戦友の願い
「一体、何の真似だ」
暖炉の前に立ってワインを飲むセシルに、私はなんとか怒りを押さえて、平坦な声で言った。
セシルは気だるそうに、こちらを見て微笑んだ。
「貴方へのプレゼントよ。気に入らなかったとは言わせないわ」
「ばかなことを!気に入るわけがないだろう!」
私は吐き捨てるように言った。クララを玩具のように扱うことなど、反吐が出るほどの屈辱だった。
「女に恥をかかせるなんて、ひどい人ね。彼女が不憫だわ」
それは、悪意を持って、私に投げられた言葉だった。
私は抑えていた怒りが爆発したかのように、セシルの手首を掴んで、寝室に引っ張って行った。
グラスが床に落ちて割れ、ワインが血のような跡を残した。
「痛いわ!乱暴はやめて!」
セシルをベッドに突き倒すと、彼女は怒りに頬を紅潮させて叫んだ。
その瞬間、私は誰かに後ろ手を掴まれた。
「王太子殿下。お控えください」
レイだった。私はその手を振り払い、レイを睨んだ。
「無礼な!私を誰だと思っている。控えろ!」
「レイ、控えて」
セシルが震える声で命令すると、レイはその場に跪いた。
セシルはホッと安堵の息を漏らし、威厳と落ち着きを取り戻した声で言った。
「殿下、部下の非礼をお赦しください。レイ、下がっていて」
「王女様のご命令でも、それはできません。私の役目は王女様をお守りすることです」
「レイっ!」
真っ青になってそう叫んだセシルを、私はベッドの上で押し倒し、馬乗りになって彼女の両手首を掴んだ。
「アレク、悪ふざけはやめて!」
「なぜだ?これは君が、クララにしようとしたことだろう」
その言葉を聞いて、セシルはキッと私を睨みつけた。レイが剣に手をかけたのが見えた。
「レイ、ダメよ。控えて。すぐに出ていって!」
「それはできません。お命に危険あれば、私がお守りいたします」
そのときの私の中には、悪魔のような怪物が潜んでいたと思う。
震えながら必死にレイに命令するセシルの首すじに唇を走らせ、挑発的な視線をレイに送った。
「いい心がけだな、騎士よ。そこで一部始終を見ていろ」
レイに冷たくそう言い放つと、私はセシルの両手首を左手で押さえ、右手の甲で王女の頬をなでた。
セシルは恐怖に震えていたが、それは私を怖れてではなかった。
「レイ、お願いよ。出ていって」
セシルの懇願には耳を貸さず、レイは剣に手をかけたまま、私たちをじっと見据えていた。
「レイ、命令よ!出ていきなさい!」
必死で言い募るセシルの目には、大粒の涙が溢れていた。それでもレイは動くことはなかった。
ついにセシルは、悲痛な叫び声をあげた。
「アレク、もういいわ! 貴方の好きにしてちょうだい。でも、レイの前ではやめて」
「彼を愛しているからか」
セシルはぐっと黙り込んだ。そして、体から一気に力を抜いた。それは明らかに降参の意味だった。
私はそのままレイを見た。
「お前はどうなんだ、レイ。セシルを愛しているのか」
私の問いに、レイは目を伏せて、静かに答えた。
「私の命にかえましても、王女様をお守りいたします」
私はセシルの手首を離してベッドから降り、レイのほうに向き直った。
「見事な覚悟だ。セシルを頼む」
「心得ましてございます」
ベッドの上に丸まって嗚咽を漏らすセシルを、私は両手で優しく支え起こした。そして、レイにこう言った。
「二人きりで話がしたい。外してくれないか」
レイはすぐに隣室に下がって行った。
ドアが閉まって静寂が訪れると、私はセシルの横に腰を下ろした。
「手荒なことをしてすまなかった」
「いえ」
セシルはもう泣き止んでいたが、まだ少し震えているようだった。
ナイトガウンの上から、私はセシルにブランケットを羽織らせた。
彼女が落ち着くのを待って、私は口火を切った。
「もっと、私を信頼してくれないか?」
「え?」
セシルはビクッと肩を震わせて、そして驚いたようにこちらを見た。
「私は何があっても、この国も君も、裏切ることはない。だから、そんなに怯えずに、私を信じてほしい」
「アレク、私は……」
私はベッドから離れて、暖炉を背にして立った。
寝室の暖炉には、石炭の赤い色がチロチロと見えるだけだったが、柔らかい温かさが私を包んだ。
「明日の休暇に先立って、君は侍女たちの実家に書簡を出しただろう」
セシルがは黙っているので、私は先を続けた。
「彼女たちを側室に召し上げたいが、嫌なら王宮に戻らずともいいと。代替職として秘書のポジションも用意して。あんな強引な手段で侍女を任命したのに、ずいぶんと親切な話だな」
「あの子たちは、思った以上に賢かったのよ。愛妾より秘書が向いているわ」
王女はわざとぶっきらぼうに言った。
だが、その目には戸惑いの色が浮かんでいた。私が知っているとは思わなかったのだろう。
「同じ書簡は、クララの実家にも送られていた。君はクララが戻ってこないことを怖れたんだろう。だから、あんな強行手段に出た。私のために」
ナイトガウンを握った王女の手に、力がこもったのが分かった。
私はそっとセシルに近づき、その手に自分の手を重ねた。
「心配しなくていい。私はクララを、自分のものにするつもりはないんだ。君がレイを諦めたのと同じ理由で」
「アレク」
「私たちは王族だ。王族としての宿命がある。一人の人間としての幸福を求めてはならない。だが、君は同じ苦しみを理解し合える、唯一の友だ。私を信じて、一緒に戦ってくれないだろうか」
私の言葉を聞いて、王女は両手で顔を覆って、静かに泣いた。私はその肩を抱くと、優しく言った。
「もう無理はしなくていい。君は気を回しすぎだ。こんなに酔うほど、罪悪感に苛まれる必要はないんだ」
私はそう言うと、ベッドを立ってドアのほうに向かった。
ドアノブに手をかけたところで、王女が小さく言った。
「ごめんなさい」
私はそのまま振り向かずに頷いて、寝室を出てドアを後ろ手に閉めた。
ドアに寄りかかって大きく息を吐いてから、近くに跪いて控えているレイの肩に手を置いた。
「ご苦労だった」
「は」
そうして、私はまた後宮の長い通路を自室へと引き返した。
さっきの出来事で、堅固だったレイの結界が緩みはじめていた。クララは無事にこの闇を抜けられたことだろう。
クララのことを思い出していた。
突然、寝室に現れたクララは、まるで聖女のように清らかで美しく、その愛らしさに、柔らかさに、目がくらむようだった。
抱き上げたときの軽やかな肢体。揺らめいて光る髪。ほのかに香る香油の甘さ。どれもが悪魔のように魅惑的だった。
そして、私を癒やしたいと言って見上げる、熱で潤んだ紫の瞳。私の首に回された、折れそうにか細い腕。そして、抱き寄せた私にふれる胸。
どれもが狂おしいほど愛おしく、私の理性は吹き飛んだ。
それでもあのとき、クララの唇を、そのすべてを、奪ってしまおうとしたとき、クララの胸元にキラリと光るものが目についた。
それは、私が彼女にプレゼントした、あのペンダントだった。
その途端に、眩しい日の光の中で、幸せそうに笑っていたクララを思い出した。私が、人生で唯一愛した女性の、その眩いばかりに輝く笑顔を。
彼女は、こんな暗い王宮の、こんな醜い場所にいる人間じゃない。陽のあたる場所で、誰からも踏みつけられることなく、美しく咲き誇るべき花だ。
ここで私が手折ったら、きっとすぐに枯れてしまう。
ほんの少しの間だけ、ベッドの上で彼女を抱きしめることを、私は自分に許した。
キスをすることはできなかった。それをしてしまえば、そのまま最後まで止められないと、確信していたから。
しばらくして、私は立ちあがり、クララに背中を向けた。自分が欲情しているのを、彼女に見られたくなかったのもある。
だがそれよりも、あれ以上近くにいたら、自分を抑える自信がなかった。
「帰ってくれないか」
私は息を整えながら、なるべく冷たく聞こえるように言った。
「殿下。あの、私にお役目を全うさせてください」
震える声で嘆願するクララを、その場で抱きしめて奪ってしまいたい衝動に駆られた。
私はグッと唇を噛んだ。そうすると、唇からにじむ血の味とともに、私は少し冷静になれた。
「いいから出て行ってくれ!君には無理だ」
クララは、ベッドから起き上がると側に来て、私の背中に手を添えて頬を寄せた。
「私ではダメですか? 私は先輩を……」
胸にこみ上げる劣情の炎に突き動かされ、私はクララを壁に押し付けた。
それでも、クララに触れずに、彼女の頭の横に両手をついただけだった。
そして、泣いているクララから目を逸らしたまま、なんとか声を絞り出した。
「頼むから帰ってくれ。君を傷つけたくないんだ」
私はクララを残して部屋を出た。そして、そのままセシルのところへ向かったのだ。
クララのことはカイルに託して。
今夜のことは、たぶん誰にも知られることはないだろう。だが、誰が知らなくとも、私は忘れることができないと思う。
愛する人から求められた、生涯でたった一度だけの記憶として。
王族ではなく、男としてただ一人の女性を欲した夜を。
そして、王族として生きる覚悟をして、その思いを捨てたことを。
後宮の通路は闇に冷えきっていたが、どこかからクララの甘い残り香が漂ってくるような気がした。
それが錯覚だと分かっていても、私はその香りに慰められていた。