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16/25

別れの夜

 王女の部屋に向かったのは、すでに深夜を過ぎていた。


 クララが待っているのは分かっていたが、どうしても足が向かなかった。

 少しでも長く、クララを王宮にとどめておきたかったから。彼女との決別を、少しでも先延ばししたかったから。


「先にあがるわ。今夜は私の部屋で待ってる。なるべく早く来て」


 王女はいつもの臭い芝居で、執務室を出るときにそう言った。

 王女のそんな言葉は、もう誰も気にも止めないほど、聞き慣れていた。


 だが、僕とローランドは、その言葉に過剰反応した。今夜だけは、いつもの夜ではないのだから。


 僕が執務室を出るとき、ローランドは他の数人とまだ残っていた。

 休暇を切り上げて戻ったのだから、早く帰ることもできたと思うが、たぶん今夜は徹夜をする気だろう。

 仕事をしているほうが、気が紛れる。だから、昨夜は私が徹夜をしたのだ。同じ理由で。


 他の男と一緒にいるクララのことを考えてしまうくらいなら、仕事に忙殺されていたほうがマシだった。


 王女の部屋に行くのだから、私は堂々と王宮側の通路を使った。いつもならレイがいるのに、昨日からは近衛兵が交代で詰めていた。

 彼らは私と見ると、うやうやしく敬礼をした。私はそれに軽く会釈し、何も言わずに王女の部屋のドアを開けた。


 レセプションルームを通り抜けて、王女の主寝室のドアをノックする。

 どうぞ…と中から、小さな声が聞こえ、私はゆっくりとドアをあけた。


 そして、最初に目に飛び込んできたのは、真っ白いドレスを来て窓辺に佇むクララの姿だった。


「殿下、雪が降っているようです」

「初雪か」


 私はクララの側に立って、窓の外を眺めた。降り始めた雪は音もなく、地表を覆い始めてていた。

 部屋は暖炉の柔らかい灯で照らされ、クララの白い肌が雪より真っ白に輝いていた。


「寒くない?」

「はい」


 クララはそういったが、手が少し震えているようだった、私はその震えを止めようと、彼女の両手を取って、自分の両手で包みこんだ。


「冷えているじゃないか」

「違います!殿下の手が温かいんです。本当に寒くないんです!」


 私は思わず笑った。まるで学園いた頃のクララだった。


 私に子供扱いされたと思うと、彼女はいつも意地を張った。ほんの数ヶ月前のことなのに、まるで遠い昔の記憶のようだ。


「そうだね。とにかく暖炉の側へ行こうか」


 私は彼女の手を引いて、暖炉の側へと連れていった。


 グリューワインが、暖炉の灯で暖められている。クララが私の部屋に現れた、あの夜と同じ香りが部屋を満たしていた。


「今日は、いや、もう昨日か。ひどい目に合ったね」

「いいえ、もう大丈夫です。それに、ちょっと怖かったけど、ローランドとレイ様もいたし」

「そうだね、彼らがいてよかった。お手柄だな」


 もしクララが連れ去られていたら、今頃どうなっていただろうか。

 北方は甘くない。すでにクララの命はなかったかもしれない。いや、私の命がなかったかもしれないか。


 クララが危険な状況で、私が冷静な判断ができるとは思えない。国を捨てて、一人でも北へ乗り込んでいったかもしれない。

 そして、それこそが北方の狙いだった。


「ええ。でも、私も偉いんですよ!ちゃんと助けを呼びに走ったんだから!事なきを得たのは、ひとえに私のおかげです」


 暗い想像に堕ちた私を気遣うように、クララはわざと意気込んで、明るい声でそう言った。

 だが、クララの手がまた少し震えた。


 私はクララを暖炉の前のソファーに座らせると、その前に膝をついた。そして改めて彼女の両手を取り、自分の首筋に当てた。


「殿下!それ、冷たいですよ!やめてください。殿下が冷えちゃう」


 私の首筋に触れたクララの手がビクッと震え、すぐに私から離そうとした。

 私はそれを許さないとばかりに、重ねている自分の手に力を込めた。


 ひんやりとしたクララの手に、私の熱が移っていくのを、私はとてもうれしく感じていた。


「私のことはいい。君に温まってほしいんだ」


 クララは何も答えなかった。だが、離れようとしていた手の力が抜けおちた。

 私たちはどちらも俯いたまま、クララの手が温かくなるまでそうしていた。


 やがて、私はクララの手を首筋から外して、彼女の膝の上に戻した。彼女を見上げると、今度はその小さな肩が震えていた。


 彼女は静かに泣いていたのだ。


「どうして泣くの?可愛い顔が台無しだよ」


 あの丘の上でも、クララは泣いていた。私に会えなくなるのが寂しいと。

 今も、そう思ってくれているのだろうか。私を思って泣いてくれているのだろうか。


 私はクララの側に腰を下ろし、その震える肩を抱いた。そのまま引き寄せると、クララは抵抗することなく、私の肩に頭をもたせかけた。


「そんなことないです。私は泣いてもかわいいんです」


 彼女は無理やり笑って、怒ったような顔を作った。私を見上げるクララがあまりに可愛くて、私は衝動を抑えられずに、唇でその涙を拭った。


 頬に、目尻に、顎に。彼女の涙を拭ううち、私たちはどちらからともなく、唇を重ねた。あの学園の丘の上のときのように。


 優しくついばむようなキスをするうちに、彼女の唇が薄く開かれた。私は彼女の髪に指を差し入れ、その背中に腕を回して、更に深く口付けた。

 クララの両手が、おずおずと私の背中を這い、やがてその体からは、火が灯ったような熱を感じた。同時に私の体からも、抑えようのない情熱が迸った。


 私たちは、まるで熱病に冒されたかのように、互いの熱い唇を貪った。混じり合う唾液は蜜よりも甘く、危険な媚薬だった。

 クララは全身で私を受け入れ、強く求めてくれている。このまま一つに溶け合ってしまいたいと、そう望んでくれている。


 このままクララと共に生きられるなら、もう何もいらない。国も立場も何もかも捨てて二人だけで。

 それができればどれほど幸せか。どこか遠くの、誰も知らない土地で、二人だけで。


 私はクララから唇を離し、彼女の可愛い顔を見つめた。

 頬は真っ赤に上気し、瞳はうっとりと夢みるように潤んでいる。長いこと私に吸われた唇はふっくらと熱を帯び、赤く充血しているのが、とても艶めかしかった。


 古来から、いったいどれだけの男が、こうして女に堕ちていったのか。彼女のこんな顔を、他の誰にも見せたくない。


 欲望に突き動かされてて、クララを押し倒そうと肩に手をかけたとき、首筋に残る印を見て、僕はすんでのところで理性に引き戻された。


 いけない。彼女は手折ってはいけない花だ。この美しい花は、ここで摘み取られたら、やがて枯れてしまう。 

 僕はクララから体を離した。そして目を瞑って、レイのことを考えた。


 クララを助けたレイは今、王女のために命を賭して戦っている。たぶん、明日をも知れない。

 王女も、国や民のために私欲を捨てて戦っている。父王も辺境も。みな、愛するもののために戦っているのだ。

 私だけが逃げることはできない。


 いや、逃げたとしても、あるいは誰も私を責めないかもしれない。だが、私は自分を責めるだろう。

 そして、その姿はクララをも苦しめることになる。


「殿下?」


 クララは急に体を離した私を、気遣うように真っ直ぐに見上げた。

 その澄んだ瞳を直視できなくなり、私はソファーを立ち、クララに背を向けたまま、暖炉の前に移動した。


「すまない。もう発つんだったな。雪が深くなる前に出たほうがいい」 

「……はい」


 私がそう言うと、クララは小さく返事をした。


 私はクララのほうを見ることができなかった。クララが泣いているかもしれないと思うだけで、心臓がギリギリと痛んだ。

 だが、もし顔を見てしまったら、今、ここでクララを手放すことはできなくなる。


 そう思って、私は唇を噛んで耐えた。


 やがて、クララがソファーを立って、後宮側のドアのほうへ歩いていく足音が聞こえた。


 彼女の手がドアノブに振れたとき、私は思わずクララに駆け寄り、後ろから彼女を抱きしめた。

 どうしようもなかった。そうしなければ、私はたぶん壊れていただろう。


「そのままで聞いてくれ。二度と口には出さない。だから、聞いたら忘れてほしい」

「……はい」


 クララの声は震えていた。僕はその細い首筋に顔をうずめて、小さな声で言った。


「君を愛している。私が愛するのは、生涯君だけだ。何があっても」


 そして、私はクララの首に赤く残る印に口付けた。クララは小さく震えたが、声は出さなかった。


 治癒魔法で痣が消えたことを確認してから、私はクララの肩を掴んで、自分から引き離した。

 そして、後ろから腕を伸ばして、そっとドアを開けた。


「行って」


 クララは私の願いどおりにこちらを振り向かずに、そのまま黙って前へ進んだ。

 通路の少し先に、カイルが控えているのが見えた。


「クララ、幸せになってくれ」

「はい」


 カイルがクララに白い毛皮のコートを着せかけたのを見て、私はドアを閉めた。


 私の、一生に一度の恋は、そこで終わった。


 王族として生まれて、私利私欲を持たないように生きてきた自分が、初めて欲した、たった一人の女性。

 私は今、その人をこの手で、自分の意志で、手放した。


 もうこの世に欲しいものはない。これからの人生を、私は公人としての義務と責任を果たすためだけに生きていく。


 君がいる世界を守るために生きる。それが私の救いとなる。


 窓の外の雪はさらに深くなり、世界のすべての醜いものが真っ白に塗り替えられていくようだった。

 それはまるで、美しい世界へ帰っていく真っ白なクララへの、天の祝福のようだった。


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