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火炎に、換えて

 目で追うことすら難しい斬撃。

 ヒイロの型はあまりにも自由で、一合防いだと思うと、まるで予想もしてない方向からの追撃が襲う。

 微かな隙が見えた、と思ってそこに剣を差し込むと、その瞬間にはヒイロの姿はない。


「後ろだよ」


「っ!?」


 声に反応し、背後に剣を振る。

 甲高い金属音。そのまま距離を取る。

 ヒイロは、曲がりなりにも剣術を身に着け、気力を取り戻して肉体の強化ができるようになったはずの俺からしても、果てしなく遥か先にいた。

 構えた、と脳が認識した次の瞬間には剣が迫っている。


「もっとだ、チヒロ。もっと、神経全てに気力を通すんだよ」


 上段からの振り。真横に掲げて防ぐ。飛び散る火花。

 しかしそこから黒い剣は防いだ剣の腹を添うように、ぐにゃり、と不自然に動いた。そのまままるで獲物に這い迫る黒蛇のように俺の右腕を裂こうとする。

 マズい。

 瞬間的に意識の集中。細かい制御などしている余裕はない。右腕の表面を発射口にして噴き出る蒸気のイメージ。……シャルマの使う、あの技を。


「おおっ」


 それに驚いたのはヒイロ。

 今にも剣を持つ右腕を切断しようとしたヒイロの黒い剣は、突如として巻き起こった突風によってその軌道を逸らされた。

 シャルマの風の盾、見よう見まねで発動してくれた奇跡に感謝する。咄嗟の判断だったが失敗していれば腕を失っていた……。


「魔術か。どうやらいい先生に出会えたようだね」


「まあな、ちょっと酒癖悪いけど」


「やれやれ……チヒロの才能には嫉妬するよ」 


 小さな言葉のやり取りで、息を落ち着ける。当然ヒイロの息は乱れていない。

 ヒイロが僅かに微笑んだ気がした。

 構える剣に合わせる切っ先。さながらそれはスポーツマンシップに則った試合のようだ。

 合わさった剣先が微かに当たり、キンと小さく鳴った。それをきっかけにしてヒイロの再びの斬撃。

 一歩踏み込んでの喉元への突き、それを同じく一歩引いて躱す。次いでヒイロは飛び出した勢いのまま大きく体を回転させて、威力を乗せて横薙ぎに振り抜いた。


「ぐうっ!!」


 引いた足で強く地を蹴ることも間に合わず、不自然な体制のままで強引に剣で防ぐ。

 しかしヒイロの一撃はその防いだ剣ごと、俺の体を弾き飛ばした。


「ほら、足」


 ヒイロの呟き、ハッとして極限まで硬化を高める。

 突き出された剣先。俺は崩された体制のまま。左足の付け根に剣が当たり、僅かに切っ先が肉をえぐった。


「まだだよ」


 痛覚を誤魔化すように歯を噛み締めて追撃に備える。カッ、カッ、と火花が散る。まるで鬼人のように乱暴な連続攻撃。二合、三合、四合、受ければ受けるほどにその剣圧は威力を増す。

 そしてとうとう押し負ける形で、構えが弾き飛ばされた。上体がのけ反る。だめだ、完全に懐がガラ空きに……。


「もっと気力を集中させて。全身の血流に乗せて、手足の指先まで気力で満たすんだ」


 しかし急所への追い打ちは来ない。俺が構え直すまでの間、ヒイロは、命のやり取りの最中だというのに俺にそんな言葉をかけていた。

 まるで優しい母のように。まるで厳しい父のように。

 こんな極限状態の戦いの最中だというのに、ヒイロはまるで俺に戦いを指南するような動きしかしない。

 こっちは全力の上の限界を越えているというのに、どういうつもりなのか。


「相手の小手先の動きに集中を乱されるな。常に相手の目を見続けるんだ」


 そして徐々に、徐々に、俺はヒイロの化け物じみた動きに反応できるようになって行く。

 左からの振り払い。シャルマの得意とする風の盾で防ぐ。弾き飛ばすまではいかなくとも軌道を変えるだけで反撃のチャンスになる。

 頭上からの振り下ろし。気力を纏わせた長剣で滑らせるように弾く。重さと威力を増す上段からの攻撃には真正面から受けるよりも受け流すことで直撃を避ける。

 正面からの突き。間に合うなら剣先同士をぶつけて軌道を曲げる。踏み込みの乗った直線的な攻撃はその先端に力を加えることでバランスを崩すことが出来る。


「はあっ、はあっ……」


 しかしそんなヒイロとの攻防もついに終わる。子供の相手をするようなヒイロと、これ以上ないほどの全力を求められる俺との間には、明らかな差があった。

 膨大な気力のおかげで疲れ知らずだったはずの肉体は、極限状態の攻防で消耗し尽くして息が上がっている。

 一瞬たりとも気が抜けない。常時最高度の気力の集中を求められる。

 気力の消耗が大きすぎたのだ。

 涼し気に立つヒイロと、気力を使い切って立っていることすらやっとの俺。


「残念だけど、ここまでのようだね」


 その言葉に証明されるように、ガクン、と唐突に俺の片足から力が抜けて膝を地に着ける。あまりにも強大なヒイロを前にして、ついに俺の気力が底を突いたのだ。

 ……ヒイロとの戦いは、決定的な決着がつくことなく、俺の敗北で終わった。


「なにを、考えてる……はあっ、ヒイロ……?」


「チヒロ。君はまだこの世界に来たばかりで、あまりにも未熟だ。仮初の肉体を持つ僕たちの、特別な力に君はまだ気づいていないんだ」


「特別な、力……?」


「言っただろう、君はきっと僕と同じ位置まで上り詰めることができる。……けれどそれは今じゃない」


 ヒイロは、悲しげな表情で俺のことを見つめていた。


「僕を殺せるのは君だけかもしれない」


「はあっ……はあ、ヒイロ……?」


「チヒロ、もう腕を上げるのも辛いだろう。今にも足が崩れそうだろう」


「な、に言ってやがる、俺はまだまだ、やれるってんだよ……!」


「僕はこれからこの騒ぎを収めに行くよ。けれど僕は正義の味方だから、殺すことでしか幕を引けない。他人のことばかり気に掛ける君の性格じゃ、許容できないことかもしれないね」


 俺の強がりとは正反対に、震え出したもう片足が地に着いて、俺はその場に跪いていた。カラン、と剣が手から零れ落ちた。


「おい、俺を殺すんじゃ、無かったのかよ……! 俺は絶対にお前の邪魔をするぞッ!!」


「悪いねチヒロ。僕は『殺そうとする者しか殺せない』……君は一度たりとも僕を殺そうとしなかっただろう? 殺意のない君を殺すことはできないよ」


 どうする。腹の立つことにヒイロの言う通りだ。もう腕は上がらない。足も動かない。

 けれどこのままヒイロを行かせたら、この悲劇の渦中にいる者たちが、殺されてしまうかもしれない。

 ……ヒイロに、殺させてしまうかもしれない。

 あいつの話を聞いてしまった今、あいつの手をこれ以上血に染めさせることが、俺にはどうしても許せない。


「僕を恨んでくれ、チヒロ。憎んでくれ。そしていつか僕を殺してほしい。……だから今は眠っていてよ。もうこれ以上気力を失うと、僕を止める前に消滅してしまうよ」


 ヒイロが背を向けた。そしてゆっくりと俺から離れていく。

 ……気力は、命の源だ。完全にゼロになってしまったら、それは死を意味する。

 ヒイロは消滅と言った。正規の方法でこの世に誕生していない俺たち転移者は、この世界で命を落とすと消滅してしまうということなのか。

 死ぬのは、怖い。消滅するなんて、嫌だ。

 だが。


「ヒ、ヒイロ……!」


 ヒイロは悪を倒すためにこの世界に来たと言っていた。そしてそれは呪いとなってヒイロを蝕んでいる。

 ならば俺はいったい何のためにこの世界に来たのだろう。

 生きる意味すらない人生から抜け出したかったから? 息の詰まるような世界から逃げ出したかったから?

 誰かに愛して、欲しかったから?

 死んだように生きていたあの頃の自分。誰一人にすら心を開けなかった真っ黒な自分。

 けれど気が付いたらいつしか、俺はこの世界で自然と笑えるようになっていた。


 違う。俺は愛してなんか欲しかったわけじゃない。

 ……愛したかったんだ。

 心を許して、安心して互いに信頼し合って。そして認め合って。

 そんな相手のことを、きっと俺は愛したかったんだ。

 俺は、誰かを愛するために、この世界に来た。

 そして今では愛することのできる大切な仲間に巡り合えた。こんなに幸せなことがあるだろうか。


 ……ヒイロは? ヒイロは今も独りで、この世界に来る前と何一つ変わらず、悪を倒すという妄執にとらわれ続けている。自分の意志で止めることもできず、殺すという手段しか取れない。

 そんなの、見て見ぬふりなんて、できるわけない。

 ヒイロは泣いているじゃないか。例え涙を流していなくとも叫んでいるじゃないか。

 助けを求めて、いるじゃないか。


「……だってヒイロ、お前は俺のダチだからな」


 だから俺はその手を取らなければならない。

 大切な友達が間違おうとするなら、それを止めてやらなきゃいけない。全力でぶん殴って、それは間違っていると教えてやらなきゃいけない。

 俺は震えて動かない手を、最後の力を振り絞って掲げた。


「待ってろヒイロ……!」


 魔力を。

 既に気力はガス欠だ。

 けれども。

 自分の身体の中心にある命の鼓動に耳を澄ます。

 命を、燃やしていく。少しずつ、少しずつ。気力がなくとも、燃やせるものはある。

 ヒイロに向けた右手の先に、かすかだが確かに、煌きの奇跡が巻き起こる。

 まだだ。まだ足りない。もっと命を燃やさなければ。

 その行為は、文字通り自分の命を削る行為だった。既に地に着いている両足からは急速に体温が失われていく。感覚も失われる。ふるふると震えている右手にも如実に異常が起こり始める。

 もっと。もっと魔力を。気力が命の源なら、命だって魔力になる。これではまだ足りない。あの化け物じみたヒイロを止めるためには、こんなものでは足りない。

 鼓動すら、止まる。


 ごめんな、メウ。お前が立派なレディになるまで面倒見てやれなくて。

 しかしまあ、どういう事情があるかは知らないが、お前は母親に巡り合えたじゃないか。俺の親代わりもここまでというわけだ。

 すまない、シャルマ。どうやらお前がご執心の貴重な検体はここまでのようだ。

 とはいえ、どうやら俺が特別なわけじゃないらしい。他にも転移者はいるようだし、またきっとお前の好奇心を満たしてくれる相手に会えるさ。

 悪い、エノ。お前を最後まで守ってやるっていう約束は守れそうにない。

 だけど、きっと俺の代わりに二人がお前たちをヴェルリヤまで連れて行ってくれるだろう。安心してくれ。できれば泣かないでくれるといいな。


「……そしてヒイロ。お前には二度も命を救われたな。右も左もわからない俺にこの世界のことを色々と教えてくれた。思えばあの時にはもう、俺が転移者だって気付いてたんだろ? 食えねえ奴だよ、お前はさ」


 メウ、シャルマ、お前らに丸投げして本当に悪いと思ってる。けどお前らなら俺の分まで頑張って、この町の悲劇を止められるって信じてるから。すまんが後は頼む。

 俺は友達を止めてやらなきゃいけないんだ。


 煌きが。

 右手の中に集まる煌きが、その形を確かなものにした。

 限界のそのまた先の限界まで命を費やして練り上げた高純度の魔力が、輝いていた。

 ……もう、大丈夫。きっと、届く。俺の願いはヒイロに届く。きっとヒイロの呪縛を解き放つ。


「フォイヤ」


 キーワード。

 それをきっかけに精製された魔力は急速に膨れ上がり、ゴオと膨れ上がる灼熱の火炎が巻き起こる。

 極限まで研ぎ澄まされた集中力が、それを抑え込む。火炎は体積を縮めて、ボーリング球程度の大きさの火球に姿を変えた。

 超高度の熱のカタマリ。かつては半ば頑なにこの魔術だけを練習していた。

 火属性魔法・ファイアボール――


「やっぱ魔法っつったら、炎だよなあ……」


 そして、射出。

 手を離れた火球は音速を越えた超音速で大気をビリビリと切り裂くように飛んで行った。

 火球の軌道の後に残される閃光はチリチリと空気を焼いて焔を飛び散らせる。

 超高度の魔力の接近に気が付いた時には、もう遅い。

 彼は振り返ることすらできない。


「バカなっ!? チヒロ……ッ!?」


 驚愕の表情。

 そして放たれた火球は……一寸の狂いもなく、白銀の鎧の背中に吸い込まれるように到達した。

 着弾、そして、巻き起こる爆炎。

 灼熱が辺り一面を覆いつくし、火球から生れ出た数体の火炎の龍がたった一人を食らいつくすように何度も何度も襲い掛かった。

 そして夜の闇を煌々と照らす灼熱の火柱が立ち昇る。それはほんの十数秒、見上げる者の誰も彼もを釘付けにした。

 この惨劇に裁きが下るように。その火柱は高く高く天を衝くように。

 そして瞬く間に精製された魔力を貪り食らい、火柱は跡形もなく消滅する。

 そのあとに残されたのは、白銀の鎧とその顔を炎に焦がされ、煤で黒く染め上げられた、一人の男だった。彼はカシャン、と熱で溶けだして変形してしまった鎧を軋ませて、一歩、動いた。


「チ、ヒロ……どう、して……」


 シュウ、と白く、黒く、灰色の煙を上げて、男は呟いた。

 また一歩、歩を進めた。

 今まさに自身を灼熱の中に投じたであろう、その相手に向けて問いかけながら。


「どう、して、こんなことを……?」


 返事が返ってくることはない。

 黒く焼け焦げた男が絶望のままに、膝から崩れ落ちた。全身を焼き尽くすような熱風は彼の肺をも焼き焦がしていたのか、口内からも僅かに煙が零れる。

 残り火が風に揺られている。

 火炎によって全てが飲まれた町の通りで、その場に崩れ落ちたのは一人の男。その場にはその男一人しかいない。

 彼が問いかけた相手は、その身全てを火炎に換えて、この世界から消滅していた。

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