犬耳、犬しっぽ
※キャラ挿絵あり
曖昧になっていた自身の身体の境界性が徐々に形作られているのが感覚として認識できた。
目は閉じられていたが、いつの間にか地に足がついていて、その感触をしっかりと踏みしめる。
手のひらを握り込む。問題ない。
さーっと風が吹き、前髪がさらさらとなびいた。受ける風には匂いがある。
「……ここは」
目を開ける。
目前には木々。
「森の中……か?」
周囲を見渡してみると、視界に入るすべてが木、木、そして木。どうやら森の中の少し開けた空間にポツンと一人立たされているようであった。
空を見れば太陽は真上。真っ青な青空に燦然と太陽が輝いていた。……太陽があるということに少し安堵する。環境的には地球と大差はないようだ。
森の中からかすかに吹いてくる風は暖かで、土の香りが鼻腔をくすぐる。体感としては初夏、といったところだろうか。
「ホントに、異世界なのか……?」
自分の体を確認してみると、長い間の不摂生で衰えていた肉体がウソのように見違えていた。足を上げたり、両腕をぐるぐると回したり、その場で軽く跳んでみたり。
腹をさする。……無駄なぜい肉は綺麗さっぱりなくなっていて、そこにあるのは割れた腹筋だった。生まれてこの方運動に熱を入れたことも無かったので、自分の体がこんなにスポーツマンらしくなっているということに驚きを隠しきれない。
しかもそれに加えてコンタクトレンズも付けていないのにばっちりと視界は良好だ。視力もだいぶ回復している。
……少なくとも、身体をいじくる、っていうのは嘘ではなかったようだ。つまりあの不思議な空間は夢でも何でもなかった。
ならばここは本当に異世界なのだろうか。
確かに肉体的には若返り、スポーツマン顔負けの立派な身体を手に入れた。しかし感覚としてはそれ止まりである。
そこで気付いたが、どうやら服装が自分の知るものとは大きく変わっていた。記憶が確かならば確か自分は上下ジャージにサンダルというラフな格好だったはず……だが。今の自分の格好は一枚の布を大きく織り込んでいるようなもので、その布もザラザラと肌触りが悪く、上等な品質とはお世辞にも言えなかった。
これはいわゆる布の服……初期装備のつもりか。
「とにかくここにいても仕方ないか……他に人のいる場所に行かないと」
心にそう決めて、いざ歩き出そうとする。しかしその歩みはわずかに一歩で止まった。
「って、人のいる場所……って、言ってもなあ」
そう、目の前にあるのは射し込む光すら僅かになるうっそうとした森。右手、木々だけでなく雑草が生い茂り人の通る小道すらなさそうな森。左手、表皮のめくれた大木同士に数多の蔦が絡まり進むことを許さない森。後ろ、棘だらけの植物が群生し触れれば傷だらけになりそうな森。
森、森、森……四方は大自然の猛威というやつに囲まれて、俺が今いるこの僅か数メートル四方ほどの空間が俺のために残された唯一の安全地帯かのように思えた。
「いったいどうすれば……ん?」
ぐるりと周囲を見渡していると、カサカサと茂みが動くのが見えた。
「……なんだ、何かいるのか?」
思えば不用心だったかもしれない。一度死んで蘇り異世界に渡る、という奇跡的な体験のせいで自分でも気づかず興奮しきっていたのだろう。
俺は好奇心のままに音のする方に近づいていった。
茂みの向こう側から、何者かの気配を感じる。こっそりと足音をひそめてその向こう側を覗いてみた。そこにあったのは、緑と茶色の森林には自然と存在しないであろう、薄桃色のふわふわとした、小さな何か、が――
「え?」
思わず口から音が出る。
途端、そのふわふわとした薄桃色の物体がぴょこんと震えた。そしてその全容が明らかになる。
それは……人、だった。俺の声に驚き顔を上げるその人物と目が合う。小さな顔にまん丸と大きな紅色の瞳。その肌は限りなく白に近く、りんご色に染まった頬と真っ赤な瞳とのコントラストでその肌の白さが際立っているようだった。
少女である。日本人離れした、というよりもとても人のように見えない顔だち。薄桃色の何か、と思ったものはその少女の髪の毛であった。肩下まで伸びるその髪を後ろに一つでまとめている。そしてその髪の毛の頂点、頭部にはまた髪の毛と同じふわふわの薄桃色の物体が二つ、くっついていた。
「猫耳……いや、犬耳、か……?」
「っ!!」
ほんの一瞬だけ合わさった目は、俺のつぶやきに驚いた少女によってさえぎられる。弾かれたように飛び上がって、そのまま数歩後ろに後ずさる。距離を取った少女の全身の姿が目に入る。
若草色とでもいうのか、森の緑に溶け込んだような色合いの和装が体を包んでいる。腰のあたりに帯があるあたりコンセプトとしては浴衣なんかに近いのかもしれない。
「ヒト……?」
少女がつぶやく。鈴を鳴らすような可憐な声だったが、それはか細い。声色に警戒を含んでいた。
ぴょこり、と片側の耳が動いた。
「犬耳……犬耳か! ワーウルフか! マジかこれ、マジで亜人!? うわ、カチューシャじゃない、本物だ!!」
「ひっ!?」
また一歩後ろに後退する。少女との距離はもう会話をするには少し不自由するくらいの距離になっていた。ぴょこりぴょこりと少女の頭部の耳が絶えず動いている。ああなんと可愛らしいことか!
犬耳……い、犬耳……!! 俺の思考は興奮と感動のあまり正常な判断が出来なくなりつつある。
触れてみたい。モフモフしてみたい。そう考えるあまり鼻息が荒くなっている。
ビクッと全身を震わせて硬直する犬耳少女。その怯えるような目を見てほんの少しだけ冷静さを取り戻した。
よく見てみると少女の腕の中には小さなかごがあり、そこには紅色と紫色の木の実のようなものがたくさん入っている。
「あ、あの、君は……あー……えっと、言葉、わかるかな? 俺は怪しいものじゃないぞ! ほら、ボク、キミ、スキ!」
そういって両手をひろげて無害をアピールする。その動きにまたわずかにビクっと身構えたように見えた少女だったが、どうやらその意図が伝わったのかほんの少し警戒が解かれたような気がした。
目の前にいるのは犬耳少女。よく観察するまでもなく、その質感は本物である。……つまり、人間ではない、ということである。警戒しているのは様子を見れば十分わかるし、人に慣れていないのか……俺が少女をまじまじと見つめているのと同じくらい、向こうもこちらを観察しているようだ。
俺は人外との遭遇という異世界ならではのイベントに沸き立つ心を必死で押し殺し、長年の引きこもり生活ですっかり不得意分野になったにこやかな笑顔を無理やり浮かべてみた。
「なぜ、このような場所に、ヒトが……」
と、少女がつぶやくのが聞こえた。あれ、今日本語だったよな?
……言葉が理解できる。なんということでしょう。
「すげえっ! どういうトンデモ能力なのかわからんがちゃんと言葉が通じるのか!」
ついに興奮が抑えられなくなり、再び少女はビクリと体を硬直させる。
「あ、あぁ、悪い、驚かせるつもりはなくてだな。ほら、危害を加えるつもりもない、安心してくれ!」
「……?」
訝しがる少女。その拍子に少女の背後から、彼女の髪の毛、耳と全く同じ色のふわふわとした物体がぴょこりと顔を出す。
……しっぽである。
「っくぅぅ……犬しっぽ来たああ!!」
「なっ、なんなのですかっ!?」
怯える小さな少女と、鼻息荒く興奮して肩で息をする三十手前の男……いや、肉体的には十代に若返っているはずなのだが、はたから見ると危険な光景にしか見えない。
「はぁーそうか、そうかなるほど、あー俺理解しちゃった。ここが天国か……こんなにも可愛い犬耳・犬しっぽキャラにいきなり出会えるなんて……」
よくわからないままに放り出されて正直不安がなかったわけではないのだが、そんな不安はいつの間にか吹っ飛んでしまった。モフモフ人外少女に遭遇した喜び。これに勝る幸せがあるだろうか?
思えばこれまでの人生は何一つとして良いことが無かった……というとさすがに言いすぎかもしれないが、少なくともこれまで生きてきた中で最も幸せな瞬間は今この瞬間であると自信を持って言うことができる。
いや、生きてきた、と言っても一度死んでる以上これがまさしく第二の人生であるのだ。俺の第二の人生は華々しいスタートを切ったのだ!
「先ほどから何を言っているのか……理解できないのですが、あなたはヒト族ではないのですか……?」
「え? ヒト族?」
未だ警戒を続けながら、少女が問うてくる。
「……? 違うのですか? でも、どこから見てもヒト族の男性にしか……」
「あ、ああ、ヒト、人ね。そうそう、俺は人間だ。ちょっと特殊な境遇にいるのは否定できないけど、れっきとした人間の男だぞ」
「……ヒト族が、このような場所に何の用ですか」
何の用。と言われても、気が付けばここにいたというほかにない。
「ハジャの森は無闇にヒトの立ち入れぬ天然の迷宮、そこに住まう者でなければ奥地に辿り着くことすら困難なはず……あなたはいったい……?」
ハジャの森、とは恐らくこの森を指す言葉なのだろう。どうやら人里からは離れた場所であるらしい。……と、いうことはどうやらここでこの犬っ娘に出会えたことは自分が想定していたよりも幸運であったのかもしれない。人気のない森のど真ん中にポイと投げ出され、下手をすればそのまま誰に出会うこともなく野生の獣に喰われたり、野垂れ死ぬ可能性もあったということだ。
いやむしろ、異世界モノの鉄板設定としてはファーストコンタクトを取った現地人のこの少女こそが俺の物語の正ヒロインである可能性が……? ということはここはあくまで紳士的に、かつ正直に話しておいた方がよさそうだな。
「えー……俺の名前は、狩谷千尋という。信じられないかもしれないが、こことは違う別の世界から来たんだ」
「……カリヤチヒロ? 少し言いづらいです。あまり聞きなれない名前ですが、ヒト族であることに違いはないのですね?」
「ああ、多分」
「それに別の世界、と言われても、何が何やら……」
少女は困惑した様子。はて、異世界召喚が当たり前のように受け入れられている異世界作品もたくさんあるはずだが……ここは違うのだろうか。そもそも異世界転移の仕組みも理解できてないし、自分の立場もきちんと呑み込めているわけではない。ただ一つだけはっきりしているのは、俺は一度死んだ上で何者かに異世界に送ってもらったのだ、ということだけである。
うーんぶっちゃけて言うと、全く理屈も理由もない『死んだと思ったら異世界にいた』というのよりかはいくらか精神的にマシだとは思うのだが。
「えーっと、名前に関しては狩谷が苗字で……って、苗字っていう概念は通じるのかな。言いづらければ、千尋と呼んでくれていいぞ」
「……あなたは普通のヒトとはどこか違うようですね」
「え、そうかな」
「人間社会ならまだしも、こんな辺境で……普通は、正体の知れぬ相手に無闇に名を明かしたりはしないでしょう」
そういうものなのだろうか。もしかするとこの世界には名前に対して何か深い意味でもあったりするのだろうか。
「そんなことよりも、どうやってこんな森の奥深くまでやって来たのですか。見たところ随分と軽装のようですが」
「どうやって、ってなあ……どうもこうも、気が付いたらここにいた、としか」
異世界から来たことを理解してもらえない以上、自分が不審なのだろうことは容易に想像できる。彼女の言う通り、ここは何の準備もない人間が身一つで入ってこれるような場所ではないのだろう。会話が少しだけ進展した今になっても未だに目の前の犬少女が警戒を完全に解いていないのがその証拠だ。
「どこか、頭でもぶつけたのですか? まさか記憶を失っている、というようなことは……」
「あーまぁ、頭はぶつけちゃいないし記憶もあるにはあるが……状況としては似たようなものかな」
「つまりわたしたちを狙ってやってきた、のではないのですね……?」
「は? 狙う? どうしてそんなことしなきゃならんのだ」
どういう意味か。ハーレム要因の中の正ヒロイン候補として狙っているのは間違いないが。
「……近頃、仲間が急に姿を見せなくなることが多いのです。集落からはぐれて一人になった時を見計らい、ヒト族によって無理やり捕らえられて連れていかれるという話を聞いたことがあります」
「なんだって!? そりゃ酷い、こんな可愛らしいけもみみたちを……」
「わたしたちク族は古来、ヒトに従い生きてきた民族。今となっては袂を分かった仲ではありますが……」
「ク族?」
「……どうやら本当に記憶を失っているのですね」
少女は一息つき、それまでの警戒をようやく解いてくれる。俺が無害であるということがようやく通じたようである。よかった。
苦節二十九年。辛い人生に耐えてよく頑張った。感動した。
ついに俺は異世界に辿り着いた!
今日狩谷さんがはじめて異世界に着いたよ(着いたー!)
…………。
あれ、誰も出て来ないな。
ちょっとちょっと、一人語りは寂しいよ。誰か出て来てよ。
「俺でもいいんスか?」
小野君!? あれ、ここ異世界だけど出て来ちゃっていいの?
「なんか、内なる声とかいうよくわかんない奴が、まだ登場人物も少ないから番組続投ですって言ってたんすよ」
なにそれ。そんなトンデモ許されるの?
いやいや、っつーかさ、今まさに目の前に憧れの人外モフモフがいるんだからさ、その子と会話させてよ。なんでお前が出てくんだよ。
「いやほら、まだこの後どんな展開になるかわかんないじゃないスか。もしかしたら無理にちっちゃな女の子に手を出そうとした狩谷さんがあの獣っ娘に殺されるかもしんないし」
やめてよ! 変な風評被害だよ! 俺は愛が無ければモフモフじゃないっていう信念で生きてるんだからさ。
No love, No moff。わかる?
「ああいう奥手っぽいタイプはね、狩谷さん、押せば押すほどいけますよ。俺なら二十分あれば落とせます」
やめろ! 俺の純愛異世界ストーリーを汚すんじゃない! もうしばらくお前は出てくるな!