ヒイロ、チヒロ
ガタン、ガタンと音を立てて、体が揺れていた。いや、揺れているのは体ではない。地面が揺れているから、その振動で俺の体も衝撃で揺れ動いているのだ。
地震か、とも思ったがどうやらそうではない。そう、これは、電車に乗って揺られているときのような感覚に近い。
そこまで意識が及んで、俺が今何かの乗り物に乗って揺れているのだと認識した。
しかしここしばらく乗り物に乗ることもなかった。大学を卒業して以降はずっと実家に引きこもっていたし、一人暮らしを始めてからは家と職場のコンビニとの行ったり来たりで、遠出をするようなこともなかった。
……そこまで考えて、何か大きな勘違いをしているような気がしてきた。
獣が……。確か俺は、巨大な獣に襲われるような夢を……いや、夢では……。
「……はっ!?」
急激な覚醒が訪れた。
そうだ、確か俺は巨大な獣の牙に身体を引き裂かれ……それで死ぬ直前で……。
そこまで考えて、背中からわき腹に鋭い痛みが走った。
「痛……ってえ……」
意識してないからこそ痛みを忘れていたのか、傷を負ったことを思い出し、その痛みを自覚してしまったことで、ズキズキと熱を持ったような痛みに襲われる。
「目が覚めたかい? まだちゃんとくっついてないから、無理に動くと傷が開くよ?」
と、そんな痛みと格闘していたら、近くから声が聞こえた。
どうやら自分は寝かされていたらしい。牙によって傷つけられた体には布が巻かれており、元は白い包帯のようなものだったのだろうか、滲んだ血によって赤黒色く変色していた。
そもそもここはどこなのか。見回してみるととても狭い空間のようだった。木造の小さな空間。寝かされていた場所には無造作に布が敷かれており、少しでも寝心地が良くなるようにとの心配りが感じられる。
立ち上がることも困難な狭さで、よく見ると片側には木を組んで備えられた簡素なベンチのようなものも見られる。窓もない暗い空間ではあるが、壁は途中までは木造のままだが、半分ほどの高さで帆布のような素材に代わり、そのままぐるっと覆うように簡素な造りの枠組みを越えて反対側の壁まで包まれている。いや、これは帆布というより幌だ。
ガタガタと揺れ動くその室内。……いや、室内ではない。そこまで考えて俺は結論に達した。
これは馬車である、と。
そして俺はようやくある程度の現状認識を終えて、声のした方へと目を向けてみた。
「無茶するよね、あんな森の奥深くまで入り込むなんてさあ」
気楽そうな、人の好さそうな声の主は、馬車の前部の位置に座り、こちらに向かってにこやかな笑顔を向けていた。
「まぁでもホントによかったよ。僕が通りかからなかったら、今頃どうなってたか……って、なんか恩着せがましかったかな?」
その男は、爽やかな笑顔を浮かべる若い男だった。さっぱりとした短髪で、左目のあたりに縦に一筋、十センチほどの古い傷跡が残る。
自分の感覚を頼りにするならその男はきっと二十歳かそこらだろうと思った。
そしてその男こそが、自分の窮地を救ったあの男だとも理解した。
「まぁ、体を起こして何ともないなら、山は越えたかな……なんちゃってね。丸二日も目を覚まさなかったから、さすがにマズいかと思い始めたころだったんだ」
男は手練れの御者のように巧みに馬を操り、ゴツゴツとした舗装もされていない悪路を走らせている。小さな小石に乗り上げるたび、ガクンと体が揺れて傷が痛んだ。
「あんたは……」
「お、やっと喋ってくれたね。もしかして言葉が通じないのかと思って緊張しちゃったよ」
にこにこと人の好い笑顔。悪意のないその表情に、やられてしまう。
「……っと、自己紹介がまだだったね。僕はヒイロ、正義の味方をやってるんだ」
「……え?」
先刻見た全身を包む白銀の鎧は外され、今は軽装になっている男……ヒイロ。今、彼は自分のことを何と言ったのだったか?
「悪い、聞き取れなかった。もう一度いいか……?」
「正義の味方、だよ」
聞き間違いではなかった。
いや、待て。ここは異世界だ。正義の味方、なるものが当たり前のように存在する世界なのかもしれない。そう、例えば俺がこの男を見て自然と感じた、勇者、のようなものなのだと思えば……。
「すまないが、その、正義の味方っていうのは何をするんだ?」
「ははは、簡単なことだよ。弱きを助け、悪をくじく……それが正義の味方さ」
きらきらとした……少年のように笑うヒイロ。やはり、よく、わからない。いやもう難しく考えるのは止そう。彼は俺を助けてくれた。そのことには何ら変わりないのだ。正義の味方だろうと勇者だろうとなんだろうと、彼に命を救われたのだ。
「助かったよ、ありがとうヒイロ。冗談じゃなく、あんたが来てくれなきゃ俺は死んでた」
「いいのさ。僕は自分の正義を貫いただけだよ。目の前に苦しんでいる人がいる、それだけで理由は十分だ」
言っていることはまるで子供のようだが、きっと彼はその若い信念を貫き通すために努力をしているのだろう。そうでなければあれほどの獣を容易く三体も始末することなどできるはずがないのだ。
「それで、君は? ハジャの森は何の準備もなく立ち入れるような場所じゃないはずだけど……あんなところで一体何をしていたの?」
またこれだ。なんと言ったものか、あのク族の少女……エノ、に伝えたように馬鹿正直に答えたところで、信じてもらうことは難しそうだろう。別の世界で死んで転移したらあそこに放り出されたのだ、とは言えない。下手をすれば記憶喪失扱いか、悪ければ変人扱いか……。
「あぁ、俺は狩谷……ああいや、千尋と呼んでくれ。……まぁ、なんというか、やむにやまれぬ事情があってな……」
「……千尋か。なるほど、まあ、事情があるなら仕方がないね」
いいのか、それで。こちらが不安になるほどあっさりと呑み込んでくれた。
「僕はヒイロ、そして君はチヒロ。なんだか名前も似ているしどうやら僕と年も近そうだ。散々な目にあっていたとはいえ、まぁこの出会いも何かの縁だ。仲良くしてくれると嬉しいよ」
そういって御者の席から馬車の中に手を差し出してくる。俺はわき腹の痛みをこらえ、手で押さえながら反対の手を差し出し、その手を握った。
……ヒイロの年は二十歳そこらかと思ったが、俺と年が近いとは……。と、そう思考したところで、俺はこの世界に転移する際に肉体を若返らせていたことを思い出した。
「そういえば俺は二日も眠っていたとか言ってたが……」
「まるで目を覚ます様子が無かったからね。あまりにも血を失っていたから実は半分賭けだったのさ。でも何とか一命をとりとめたようでよかったよ」
ということはつまり、ヒイロに救われたあの時から丸二日も馬車に揺られていたということか。体感としてはほんの少し前のようにも感じられる。眠っていたというよりは意識を失っていたという方が近いのだろう。眠気はないが体力が低下していて、身体を起しているのもつらかった。
馬車の外を覗くと、そこには平原が広がっていた。あれだけ広大だった森ははるか遠くにも見えない。
「まあ、とはいえまだ町まではだいぶあるんだ。手当は一応したけど、恥ずかしながら医療の方は門外漢でね。傷が開くと危ないからしばらく横になってるといいよ」
「あ、あぁ……実はさっきから傷口がジンジンと痛くてな……悪いがそうさせてもらう」
お言葉に甘えて、寝かされていた場所に再びゆっくりと横たわる。まだ熱を持ったような痛みはあるが、あの巨大な傷痕が嘘のように再生しているのは感じられた。縫合したのか、なんなのか。少なくとも元居た世界ではあれだけの傷を短時間でここまで治療する術はないと、ぼんやりながら思った。
「……町がある、って言ったな?」
「うん、国境近くの小さな町だけどね。あまり治安がいいとは言えないんだけど……少なくともケガ人を治療することはできるし、森の中に置き去りにするよりはマシだからね」
「そうか……」
「ここはラズリス、っていう国の中でも南東の辺境なんだけどね。ラズリスは大きな国で、北側は世界の果てと言われていて、広大な海に面している。未だ誰もその先に何があるのかを確認してない……つまり未踏破領域さ」
「未踏破領域?」
「様々な危険や、古代の封印なんかによってその実態が解明されてない地域や場所のことさ。君がさっきまでいたハジャの森……ハジャの森自体は未踏破領域ではないんだけど、その更に東側には巨大な崖が行く手をふさいでいてね。その崖を越えた先には更に広大な大森林が広がっているとされてる。通称はクジャの森だ。西側のハジャの森と東側のクジャの森を合わせて混沌の森林、なんて呼んだりもするんだけど……その奥地にあるクジャの森の方は未踏破領域に指定されてるんだよ」
人の手の届かない大自然の秘境、という解釈でいいのだろうか。
殆どすべての土地が開拓されつくした地球に住んでいた身としては、そういう話を聞くとわくわくするような、恐ろしくもあるような気持ちにさせる。
少なくとも異世界ライフに心ときめかせる気持ちが失われたわけではないのだが、今となっては命の危機に瀕して少し自粛しようという気持ちが強くなった。無責任に冒険心が沸き立つということはなかったのである。
「北側には世界の果ての海、東側には超巨大な混沌の森林。ラズリスはそういったちょっと特殊な環境なのさ」
「特殊というと……」
「つまり、未踏破領域の調査に挑もうとする冒険者がわんさか集まってくる土地なんだ。特に今向かっているリルという町は南側のイファサという国との国境近くでもあるし、人の行き交いが多い町ってことだよ」
「ふうん……」
気のない返事をしながら。俺は一つの言葉に意識を取られていた。
……冒険者。ヒイロは確かにそう言った。つまりこの世界にはいるのである。冒険者と呼ばれる者たちが。
「ヒイロも冒険者なのか?」
「うん? いや、僕は正義の味方だよ」
「……」
「まあ、やっていることは冒険者に近いかもしれないどね」
はは、と軽く笑う。悪い奴ではなさそうだし、親切にもいろいろと教えてくれるこのヒイロという男をどう判断していいものか、と悩むのであった。
ということで勇者らしき何者かに助けられて一命をとりとめたのでした。
「いやー、俺はてっきりこのまま死んじまうと思ったんスけどねえ」
出たなチャラ男。
「ちょっと、その呼び方はないでしょ」
俺は知ってるんだよ、小野君。君が四股してるってことをね。
「あー、それは違うんスよ、狩谷さん」
違うって何がだよ。あれ、もしかして内なる声さんに適当なこと言われたのかな。
「いやちょっと情報が古いっすね。五股です」
みほちゃんに手出してるじゃん!
動くのが早いねー!? まだ俺が死んで2、3日でしょ!?
「いやーこういうのは、早けりゃ早いほどいいスからねえ」
もういいよ! そっちの世界の話はなるべく避けて!
こっちは謎の優男から色々異世界の話聞いて、すっかり気分は異世界モードなんだよ。
「優男の話は聞けてもチャラ男の話は聞けないんスか」
聞けないよ。もうお腹一杯だよ、小野君のモテ自慢は。
……ってかさ、小野君も聞いてた? 冒険者だよ冒険者、マジで存在するんだってさ。
「冒険者ねえ……俺、前から疑問だったんスけど、何で冒険者なんて危険な職業にみんな憧れるんすかね」
そりゃ、ロマンがあるからだろ。
魔境に潜って伝説の秘宝を手に入れるとかさ、ダンジョンに籠って古代竜を討伐するとかさ!
「それで死んだら意味ないっしょ。俺なら適当に地球の文明知識を利用して、大金持ちになって、奴隷少女を山ほど囲って毎日飽きるほど〇〇っすよ」
やめろ! 愛のないハーレムを語るんじゃない!!
チャラ男は消えろ!