に浸る時間はない。こうしている今も、戦況は刻々と悪化している。
私たちは、寝室から居間の方へ移動した。そして、暖炉の前で、グリューワインをマグカップに注いだ。甘いワインは、冷え切った体を暖めてくれた。
「報告を聞いたか?レイは、逃げおおせたと思うが……」
「魔法戦のことでしょう。ずいぶん派手にやったみたいだけど、現場に死の気配は残ってなかったと聞いたわ。ただ、相手がシャザードだから、楽観はできないわね」
「犠牲が出なかったとは言え、領内に軍幹部を送り込むとは、宣戦布告のようなものだ。もう戦うしかないのだろうか」
セシルは、ゆるゆると首を振った。
「ギリギリまで、持ちこたえましょう。戦争になれば人民に被害が及ぶ。婚約式をできるだけ前倒しするべきね」
「そうだな。公示を急ごう」
セシルはそれを聞いて頷いたが、その後で、少しためらったように口を開いた。
「同時に、クララの婚約も発表しようと思うの。クララの立ち位置を広く知らしめるために、良い機会だと思う」
「そうか。そうだな」
クララがローランドと正式に婚約して、それを私たちが祝福する。そうすれば、北方にも私の寵愛が消えたと思わせることができるかもしれない。
「うまくいくだろうか」
「分からないわ。でも、やれることはやっておかないと」
その通りだった。今はとにかく、現時点での最善の策を取っていくしかない。
起こったことを取り消せないなら、起こりうる未来の危険を、一つずつ潰していくしかない。
「警備を固めよう。魔術師たちは、結界には問題がなかったと言っている。そうなると内通者がいる可能性が高い。王宮内は、油断はできない」
「そうね。思った以上に北方の手が伸びていたわ。私も甘かったわね」
「いや、私こそ甘かった。あぶり出しが必要かもしれないな」
唇を噛み締めるセシルの頭をポンポンとたたいてから、私は内通者の可能性を考えた。
だが、疲れ切った頭にワインが効いたのか、あまり考えがまとまらなかった。
「少し眠ったほうがいいわ。私のベッドを使ってもいいわよ」
「無理だ」
私は即答した。クララの残り香がするベッドで、眠れるとは思えない。
セシルは、それに気がついたのだろう。「そうね」とだけ言って、ガチャリ鍵を回して隣室のドアをあけた。
「今日はこっちを使って。レイのベッドも、寝心地は悪くないわよ」
「寝たことがあるみたいに言うんだな」
私がそうからかうと、セシルはちょっと顔を赤くした。そして意趣返しをしてきた。
「なんなら今日は、傷心の貴方と一緒に寝てあげてもいいのよ。私の胸で泣けば?」
「遠慮するよ。刺客より恐ろしくて、寝られそうにない」
私が笑って言うと、セシルも楽しそうに笑った。
こういう関係も、悪くはないと思う。愛はなくても、信頼はある。互いによい理解者になれるだろう。
「国のために生きよう。私と君は、運命共同体だ。限られた状況下だが、君が幸せになれるよう努力したい」
セシルはそれを聞いて、にっこり笑った。とても綺麗な笑顔だった。
「こちらこそ。私も貴方のよい伴侶になるわ」
「ありがとう」
私が隣室へ移動すると、セシルはそっとドアを閉めた。
レイの部屋は暖められ、いつ彼が戻ってきてもいいように整えてあった。
それはたぶん、セシルの指示であり、そして彼女の希望なのだと思う。
私は服を着たまま、寝心地は悪くないと評されたベッドに横になった。
だが、一人になると、やはりクララのことを考えることを止めることはできなかった。
いよいよ、クララがローランドと婚約する。明日には、彼の誤解を解かなくてはいけないだろう。
だが、なんと言う?
ローランドは、シャザードが言った言葉を信じている。そして、あの言葉自体は、事実とそれほどかけ離れたものではない。
『お飾りの正妃ではなく、王太子ご寵愛の令嬢だ。閨に呼ばれたのは、そこにいる男爵令嬢のみ。王太子のただ一人の愛妾だ』
セシルのことは敬愛している。だが、男女の愛ではない。私が愛しているのは、クララだけだ。
そして、クララは確かに、私の閨へ呼ばれた。何もなかったが、それを証明する手立てもない。
それでも、彼らが初夜を迎えれば、自ずと答えは出るだろう。
そう考えると、心臓が潰れるような痛みが走った。
これは嫉妬だ。クララを堂々と愛することができるローランドに、私は猛烈に嫉妬している。
そう自覚すれば、この苦しみもいくらかは耐えやすかった。
クララ、君は今どこにいるのか。何を考えているのか。私にできることは、もう君の幸せを願うことしかない。
彼女の未来に禍根を残さないために、なんとしても、ローランドの誤解を解く必要がある。
君の幸せのためになら、私はなんでもする。喜んで頭を下げよう。跪いて嘆願しよう。
それで君が幸せになれるのなら、私のプライドなどちっぽけなものだ。
君を愛している。愛するのは生涯、君だけだ。何があっても。
だから、必ず幸せに。君の幸せが、私の幸せなのだから。
私はゆっくりと目を閉じた。
眠っている間だけは、この苦しみから開放されるかもしれない。
睡魔が襲ってくれることを期待しながら、私は雪が降り積もっていく音を聴いていた。