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エノちゃん、バブみある

 柔らかな感触が頭に触れている。

 それはゆっくりと頭の頂点から前髪の辺りまで触れて、また離れては頂点に置かれる。緩慢な動作でそれを何度も繰り返している。

 ずっとずっと昔の記憶。まだ物心がついたかどうかも怪しいような頃、母に抱かれて、こうやって頭を撫でられていたんだったかな……。

 いつしか母は冷たくなって、そうやって甘えることもできなくなって……どうしてだったっけ。

 家族というものは本当はもっと暖かいものなんじゃなかったか。

 けれど俺が知る家族は、いつの間にか無味乾燥なものになって……。


「……おかあ、さん」


「は、はいっ!!」


 パチリと目を開けた。

 目の前には薄桃色の髪の毛と犬耳、ぱっちりとした長いまつ毛と真ん丸のルビーのような紅の瞳が特徴的な少女。

 その少女の手が遠慮がちに俺の頭に置かれている。

 ……撫でられて、いた?


「…………」


 俺、今なんか口にしたよな。

 寝ぼけて、なんか喋ったよな。

 物凄い恥ずかしい寝言を、聞かれたのでは。


「なにをしているのですかエノさん」


 真横になったエノの顔を見ながら聞いた。

 いや、真横になっているのは俺の方だった。


「い、いえっ、申し訳ございません、わたしのような者が出過ぎた真似をっ……!」


 ビクッとなって慌てて手を引っ込めた。

 エノは頬まで上気して、髪をしっとりと濡らしている。体からはほかほかと湯気まで上げている。甘い香りが漂ってくるようで、ドキリとさせる。

 そうか、エノに風呂に入って来いと言ったんだったな。

 ……どうやら少し居眠りしてしまったらしい。


「風呂、気持ちよかっただろ?」


「えっ、あ、はいっ、とても心地よかったです……」


「お湯に浸かるってのもいいもんだ、な?」


「は、はひっ」


 エノは大人しいように見えて、どうやら年相応に悪戯心はあるのかもしれない。

 風呂上がりに居眠りする俺を見つけてついちょっかいをかけたのだろう。うん、年齢相応に可愛らしいじゃないか。そういうことにしておこう。俺が発してしまったかもしれない寝言は無かったことに。


「エノ、髪の毛まだ濡れてるじゃないか」


 ベッドから上半身を起こしてエノの方を見ると、まだ額にかかる前髪の先からポタリと水滴が落ちるくらいだった。


「これは、その……おふろの傍にあった布切れがいつもと勝手が違いましたので……」


 タオルに慣れていないということか。

 まあこの世界にはドライヤーもないし、ある程度湿り気を残してしまうのは仕方がないのだが。

 とはいえエノの髪の毛はさらさらで美しいし、風呂上がりのケアを怠ってパサついてしまうのも勿体ない。


「タオル持ってきて、ここに座りな」


 ベッドの淵を示す。


「たおる……?」


「えーと、その布切れだ」


 合点がいってエノはとことこと小走りにタオルを手に取り戻って来た。そして今まで俺が寝ていたベッドの脇にお上品にちょこんと座った。


「わふっ……」


 タオルを受け取ってエノの髪に優しくあてがう。あまりごしごしと強くならないように、ポンポンと軽くたたくように水気を吸い取って行く。

 女の子の髪の扱いなんて詳しく知ってる訳はないが、強くこするのが髪に良くないことくらいは知っている。


「わ、わわ……」


 と、エノは言葉にならないようで両手をわきわきさせて慌てている。人に髪の毛を拭かれるのは初めてだろうか。


「痒いところはございませんかー?」


「え、ええっ、な、なんでしょうか!?」


 お決まりの冗談は通じなかった。

 そういえば女の子は髪に触れられるのはあまり好まないと何かのネットの記事で読んだ覚えがあるが……ええと、なんでそんな記事を読んだかは聞かないでほしい。

 エノは混乱はしているものの、どうやら嫌がってはいないようだ。きゅっと肩を縮めてされるがままになっている。


「エノは大人しくしてくれるからいいなあ」


 ……ちなみに、日頃メウと一緒の部屋にいる時は、タオルの存在すら知らないかの如くメウは髪の毛をびちゃびちゃにして出てくる。

 おまけに本物の猫のようにブルリ、と頭を振って水滴を飛ばしてそれで終了。あまりにも酷いのでいつもは俺が拭いてやっていた。当然エノにしているように優しくない。力の限りゴシゴシだ。

 ぎゃあぎゃあと喚きながら暴れるので、短めのボブカットではあるが一苦労するのである。


「……わ、わふ」


 不思議な鳴き声をあげるエノの髪の毛を、ぽんぽん、ぽんぽん、と優しく拭いていく。

 ……タオル越しなら耳に触れてもいいかな、と悪い考えがよぎったが、あんな事実を聞かされてしまった以上は無闇に触れられない。敢えてそこだけを避けて、全体的に髪の毛を拭き終えた。


「ほい、終わり。ホントはドライヤーと櫛があればよかったんだけどな。いや、櫛くらいならあるかな……俺がいつも使ってないだけで」


「…………」


「エノ?」


「……はぅ」


 何やらぽーっとしてしまっているようで反応がない。

 確かに俺も美容室に行って髪を洗ってもらったり、乾かしてもらう時は何とも言えない心地よさがあるしな。

 あまりに心地よくてトリップしちゃったのだろうか。


「おーい、エノ? 俺も風呂入って来るからな?」


「…………ふぁい」


 覚束ない返事が返って来て、こりゃだめだと判断した俺は諦めて風呂場に向かった。

 まるで使う前と何一つ変わらないような綺麗な風呂場を見て、育ちで人は変わるんだな、と思った。メウが使った後の風呂場はいつも嵐が去ったような有様だったからである。

 簡単に体を流して肩まで浸かる。ああ、風呂の良さがわかるとは、日本人で良かった。


「……」


 ふと気が付くと、桶の中に薄桃色の長い毛がふよふよと浮いている。エノの髪の毛だ。

 それに気が付いてしまうと、忘れかけていた邪な妄想がもんもんもんもん……。


「っだあああ!!」


 ざぶーん。と波を立てて風呂から上がった。

 エノは色々と大人しくて世話が楽だが、メウと違って女を意識してしまう。ダメダメ!

 こんなのが続くと俺の正常な思考に悪影響が出る!

 いそいそと体を拭いて着替え、風呂場から脱出。ベッドに座って未だ呆けているエノを見てため息を一つ吐いた。


   ◇


 食堂に入ると、いつもバカ騒ぎをする冒険者たちで騒がしかったはずが、今日はしんと静まり返っていた。

 先客なのは中央に座ってジョッキを片手にしているシャルマと、窓際に座っている亜人の親子くらいだ。

 なんだかがらんとしていて寂しい気分になる。

 エノを連れて配膳カウンターまで行くと、すっかり顔なじみになったイ族のシェフが迎えてくれた。


「おう、あんちゃん、久しぶりだな」


「シェフこそ元気そうで何より」


 未だ名を知らぬシェフだが、シェフと俺は呼んでいる。もさもさの体毛の上に着た白い調理着とコック帽が非常にミスマッチで、そのミスマッチさが好ましいからだ。


「そっちは新顔だな?」


 とエノの方に注意を向ける。

 大柄なシェフに睨まれて――シェフは普通に見ているだけなのだが目つきが鋭いのでちょっと怖い――エノはビクッと体をすくめた。


「あんちゃんの連れってことは、たくさん食うのかい」


「あ、いや、こいつは普通でいい」


 メウのせいで変なイメージが付きまとっているのは勘弁してほしい。

 シェフから美味そうな料理の乗ったプレートを受け取る。量はいつもと同じだが、なんだか少し豪華だ。


「今日は客が少ないからよ、ちょっと手の込んだ料理にしたんだ」


「おお、そりゃありがたい。たまには静かなのも悪くないよな」


「ダラスの親父は商売あがったりだって嘆いてたけどよ」


 二人して笑う。こんな明らかにふっさふさの獣人と小粋な雑談で笑い合えるとは、人は変われば変わるものである。この世界に来たばかりの頃は目に入るもの全てに興奮して取り乱していたというのに。

 緊張しながらシェフから料理を受け取るエノ。

 そしてエノを連れて先客のいる食堂の中央のスペースに行く。


「あ、チヒロさん、エノさん」


 そこには既に三杯のジョッキを空にしたシャルマがいた。


「あれ、メウは?」


「メウさんは急いで食べて、もう部屋に戻っちゃいました。何かあったんでしょうか、ものすごく慌ててたようなんですけど……」


「ふうん、あいつが飯より優先することなんて何があるんだろうな?」


「ああいえ、いつも通り五人前をペロっと食べてから、部屋に戻りましたよ」


 ……メウの奴はいつの間にやら大食いだけでなく早食いまで修得していたか。


「あっ、チヒロ様っ」


「おおシノちゃん、会いたかったよ。相変わらず可愛いなあ」


 心のオアシスであるシノちゃんが、両手にジョッキを持ってやってきた。

 ひょこひょことト族特有のうさみみを動かしながら、にっこりと天使のスマイルを向けられる。


「えへへ、褒めても何も出ませんよ」


 そういって、ドンと音を立ててシャルマの前にジョッキを置く。

 荒くれた冒険者たちからいつも可愛い可愛いと褒めちぎられているので、この手のお世辞には手慣れているご様子。俺としてはお世辞でも何でもないのだが。


「あれっ、そちらのお嬢さんは初めましてですかね?」


「あっ、はい、わたしはエノと申します。チヒロ様の従者でございます」


 へえ、そうだったんだ。


「ご丁寧にどうもっ! 私はこのつばめ亭の雑用係のシノですっ」


「あの、シノちゃん、ちょっとシャルマのペースゆっくり目で頼む」


 こそこそと小声になってシノちゃんに耳打ちする。


「わっかりました~お任せくださいっ」


 これもいつものやり取りである。

 シャルマはとにかく宿に泊まるとバカみたいに酒を飲む。飲むだけなら問題ないが、ものすごくペースが速く、ものすごく悪酔いする。

 ヴェルリヤにいた頃は一日三杯まで、という血の誓約をシャルマに誓わせたのだ。なんせ国王のおひざ元でとんでもない騒ぎを起こす恐れがあったのだから。

 そして今日はシャルマにとって久々の解禁日。なにが起こるかわからないのだ。しっかりと俺がお目付け役にならなければ。


「チヒロさんも、今日は飲みますよね?」


「はあ?」


「え~だって、いつも一緒に飲んでくれないじゃないですかあ」


 どうやら、もうほんの少し酔いが回っているようだ。

 まあ今日は他に迷惑をかけそうな客もいないことだし、エノもシェフの作った料理に目をらんらんとさせているし。あ、エノの奴よだれ垂らしてる。おまけにしっぽもぶんぶん振り回してる。俺は別に飼い犬に"待て"をした覚えは無いのだが。


「エノ、食べていいんだぞ?」


「あっ、は、はい!」


 そう言うと、フォークでぐさぐさと料理を刺しながら口に運び始めた。普段物腰柔らかな大人しい少女が大口を開けて食事にかぶりついてる姿は、ギャップがあって非常によい。

 あー、しかしこれ前にもどこかで見た光景だな。確かまだメウが食器に不慣れだった頃のお行儀の悪い食事方法がこれだった。刺して食う、刺して食う。態度は上品だし考え方もしっかりしているが、ク族の集落の文明レベルはかなり低かったのだろう。エノにも今度きちんと教育してやらなくちゃな……。


「さ、チヒロさん」


 エノがぱくぱくと食事に手を付けるのを微笑ましく見ていると、目の前にドンとジョッキが置かれた。


「俺はあんまり飲まないって知ってるだろ?」


「全く飲めないわけじゃないことも知ってますよ~」


 くそ、屁理屈をこねやがって。


「さっきは助けてあげたじゃないですかあ」


「さっきって?」


「だからあ、チヒロさんと誰が一緒の部屋になるかっていう……あ、すいません口が滑りました」


 急にすっと酔いがさめたように真顔に戻るシャルマ。その芸当ができるなら普段からそうして欲しいものだが。

 まあ、酒を飲むときには酔おうと思って飲むのとそうでないのとでは酔い方が全然違うしな。シャルマの場合は飲める時には思う存分酔っ払おうと思って飲んでいる節があるし。


「どういうことだ?」


「ま、ま、いいじゃないですかそんなことは。とりあえず乾杯しましょう」


 何がとりあえずなのかわからないが、一杯くらいならまあ付き合ってもいいか。


「はいはい、そんで今日はなんの記念日?」


「う~ん、まあ、きっと誰かの誕生日ですよ。誰かさんおめでとう~」


 なんて適当な記念日なんだ。シャルマにとっては酒を飲む理由であれば何でもいいのだろうが。


「んく……んく……っぷはあ」


「相変わらずいい飲みっぷりだことで」


「えへ~お褒めにあずかり光栄です~」


 褒めたつもりはないが、シャルマは気を良くしている。シノちゃんのおかわりを持ってくるスピードが遅いので、シャルマは若干手持無沙汰だ。

 空になったジョッキを指先で弄びながら、シャルマはつまらなそうにした。

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