王女の恋
クララが休暇で王宮を出た日、カイルは円卓に復帰した。執務室に行くと、彼はすでに出仕していて、ローランドと何か話していたようだった。
クララのことを、昨夜のことや今朝の出立の様子を知りたかったが、ローランドやセシルの前で尋ねることは憚られた。カイルも特に報告したいようには見えない。
私と入れ替わりで、カイルは執務室を出て行った。だが、セシルがローランドと応接室に入ったので、私はカイルの後を追おうと廊下へ出た。
しかし、廊下で私の目に入ったのは、カイルではなくレイだった。
セシルが執務室にいるときに、レイがここに来たことはない。
王女付きの騎士であっても、レイはまた隣国の臣下。高位の魔術師だ。国家機密を知られることはご法度だった。
「レイ、何かあったのか?」
「はい。殿下と王女にお願いがございます」
何のことかは、はっきりは分からなかった。それでも、その旅支度を見るかぎり、王都を去る心づもりなのは明らかだった
「とにかく中へ。すぐにセシルも呼ぼう」
「いえ。私は他国の者です。王太子の執務室には入れません。礼拝堂でお待ちしてもよろしいですか」
「分かった」
レイはそのまま、礼拝堂のある回廊へと去っていった。私はすぐに、応接室のセシルの元へ向かった。
「レイが急用で、目通りを願っている。礼拝堂に来てくれないか」
私がそう言うと、セシルは少し表情を曇らせた。それでも、すぐに立ち上がって言った。
「分かったわ。今、行きます。ローランド、じゃあ、もうこのまま、帰っていいわ。今日から三日間を休暇にするから、クララに気分転換をさせてあげてね」
私は、まともにローランドを見ることができなかった。合わせる顔がない。
昨夜、私は彼の許婚を、クララを抱こうとした。まるで泥棒猫ように。忠実な臣下の、妻となるべき女性を。
未遂に終わったとはいえ、私には確かに薄汚い欲望があったのだ。
私が離したクララの手を取るのは、ローランド以外にはいないだろう。彼女の配偶者には、彼が適任だと私も思う。
だが、これから三日間の休暇を、彼がクララと共に過ごすという事実は、まだ簡単には受け入れがたかった。
私は応接室を出る前に、私はローランドに釘を刺した。クララと深い関係にならないようにと。
「ローランド、休暇中も側近として、節度を持った行動をしてくれ」
「御意」
ローランドは、特に気にしなかったようだが、あれは明らかの私の妬心から出た言葉だった。
王女はそれを聞いてくすりと笑ったが、レイの件があるので、そのまま何も言わずに、礼拝堂へと歩いていった。
レイの格好を一目見て、セシルは声を張り上げた。
「どういうことなの!どこへ行くつもり?」
レイは先ほどは着ていなかった、綻びた魔道士のマントを羽織っていた。側には、バックパックと一般魔道士が持つ杖が置いてあった。
そして、何よりも顕著だったのは、彼が持つ高位魔術師のオーラが、すっかり消されていたことだった。
「北へ潜入します。うまく運べば、内側から揺さぶれるかと」
私たちの前に跪いたレイの顔は、フードの隠れて見えなかった。それでも、その声はとても静かで、そして断固としていた。
「死ぬ気なの?あなたの仕事は私を守ることでしょう!それを放棄することは許しません!」
レイとは対照的に、セシルはかなり取り乱していた。だが、レイはそれでも、ゆっくりと諭すように言葉を繋いだ。
「私の勤めは、貴方をお守りすることです。この王宮では、殿下が貴方を守ってくださいます。私は別の方法で、貴方をお守りしたいのです。私だけができる方法で」
「私がここにいるのは、お前を死なせないためよ!同盟で戦いを回避できれば、血を流さずに済む。なのに、私がここにいるから死地に赴くというのは、あまりにもひどい仕打ちだわ!私は一体何のために……」
両手で顔を覆って咽び泣くセシルに、レイは立ち上がってそっとその手を取り、そのまままた跪いた。
「貴方の御心は存じています。だからこそ、行かせてください。貴方が私を守ってくださるように、私も私のやり方で、貴方を守りたいのです。一方的に守られるのではなく、共に戦わせてください。貴方を決して一人にはしません」
王女を見上げるレイの目は、深い愛に満ちていた。そこには死への怖れは微塵もなく、自分の思いを全うできることへの希望の光があった。
「ひどい人」
王女はしばらく泣いていたが、やがて泣き止んで一言だけそう言った。それを聞いて、レイは優しく微笑んだ。
「王女様、私を貴方の騎士に任命していただけますか。私は王室付魔術師なので、正式な騎士の誓いは立てておりません。出立の餞に、儀式を賜りたく」
王女が自分の短剣に手をかけたので、私はその場を去ろうとした。愛し合う二人の、今生の別れの邪魔をしたくなかった。
だが、レイにそれを止められた。
「殿下に、証人として立ち会っていただきたいのです。どうか。私の最後の願いです」
そう言われてしまっては、立ち去ることはできなかった。私は少し離れた位置から、息を詰めて儀式の様子を見守った。
セシルは、自分の短剣を鞘から抜いて高く掲げ、その後でレイの両肩に当てた。
「わが主君に永遠の忠誠を」
レイがそう言うと、セシルは彼の鼻先に剣を向けた。レイがその刃に接吻し、短剣は騎士の証として、レイに下賜された。
そうして、騎士の儀式は滞りなく終了した。
二人が抱き合ったのを見て、私は彼らに背中を向けて目を閉じた。
私たち王族は、人生に選択権すらない。運命に翻弄される使命を背負って生まれた。それはまるで呪いだ。逃げることはできない。
しばらくして、レイが私に向かって言った。
「殿下、お時間を頂戴いただき、感謝しております」
私は振り返って、右手を差し出し、レイに握手を求めた。私たちはたった今から戦友として、共に戦っていくのだから
レイは少し戸惑ったが、それでも私の手を強く握った。
「セシルのことは心配ない。私が必ず守ると誓おう」
その言葉を聞いて、レイは安堵したように頷いた。そんな私たちを、セシルはどこか遠いものでも見るように見つめていた。
だが、レイが彼女を振り返ったその瞬間に、セシルは満面の笑みをうかべた。
こんなに美しいセシルを見たのは初めてだった。それくらいに、見るものの心を奪う笑顔だった。
セシルの笑顔に、レイもやはり幸せそうな笑顔を返した。愛する者に見せる最後の自分が、たぶん今までで一番、幸せな笑顔であるようにと。
そんな二人の想いが伝わり、私の心も強く締め付けられた。私は最期のときに、クララにこんな笑顔を向けることができるだろうか。
「今は、これまで」
レイはマントを翻し、そのまま一度も振り返ることなく、礼拝堂から出ていった。
セシルは、しばらく固まったように動かなかった。
やがて彼女は、気を取り直したかのように、祭壇に向かって祈りをささげた。
神に祈る横顔は聖母のような慈愛に満ち、彼女を包む静謐な空気は私を圧倒した。
彼女は生まれながら王の器を持って、それを全うする意思がある。
「アレク、ありがとう」
私のほうを見ずに、セシルはそうつぶやいた。
私は二人のために何もすることができなかった。ただ傍観していただけだ。
無力な自分には、感謝される謂れなどなかったが、そう言ったところで、何が変わることもない。
私は何も答えず、祈るセシルのそばに佇んでいた。
しばらくしてセシルは立ち上がり、僕のほうを見た。その顔からは、すでに憂いの痕跡は消えていた。
なにか憑き物が落ちたような、とても清々しい姿だった。
「執務室に戻りましょう。私たちには、私たちの戦い方があるわ。あなたが戦友でよかった。レイは……いえ、民はみな、私たちが守る」
私はただただ、頷くしかできなかった。
セシルからはなにか王者のオーラのような光がさしていた。
私たちは負けない、何があっても勝ち抜ける。そう確信したのは、まさにその瞬間だった。