悪夢、呼び声
目が覚めると、呼吸は荒く、心臓が痛むほどだった。
全身に汗をかいていて、特に首元はびっしょりと濡れている。
数度、瞬きをした。
そして今自分がいる場所が、何も変わらない迎賓館の客室であることを確認した。
……悪夢を見た。
「……あれは」
森を焼き焦がす大きな炎と、その中で逃げ惑う人たち。そしてそれを追いかける甲冑の男たち。
なんて悪趣味な夢だ。いったいどんな深層心理が働いたらこんな悪夢を見るというのか。
けれど。
「あの女の子……もしかして」
夢の中で泣いていた女の子は、記憶の中にいる一人だった。
そして今まさにその命が尽きようというタイミングで目が覚めたのだ。
「エノ……?」
その女の子は、この異世界に来て初めて出会った犬耳の女の子。ク族という犬の特徴を持つ民族の少女で、飢饉のために危険な森で木の実や果実を集める健気な少女だった。
そんな少女が謎の暴漢たちに襲われて、殺されようとしていた。いったいこれはなにを意味する夢なのか。俺の無意識の中にエノにまた会いたいな、なんていうものがあったのか。いやあるが。
それに、あの暴漢たち。謎の殺戮者たちはいったいなんだ。
俺の記憶の中にあんなキャスティングはいない。夢の中とはいえそんな悪逆非道を行う連中は……ああいや、カインツたちはそれに該当するかもしれないが、あんな甲冑姿ではなかった。
ではいったい……? 過去に見た映画か何かの悪役たちか。それにしては随分と生々しいリアルな存在感があったものだが。
「……あ」
揃いの甲冑姿の男たち。青みを帯びた不思議な質感の甲冑。そしてその兜には鮮血を思わせる赤い羽根の飾り。
一つだけ、脳内の検索結果から該当があった。
それは確かこの世界に来たばかりのこと。ヒイロの馬車でリルに到着するという時、石橋の上ですれ違った集団がいた。
明らかに異様なほど統率の取れた動きで、彼らは俺とヒイロが通って来た道を進んでいった。
そう、あの道はハジャの森へと続いていた。
『彼らはね、神成の使徒と自称する集団だ』
ヒイロの言葉がよみがえった。
ドクン、と心臓がはねた。
なんで?
なんで俺は今までこんなに大事なことを忘れていた?
シャーロットから神成の使徒という言葉を聞いた時、どこかで聞き覚えがあるな、と、思っていたじゃないか。
そうか、俺は何よりも先に、神成の使徒の連中をこの目で見ていたんじゃないか……。
そしてヒイロもまた彼らに並々ならぬ憎悪の念を持っていたように思える。にもかかわらず、あの場は何でもないように見逃していた。ヒイロほどの実力のある者が、だ。
もしかして、神成の使徒の危険度を知っていたからこそ、怪我人である俺がすぐ傍にいることを配慮された……?
ヒイロに聞かねばならないことが増えたようだ。
「そういえば、あいつらどうして、ハジャの森、に……」
『カナル王への信仰……つまり、ヒト族以外はこの世界に存在してはならない。そんな馬鹿げた信仰心の元に他の民族に害を成す、災厄の差別主義者たちです』
『このハジャの森と呼ばれる広大な大森林の奥地に逃げ込んだ私たちク族は、それからヒト族と交わることなくひっそりと生き延びてきました。そして今なおヒトを恐れるク族は多く、この天然の迷宮であるハジャの森こそが私たちの最大にして最後の防壁なのです』
息が詰まった。
全く関係がないと思い込んでいた二つのパズルのピースが、何かのはずみでくるりと回転して、まるで手品か何かのようにぴったりと繋がったような。
「あ、れは……」
夢ではない。
ただの夢ではない。
これは警告だ。今すぐに動かなければならないという警告だ。
亜人を憎む神成の使徒が、亜人の隠れ住むハジャの森に進軍していた。これが何を意味するのか。子供でも分かる。なぜ俺は今までわからなかった……?
ガバッ、と音を立てて布団から飛び起きた。
急いで着替えて、いつもの修練には持っていかないバックパックを背負った。身軽さだけが冒険者の取り柄、荷物はこれで全てだ。
「ふあぁ……あ、おはようございます、チヒロさ……ん?」
「シャルマ、すぐに出発だ。ハジャの森に行く」
「え、え、どうしたんですかっ!?」
「説明は後だ。俺は国王に会えないか聞いて来る。メウを起こして街を出る準備をしててくれ」
扉を開けて起き抜けのシャルマと簡潔に話を終わらせ、俺はそのまま迎賓館の階段を下りて勢いよく扉を開けた。
庭園を突っ切って王城の中に飛び込む頃には全力で走りだしていた。
「これはお客人、いったいどうされた」
と、たまたまそこで悪徳大臣のバルナスと出会う。
「大臣さん、頼む、今すぐに国王に取り次いでもらえないか? 緊急事態なんだ!」
「む、むう……そう言われてもな、国王様とてまだ寝ている時間だ。改めて使いを出すのでそれまで迎賓館で……」
「頼むよ、大変なことが起きるかもしれないんだ!!」
「そう言われてもな……いかに国賓扱いの客人とはいえ一国の国王にいきなり会わせろとは何と無茶な……」
俺の気迫に僅かに押されたようだが、バルナスはさすがにここで簡単に折れてくれる相手ではないか。
仕方がない、こうなったら伝言を残して俺たちだけで出発するしか……。
「チヒロさん?」
「あ、シャーロット……」
「どうされたのですか? 妙に慌てているようですが……その荷物は」
バルナスと押し問答をしていると、騒ぎを聞きつけたのかちょうど近くを通りかかったシャーロットに声をかけられた。
あの晩餐の際、涙を流して駆け出して行って以降、シャーロットとは顔を合わせていなかった。
避けられているとまでは言わないが、元々王女と冒険者、特別な用事さえなければ会う理由もなかったのだ。
ほんの少し気まずさを感じながらも、今はとにかくそれどころではないと頭を切り替えた。
「シャーロット、すまない。国王に取り次いで欲しい、どうしても今すぐ会わなくちゃダメなんだ」
「……何か、あったのですね?」
「まだ確証はない。もう遅すぎたくらいだ。けど、急がないと……」
「……わかりました。今お呼びしてきます」
俺の気迫から何かを感じ取ったのか、シャーロットはほんの少し思案するような表情になったが、すぐさま答えてくれた。
「シャーロット様!? お、お待ちください……!」
「何かあればわたくしが責を負います。バルナスは応接間の準備をお願いします。チヒロさんもそこで待っていてください」
「わかった! ……ありがとう、シャーロット」
俺が頭を下げると、シャーロットは微笑んで小走りに駆けて行った。
「チヒロ殿、こんなことは異例中の異例! 今回はたまたまお優しいシャーロット様がおられたから……」
「わ、わかってるよ、こんな卑怯な手は二度と使わない。悪かったって……」
バルナスはぶつぶつと文句を言いながらも、最初に彼に会った城の中の応接間まで連れて行ってくれた。
悪徳大臣だと思っていたが、案外バルナスも真っ当に仕事をしているだけで心根は優しいのかもしれない。
そしてしばらく応接間で待っていると、数分の後に国王インディゴがシャーロットを引き連れて現れた。
「まったく、寝起きの国王を呼びつけるとはなんと豪胆な者よ」
そう言うが、別段インディゴは不機嫌なようでもなかった。
「申し訳ありません。でも、どうしても急ぎの話があったんです」
「ふむ、話してみよ」
そして俺は、今まさに神成の使徒がハジャの森に侵攻している可能性があることを伝えた。
ハジャの森にはク族の集落があること、そしてそれを滅ぼそうとしているに違いないこと。
夢を見た、という点は濁したが、それが現実に起ころうとしていることを話した。
「ハジャの森のク族には、俺の知り合いがいます。俺は今すぐ彼女を助けに行かなきゃいけないんです」
「ふむ、確かにハジャの森にク族が隠れ住んでいるという噂はあった。して、チヒロよ。準備のための時間が必要だと言っていたが、その準備はもう済んだのか」
「……まだ、完全に、とは言えません。アジュールから一本取るまでしか上達できてないのが実際です」
そう言うと、会話をしていたインディゴだけでなく、控えていたバルナス大臣、そしてシャーロットも息を呑んだ。
「アジュールから一本取った、だと?」
「あ、いえ、でも、トータルで五百試合くらいして、ようやく一本取れただけで……」
「何を言うか。この国でアジュールからたったの一本でも取れる者など片手で数えるほどもおらぬわ」
「チヒロさん、やはりあなたは凄い人です!」
「なんと、やはりただの冒険者ではなかったということか……」
などと、口々に褒め称えられてしまう。むず痒いが、正直今はそれどころではない。
「そ、それは今は置いておきましょう。問題なのは国王様、俺たち……じゃなくて、少なくとも俺は知り合いを助けるためにハジャの森に向かうつもりです。もしかするとそこで神成の使徒とかち合って、下手をすると戦いになるかもしれません。そうすると顔も割れるかもしれませんし、当初の予定であるリルの領主へのスパイが出来なくなるかもしれません」
「……なるほど、そうか」
「なので、本当に色々と良くしてもらっていて申し訳ないのですが、国王様からのコンクエストの依頼は……」
「よい」
「……えっ?」
「よい。では依頼の内容を変えよう。今よりすぐさま其方たちはハジャの森へと向かい、神成の使徒共の目論見を打ち破って見せよ。そして可能ならばそれを指揮する者を捕らえて、ヴェルリヤまで連れて戻って来るのだ」
俺は、国王の言葉の意味が一瞬わからなかった。
つまり、リルの領主へのスパイは取りやめで、俺の思うままに行動してもよいという、国王からのお墨付き……か?
「其方には以前教えたであろう。『何者にも支配されず、媚びず、驕らず。常に潔白で、そして高潔で自由であれ』と。其方が正しいと自信を持って胸を張れる行動をせよ。……それにヒトとの交流を拒み、ハジャの森に隠れ住むとはいえ、それは我が領地。そこに住まう者は例外なく我が国民。国民の命を守るという者を止めることは出来ぬよ」
ふぉふぉふぉ、と豪快に笑う国王。
「騎士団にも後を追わせよう。とはいえヴェルリヤの防衛が手薄になることが奴らの狙いかも知れぬからな。それほど多くは援軍には出せぬ、すまぬな」
「い、いえ、十分です」
俺は、ゆっくりとインディゴに頭を下げた。
国王からの許しは得た。もはや後顧の憂いは何一つない。
皆に礼を言ってその場を去ろうとしたところで、シャーロットが歩み出て俺の手を取った。国王の眉根がぴきっと吊り上がったのを俺は見逃さなかった。
「チヒロさん、本音を言うと危険の最中にあなたを送り出すのは心が痛みます。ですがあなたはわたくしを守り、救ってくださったように、どなたかを守るために立ち上がるのですね」
「……ああ」
「ではわたくしはチヒロさんを信じて、帰りを待つことにします。……それに、わたくしも約束を果たす時が来たのでしょう」
「えっ?」
シャーロットはそう言ってふふ、と柔らかな笑みを見せた。
街の外に繋がる門の前にこれ以上ないというくらい高性能で豪華な馬車が用意されてるのを発見して、彼女の言葉の意味を知るのはもう少し後のことである。
◇
王城から出て来た俺を待ち構えていたのは、シャルマとメウの二人だった。
「ちょっとチヒロ、説明してよ。朝ごはんもまだ食べてないのに」
「チヒロさん、何かあったのですか?」
不満顔のメウと、不安顔のシャルマ。
二人にも当然言い分はあるだろうが、それでも二人ともしっかりと荷物をまとめて旅の準備を整えていた。
「悪い、二人とも。詳しいことは歩きながら説明する」
そう言って、足早に上層地帯へと続く階段を下りる。
「神成の使徒が、ハジャの森に侵攻している」
「えっ、それは本当ですか……?」
「ああ、今朝、思い出した。もうずっと前の話になるが、確かにハジャの森に向かっている神成の使徒を、目撃していたんだ、俺はっ」
教会の前を通り、居住地を抜けて川の上にかかる石橋を渡っていく。
まだ早朝にほど近い。人の流れはそれほどない。
「ハジャの森には、ク族っていう亜人たちの集落がある。あいつらはク族を滅ぼすつもりだ」
それは根拠のない確信だ。
なぜなら情報源の半分は今朝見た夢なのだから。
「た、確かにハジャの森にはク族がいるっていう話はありますけど……」
「……もしかしたら、間に合わないかもしれない。俺があいつらを見たのはもう何日も前のことだ」
この異世界に来て約一ヶ月が経過していた。あいつらを目撃したのはその一番最初の頃だ。あれから森の中を探し尽くして、ク族の集落を見つけていたとしても何ら不思議はない。
しかしハジャの森は天然の迷宮。更にその全域が行軍しづらい森林地帯だ。
あの夢がもし、本当に警告ならば……。
まだ間に合う。いや、間に合ってくれなければ困る。
「ク族には、俺の知り合いがいるんだ。黙って殺されるのを待つわけにはいかない」
「えっ、ク族に、ですか?」
「ああ。どうしようもない落ちぶれたクズだったこの俺が、初めて誰かを守りたいって、立ち上がるきっかけをくれた相手だ」
この世界に来て、初めて出会ったク族の少女。あの時の俺はなんの力もなく、この身を犠牲にすることでしか彼女を守る手段はなかった。
けれど今なら。気力を失ったとはいえ、戦う力は手に入れた。
こんな俺の身体一つで守れるのなら、と瀕死の中で思った。そしてその願いは今でも有効だ。
だって、だってあれほど彼女は泣いていたじゃないか。
大した繋がりのない関係だ。もしかして彼女は俺のことなど覚えてないかもしれない。いや、下手すると俺のことはあのまま魔獣に食い殺されてしまったと思っているかもしれないな……。
けれども。
「今度も守る。シャルマ、メウ、俺が二人を守りたいって思う気持ちをくれたのも、守るために立ち上がる勇気をくれたのもきっとその子なんだ」
「チヒロさん……」
「……」
シャルマは気遣うように俺の名を呼んだ。
メウには、もしかすると理解できていないかもしれない。こいつは難しい話は苦手だからな。
「……いや、悪い。そもそもこれは俺の勝手な戦いか。出発するならチーム全員で、と勝手に考えて二人を巻き込もうとしてしまったけど、なにもお前らまでついて来る必要は……」
「いくよ」
急いで歩いてた歩みを止めて、振り返る。
「チヒロの大事な人を助けに行くんだよね」
「あ、ああ……」
「じゃあきっと、チヒロはまたカッコつけて無茶するかもでしょ。チヒロはその人を守ればいい。あたしたちがチヒロを守るから」
瞬間的に、心の中の何かが、暖かさに包まれた。
それは甘く溶け出すように全身に広がって、自然と目が潤んだ。
「……ばっ、ばかいうなよ。俺がお前たちを守るんだっての」
「じゃあ、みんながみんなを守ればいい」
「そうですよ」
シャルマが俺の手を取り、そしてメウの手を取った。
「私たち、チームなんですから」
シャルマの言葉に頷くメウ。俺も、ゆっくりと頷く。
ありがとう、と呟いた。




