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豹、狼

 俺が記憶を失っていると信じる少女は、どうやら生来の真面目な性格なのかきちんとわかりやすく説明してくれた。

 その少女がいうには、ク族というのはどうやら彼女のような犬耳を持つ種族である、らしい。犬耳少女がわんさかいる様子を夢想して、ついうっかりと口元が緩くなってしまった。そしてまたヒト族というのは自分のような一般的な人間を指す言葉であるらしい。


「かつてク族は力を持つヒト族に従う形で共生していました。ですがある時を境にその関係は破綻し、ク族は人里を追いやられたのです。このハジャの森と呼ばれる広大な大森林の奥地に逃げ込んだわたしたちク族は、それからヒト族と交わることなくひっそりと生き延びてきました。そして今なおヒトを恐れるク族は多く、この天然の迷宮であるハジャの森こそがわたしたちの最大にして最後の防壁なのです」


 そもそもこの世界にはヒト族以外にも、ク族のような人ではない民族が数多存在しているらしい。

 自分たちの文化を第一にし、ヒト族とは決して交わらぬ民族。ヒトと共生し人里に交じって生活する民族。強大なヒト族に敵対し、長きに渡り交戦を続ける民族、などなど。

 ク族というのはその中でも特にヒトを避ける民族らしい。それはかつての信頼関係を無為にしてク族を森の奥へと追いやったヒト族への怒りと不信から。


「君たちク族が人を嫌って避けているのはわかった。それで、人がク族をさらっているっていうのは、いったいどういうことなんだ?」


「……わたしたちク族は、他者に従属し、奉仕することを得意とする民族だと言われています。とはいえ長い間ク族という仲間内だけの生活を続けて来たので、今のわたしたちの世代ではヒトに付き従ったことのある者はいません。……恐らくヒト族の間ではク族はヒトに従順で都合がいいという話が伝わっているのでしょう。捕らえられたク族の仲間たちは……奴隷として扱われると聞いたことがあります」


「かわいそうな話だ」


 こんなにも見目麗しい犬耳少女を無理やりはべらせるだなんて……うん、まぁ、フィクションであればそれもまた良いのかもしれないが……。愛がなければハーレムは成立しない、それは数多の異世界モノを喰い漁ってきた俺なりの結論なのである。


「それにしても、要するに君たちク族は人に狙われていて危険なんだろう? 君はこんなところに一人で出歩いてたりして平気なのか?」


「わたしは……逃げ足には自信がありますし、今ク族の集落は飢饉に見舞われているのです。食べるものがなく、栄養が足りずに病気に陥るものも出てくる有様で……多少の危険は覚悟の上でも動ける者が集落の外に出なくてはならないのです」


 なるほど。通りで、少女の腕の中のかごに色とりどりの木の実が詰まっている訳である。彼女はまだ若いにもかかわらず、村の仲間を助けるために危険を承知で頑張っていたという訳だ。


「……実はここハジャの森では、近頃になって危険な獣が多く発見されるようになりました。まだ集落の近くまでは姿を見せてはいませんが、魔獣どものせいで森に入って食料を得ることが難しくなったのです」


 そういって悔しそうに目を背け、空いた手をぎゅっと握る。ふるふると震えるその姿から、彼女の集落で待つ者たちの様子がうかがい知れる。

 と、そんな時にまた茂みを押し分けて進むような音が耳に届いた。

 パキリ、パキリと枯れ枝を踏みつけながらこちらに向かってくるような足音である。……その足音はどうやら一つだけではないように思えた。


「……なあ、なんか近づいてくるみたいだけど、お前の仲間たちか?」


「い、いえ、今調達に来ているのはわたしだけのはずです」


 なるほど、ということは……。


「その、噂の危険な獣……か」


「いけません! 逃げなくては……!」


 その場から振り返るようにして森の奥へと駈け出そうとする。しかしその足は僅か一歩だけ前進するに留まった。


「……!? まさか、囲まれて……」


 彼女の言う通り、茂みの向こうに感じる気配がいつの間にか周囲を取り囲むように広がっていた。四面楚歌、とはこのことであった。

 そうして、どうするべきかと打つ手を考えている間に、その獣とやらはゆっくりと姿を現した。


「な、なんだ、これ……!?」


 獣。彼女はそういった。その言葉は正しい。それは一見して豹か何かのようであった。しかし豹にしては不自然に口が前方にぐっと突き出し、口内からは妖しく光る鋭い牙を覗かせている。その部分だけを見ると狼か何かのようにも見える。そしてその体躯は自分の知る豹や狼とは大きく異なり……巨大だった。その高さですら人の身長とほぼ同じか、それよりもやや高いくらい。全長にして考えてみれば、その巨体は自動車並みか……。人間如きがどう足掻いたとしても撃退することは不可能なように思えた。その獣から感じる重圧はすさまじく、無意識のままに思わず後ずさる。

 ……鋭い牙をむき出しにしてジリジリと迫る獣。眼前に一体。右手、左手にそれぞれ一体ずつ。決して獲物を逃がすものかとその姿勢を低く伏せ、今にも飛び掛からんとする三体の巨大な獣。


「……どうする、どうするどうする……! こんなの想定してないぞ……!? っていうか初戦闘の前にまずはチート能力に目覚めるイベントからだろ! 多少身体が若返ったからといってこんなの相手に出来るわけねぇだろ……!?」


 焦る。焦るあまりに思った言葉そのまま口から飛び出した。俺は今、ただの若い人間でしかない。特殊な能力もなければ魔法も使えず、戦闘訓練もしてないし伝説の武具を持っているわけではない。ただの、何の力も持たない成人男子なのだ。

 いや、それともまさか、異世界転移したことで何か特別な力がこの身に宿っているとでもいうのか……?


「あ、あ……あぁ……」


 ク族の少女はその場にくぎ付けにされたように一歩も動くことができない。恐怖のあまり逃げることもできないのだろう。……どのみち、逃げるといったって三体の獣から囲まれているこの状況では、逃げ出す先などありはしない。

 舐めていた、正直。異世界転移だなんて幸運なことだと思っていた。しかし、そうだ。秩序によって安全に守られていた日本で、何の危険もなく妄想していただけのただの青年は、命の危機なんてものに対峙したことがあるわけもなく……まさかいきなりこんな絶体絶命に陥るとは、想定すらしていなかった。

 いやしかし考えれば当然なのだ。剣と魔法のファンタジー世界。いまだその片鱗には触れていないが、剣と魔法があるということは、危険な魔物もまた、存在してしかるべきなのだ。

 それがこうして今まさに目前で、自分に文字通り牙をむこうとしている。

 額から流れ出た汗が目の横を通過した。……冷や汗だ。足元がフラつく。あまりの恐怖で視界がちらちらとチカつくのである。

 夢にまで見た憧れの異世界、その本質を何一つ理解していなかった俺は異世界からのありがたい洗礼を間近で見させられ、元の世界に帰りたいと心から願っていた。


「グルルルル……」


 獣の一体がうなった。そのうなりに呼応するように、周りの二体も同じように低いうなり声をあげる。

 眼前にいた獣が、ぐっと姿勢をより低くした。

 ……飛び掛かる前の予備動作だ、と脳内では冷静に分析した。しかし身体は動かない。

 その動きに少女が恐怖し、その恐怖のあまり、ペタリとその場に崩れ落ちてしまった。呼吸すらもままならなくなっているのだろう、ぜーぜーと大きく息を吐き、不自然に肩を強く上下に揺らしている。

 当然、そんな動けもしない獲物を見逃すほど獣は甘くはなかった。

 一瞬の静寂の後、獣の前足がバネのように跳ね上がり、勢いよく少女に向かって飛びついた。


「……ッ、バカ野郎!!」


 その行動は、どう考えても"らしく"なかった。

 今まさに大きく開かれた口から飛び出た牙が少女の肩口に突き刺さるか、というタイミングで、弾かれたように飛び出した。

 無我夢中で両手を延ばし、その少女の体をドンと突き飛ばす。少女は小さく、きゃあっ、と言葉を漏らし、そのまま少女に覆いかぶさるように転がって倒れ込む。


「……ッハ、あ、あぁっ!! なぁぁああ!!?」


 声が。静まり返った森の中に大きくこだまするような絶叫が、その場に響き渡った。


「ガッ……! はぁっ! あああっ!!」


 飛び掛かろうとして空を噛まされた巨大な獣は、そのまま位置を変えてこちらに対峙し直す。

 どれだけ巨体で凶悪な獣だとしても、いや凶暴だからこそか、急激に動き出した俺に対して僅かに警戒するような姿勢であった。


「はぁっ、クソッ! やりやがったなテメェ……ッ!!」


 善意だとか、弱い者を助けなければとか、そのような意識は全くなかった。どちらかといえば自分がこの窮地を脱して生き延びるためには一体どうすればいいのか、ということしか頭の中には無かった。しかしいざ、目の前の少女が獣の凶悪な牙に噛み砕かれて肉塊になるその光景が脳裏に走り、そしてその光景が現実のものになりそうだと自覚した瞬間には、自然と体が動いてしまっていたのだ。

 ……そして、その少女を救った代償は大きかった。

 俺の体は、真っ赤に染まっていた。

 左肩からわき腹にかけて大きな裂傷が走っている。そこからはドクドクと血が流れ、言葉に出来ないような痛みが全身を駆け巡っていた。

 今にも少女に突き刺さろうとしていた鋭い牙は、少女を突き飛ばした俺の体に突き刺さり、そのままの勢いで容易に俺の肉体を裂いたのであった。


「あ、あぁっ、しっかりしてください……! 今、薬を……!」


 下敷きになっている少女が、その若草色の服を俺の血で赤く染めながら、慌てたように言う。


「んなこと、言ってる場合じゃないだろっ! だあっ、はあっ……」


 痛い。痛い痛い痛い……。どれだけ傷が深いのかはわからないが、その痛みが冷静な思考をすべて吹き飛ばしたのは間違いない。

 左腕は……どうやら引きちぎられたわけではない。激痛が走るが、かろうじて動かすことはできる。……しかし、だから何だというのだ。流れ出る血液はちょっとした出血では済まないほどの量になっている。もはやすでに血液が足りないのか、足先からだんだんと痺れのような感覚が広がっているのがわかる。寒気もしてくるようだ。


「グルルルル……」


 そんな状況にもかかわらず、なおもうなり声をあげてこちらの様子をうかがう獣たち。俺がもはやなんの脅威でもないと悟られれば一瞬の猶予もなく餌食となるであろうことは容易に想像できる。

 クソ……俺の異世界ライフは三十分も持たずに終了、ってことなのか。やっぱりそんなにうまくいかないのか。どうやっても俺には幸せをつかむ権利なんて……。


「……おい、お前」


「だ、だめです、喋ったら傷からまた血が……っ」


「逃げ足には、……はぁっ、自信があるって言ったな……」


「……えっ?」


 ふり絞るようにして、もう痺れて感覚すらなくなっている足に無理やり力をこめる。立ち上がろうとして、力が入らずにガクリと再び倒れ込みそうになるのを、右手を地に突っ張ってかろうじて耐える。そのままブルブルと力なく震えながら少しずつ地に足をつけ、上体を起こした。


「俺は……だめだ、逃げれっこない。お前だけでも……逃げろ……」


「……っ」


 格好つける気なんて毛ほどもない。どうせここで死ぬ命なら、何か一つくらい自分の命に替わる何かを残したいと思ったのだ。無駄死にだけはしたくないと思ったのだ。


「俺が、ここで……はっ、こいつらを……止めとくから……」


「そ、そんな……わたしのために、そんなになってしまったのに……」


「バカいえ、どっちみち……こいつら相手じゃ、無傷で逃げ出すなんて、無理だった……ろうが」


 少女を背後にかばうようにして、三体の獣たちに相対する。


「犬娘、無駄な問答をしてる余裕は、……はあっ、もう、無いんだ……立ってるだけでも俺は、自分を褒めてやりたいよ……グゥッ……あぁくそ、いてぇな……」


 足元はおぼつかない。痺れはもはや全身に及んでおり、今なお流れ出る血液の勢いは止まらない。


「頼むから、早く……行けっ!」


 今度は三体の獣が、前足をぐっとかがめた。ああ、もうこれが最後だ。


「……」


 息をのむ気配を背後に感じる。


「……エノ、です」


「……?」


「……わ、わたしの名はエノです、チヒロ様」


「……あぁ」


「っ……! ぁ、ぁあ……ごめんなさい、ごめんなさい!!」


 そして、彼女は、ク族の少女は……エノは、俺を残して逃げ出した。

 最後に名前を伝えたのは、いったい何の意味があったのか。自分をかばった俺に、ほんの少しでも心を開いてくれたのか。


「グルルルル……!」


 威嚇し、離れていくエノに意識を向ける獣。


「おいコラ犬っころ……! ……あぁ、猫か? いやもうわかんねぇや……どっちでもいい。あいつに手出すんじゃねぇ!!」


 もう最後の力だと吹っ切れて、腹の底から大声を出す。その拍子にまたわき腹から血が噴き出す。

 くら、と力が抜けて視界が明滅する。

 エノは……逃げ足に自信があると本人が言う通り、森の中にも関わらずもう音すら聞こえないほど遠くまで駆けて行ったようだ。

 ……よかった。これならもう大丈夫だ。もう立っていることすら困難だ。いや、そもそもこれだけの大きな傷を負って、血を流して、立ち上がれたことが奇跡みたいなものだ。誰かを守るために人は強くなれる、とは、使い古された陳腐な言い回しだが……あながち間違っちゃいなかったのかもしれないな。


「……はぁっ、はぁっ……もういい、もう降参だ。つか、もう無理だ……煮るなり、焼くなり好きにしろ……つっても、はぁっ……、生食が好みか、お前らじゃ……ははっ」


 糸が切れた。ドスっという音と共に膝が地に着く。そのまま、土の上に倒れ込む。


「はぁっ……あぁ、ったく……異世界ライフ、ゲームオーバー、か……」


 目を閉じる。気配が、三体の獣の気配が、力尽きた俺に警戒する必要がないと理解したのか、近付いてくる。

 そのうちの一体が、今まさに、俺の首元へと鋭い牙を突き立てようとした。


 そして、


 そして……


 暖かな何かに包まれた。


「……?」


 暖かな……血を失って冷え切った身体に、暖かな何かが降り注いだ。

 閉じられた目を開く。

 視界は真っ赤だった。真っ赤な……血だ。

 しかしその血は俺から流れ出たものではなかった。目前まで迫っていた獣の内の一体が……いや、獣だったものの首が、無くなっていた。

 鋭利な何かで切断され、そのあとから最大の水圧にしたシャワーのように真っ赤な血が噴き出して、横たわる俺の体に降り注いでいたのだ。

 その獣の足元には、ほんの数瞬前まで主と繋がっていた首が無造作に転がり落ちていた。


「……はっ、え……?」


 そしてゴトリ、ゴトリと獣たちが何が起こったのかと理解する暇もなく、残りの二体の獣たちもその首を落としていく。

 あっという間にその場には、血しぶきを上げる三体の獣が……。そしてその獣たちの間に、白銀の鎧に身を包んだ……男がいた。

 返り血を気にもせず、振り下ろしたと思しき黒い剣を空で一度切り、こびりついた血を払う。そのまま獣の肉体で刀身をぬぐい、腰に差していた鞘へと収めた。


「……勇、者?」


 白銀の鎧の男は、まだ若い……端正な顔立ちで、圧倒的な存在感を放つ。

 俺は思わず、そんなことを呟いていた。

 ……そして、そのまま意識を失った。


というわけで狩谷さんの異世界ライフは幕を閉じたのでした。

……って、そういうわけにもいかないだろ。


『今回はシリアスな展開なので茶番はない方が望ましいと判断します』


うん、俺も同意見。

一応まだ続くんだよね? 俺、ほら、今も意識あるし。死んでないってことなんだよね?


『本編の内容に抵触しない程度にお伝えすると、今ここにいるあなたは本編中の狩谷千尋とは別個体です』


……うん? つまり、どういうこと?

じゃあ俺は誰なの?


『あなたは魂の保存をする際に必要のなかった、余剰分の自我でとりあえず形成した残留思念のような存在です』


ちょ、ちょっと待って! じゃあこの俺が別に異世界に来たわけじゃなくて……つまりこっちの俺は本編中の俺の"あまり"ってこと!?


『その通りです』


なにそれ、物凄い衝撃の事実じゃん。じゃあ俺は未完成の模造品……?

なんのためにそんなことしたのさ。残酷過ぎない?


『あなたが形成されたのは、観劇者が必要だったためです』


観劇者?


『本編で起こる出来事は、誰かの目に留まらなければ物語ですらなくなります。それ故にそれを目撃する存在が必要なのです』


……つまり、俺はこの本編中の"本体の俺"の異世界ストーリーを見るためだけにいるってことか?


『その通りです』


な、なんだそれ……俺だって長いこと異世界行って思う存分主人公したいって思ってたのに。


『仕方ないですね。元気出してください』


いいよ、もう……同情なんかしなくなって。

フン、いい気味だ。本編の俺。しょっぱなから全身ズタボロにされちまってさ。


『そう言いながらも手に汗を握っていました』


言うなよそういうのは。明確にキャラ付けして行こうよ、性格悪い方の狩谷さん、って感じで。

……はあ、結構ショックだな。とりあえず今日のところは帰ってよ、内なる声さん。ちょっとこれから泣くから。

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