目覚め、目醒め
目を覚ますと、見慣れない天井だった。
そもそも見慣れたはずの自分の部屋の天井も、見なくなってからしばらく経つ。最近ではもっぱらつばめ亭の客室の天井が目覚めた時に目に入る光景だった。
視界は暗い。どうやら夜のようである。虫の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
ここはどこだろう。周囲を確認しようと首を動かそうとすると、鈍い痛みが全身を襲った。
「い……ってて」
かつて大学時代に、あくまで付き合いの延長だと学友たちに付き合わされてボーリングをしたことがある。
翌日の朝ベッドで目が覚めると全身が筋肉痛で、立ち上がることすら困難だったことがある。今の状況はそれに近いものだった。
しかし俺はここまで低血圧だっただろうか。まだ寝ぼけているのか、まともな思考が働かない。
確か……クエストを受けて王都まで旅をする途中だったんじゃなかったか。早朝に豪華な馬車で旅立って、それから……。
「メウ!?」
がばっとベッドから起き上がる。全身が痛みに軋んだがそれどころではない。
寝かされていたのは小さな部屋だった。ベッドと机くらいしかない。窓が一つだけ。外は真っ暗で夜の帳が下りている。
「俺……俺は、確かあの時……」
あの時、何か自分の中で、自分ではない何かが目覚めた。とてつもなく大きな破壊衝動に全てを支配されて、それがどんな結果を招くか、というようなことは一切考えずに魔術を行使した。あの後……どうなったのだろうか。
メウは……。
立ち上がって、痛みを訴える全身を引きずりながら部屋の外へとつながる扉を開いた。
部屋の外に出ると、そこは狭い廊下だった。辺りはシンと静まっている。左右には二つずつの扉。恐らくは似たような部屋が連なっているのだろう。この頃にはようやく頭がすっきりとクリアな思考になり、ここがどこなのかなんとなく予想が付き始めた。
「チヒロ……さん……?」
と、背後から声をかけられた。
何の気配も感じなかったのでドキリとして少し飛び上がってしまった。
「……シャルマ?」
「チヒロさん、よかった、目が覚めたんですね……!」
そこにいたのはシャルマだった。小さな水桶に水を貯め、それを両手で抱えていた。
それにしても全く気配を感じさせないとは……今となっては無意識に気力感知を行うこともできるようになったというのに、どうなっているというのか。
「ここは……シャルマ、俺はいったい……!」
「しっ、チヒロさん。……ここはヴェルリヤに向かう途中の集落の宿屋です。もう夜も更けて他の方の迷惑になるので、ちょっと外に出ましょう」
口元に人差し指を当てて、シャルマはそう言った。そして廊下の突き当たりにある扉を示す。そこから外に出られるようだ。
明かりのない廊下をシャルマに付き従って歩く。扉から外に出るとテラスに出た。どうやらここは二階だったようだ。
月明かりが辺りを照らす。シャルマの言う通り、ここは小さな集落のようだ。
木造の家々が並び、あとは畑と池と……といった感じの田舎の雰囲気。このような土地でも宿屋があるのはありがたい話だなと思った。
「チヒロさん、最初に確認しておきますが……」
と前置きして、シャルマは手のひらを開いてこちらに見せた。
「気力感知は機能してますか? 今、私の手の中に魔力を精製しています」
さーっと風が吹いた。シャルマのさらさらとした前髪が風になびく。
「感知……できない。さっきシャルマに声をかけられたときにも、シャルマの気力が感知できなかった」
意識して気力感知を行おうとするが、今までのようにその気配を感知することができない。この世界に来てしまったときのようだな、と思った。
不思議と焦りはなかった。
「やはりそうでしたか。チヒロさん、あの時、何があったか覚えていますか?」
「あの時……盗賊たちに襲われて、メウに矢が刺さって……無我夢中で魔術を使ったのは覚えている」
そうですか、とシャルマは大きく息をついた。
そして、シャルマは何があったのかを教えてくれた。
俺は怒りのあまり我を忘れて、シャルマから教わっていた魔力制御など頭から吹き飛んで、持てる限りの全ての気力を魔力として解き放った。盗賊たちに放った火炎は瞬く間に辺り一面を飲み込んで、シャルマが戦っていた盗賊たちも、今にも息絶えそうだったカインツも、そして恐らく森の中に潜んでメウを射抜いた十一人目の敵も、その全てを焼き殺した。
そしてそれだけでは火炎は収まらず、辺りの森を丸ごと飲み込んで炎上した。
火が消えた時、そこは焼け野原だったらしい。
しかしかろうじて一握りの理性が残っていたのか、シャルマと横たわるメウの二人が火に飲まれることはなかった。
そして全ての気力を使い果たして意識を失った俺とメウ、そして森の中の洞窟内に姿を隠していた御者とシャーロット姫を連れて、この集落までやって来たという。
よく意識のない俺を運べたな、というと、便利な魔術があるんです、とシャルマは応えた。
馬車すら燃え尽きてしまったのだから歩いてここまで来るしかなかったはず。我を失っていたとはいえ酷いことをしてしまったと反省した。
「あれほどまでに巨大な魔力は……魔術に長けたローラフの魔法師団でも匹敵する者がどれだけいることでしょうか」
「はあ、まあ……そのローラフがどんなもんかは知らんが、気力の量くらいしか誇れるものはないしな。……どれだけ気力がたくさんあろうが、大事な仲間を守れなくて見殺しにさせちまう。無駄な力だよ」
俺の目の前でメウは胸を一突きにされて倒れた。すぐ傍にいたのにもかかわらず。それも俺をかばって、だ。
どれだけ巨大な炎を発生させることができても、それで仲間を死の淵から救うことができるわけではないのだ。
「チヒロさん、そのことなのですが」
シャルマは俺の目をまっすぐ見つめた。
「……メウさんは、まだ生きています」
そしてそう言った。
え、と、言葉とも、漏れ出る息とも取れない音が喉を突いて出た。
「い、生きてるのか……メウが?」
しかし、シャルマはそれには答えない。
「どうなんだ、シャルマ、メウが生きてるって?」
「……治療は施しました。止血もして、傷口も塞がりかかっています。ですが……」
ですが、なんだというのだ。生きているのなら、そうだとはっきり言えばいいではないか。俺はじれったくなってシャルマの肩を掴んだ。
衝撃で、シャルマが持っていた水桶から僅かに水がこぼれた。
「……気力が、ほとんどなくなりかかっています。ご存じの通り気力はそのまま命の源です。肉体的な損傷は回復しましたが、かろうじて死なずに済んでいる、という程度に過ぎません」
「気力が……。で、でも、確か気力は他人に分け与えることができるはずだよな!?」
俺はそのおかげで一度、ヒイロから死の淵から救ってもらったのだ。彼の気力を死にかけの俺の体に注ぎ込んでもらうことで。
「メウさんはミャウ族です。ヒト族である私の気力では、下手をすると副作用が出て……」
そのあとの言葉をシャルマは濁した。つまり、その結果決定的な事態になる可能性があるというのだ。
そうだ、確か以前気力に関することをシャルマに聞いた時に、異なる民族間での気力の受け渡しはリスクがあると聞いたことがあった。
「な、何とかならないのか……? ほら、俺だって気力を使い果たしたのにこうして起きて動いてられるじゃないか!」
「チヒロさん、こんな時に混乱させたくはありませんが……あなただって十分異常なんです。私の気力感知で見てもチヒロさんの気力は今なお空に限りなく近いんです。もうほとんど、その存在が感じ取れないほどです。本当だったらチヒロさんだってメウさんと同じような状態なんです。それなのにそうやって動けていること自体、常識を遥かに超えているんですよ……!」
そんな……そんなことはどうでもいい。俺が今どういう状態かなんて、大した問題ではないのだ。
一番大事なことはメウを救うことに他ならない。
「気力感知が使えない、と言いましたよね」
「あ、ああ……」
「……こんな症例は初めて見ますが、恐らく、限界まで気力を消耗したことで体の中の気力を扱う回路がズタズタになっていると思われます。メウさんのことも重要ですが、チヒロさん、あなただって今すぐ何とかしなければ後遺症が残る可能性があるんです。今後一切、気力が回復しないかもしれません。……二度と、魔術どころか、気力が使えなくなるんです」
二度と、気力を扱えなくなる。
その言葉には僅かに動揺した。盗賊たちとの……カインツたちとの戦いだって、俺が気力操作を扱えなければ敗北していただろう。少なくともこの世界で冒険者として生きていこうと思うのなら、それは最低限必要な力なのだ。
だが、それがどうしたというのだ。
俺を……元の世界では、誰からも見向きされることなく、無価値な人生を送っていたこんな俺のことを、自身の命をも顧みずに助けてくれたあの尊い少女を、何とかして救いたい。守ることのできなかった俺だが、今何かできることがあるのだとしたら、自分のことを顧みることなく、ただ彼女を救いたい。
「俺のことは……二の次だ。メウを救いたい、助けたいんだ。何か手はないのか……?」
「……方法は、無くはないのですが」
言いづらそうに顔を伏せる。
「それは? どうすればいいんだ?」
「……私が以前研究していた中に、気力の快復を強制的に促す秘薬があります。それさえあればひとまず危機からは抜け出せるでしょう。ですがその薬を精製するために必要な設備が……ここには」
「……それは、どこに行けば手に入るんだ?」
「リルに戻れば精製は可能です。在庫もあるはずです。ですが、今からではとても……。この村には今すぐ動かせる馬車もありませんし、それに今からリルまでとなると……仮に馬車があったとしても間に合いません」
それはつまり、メウの命がもう僅か一日も保たないという宣告だった。
急速に血の気が引いていく心地だった。地に足は付いているはずなのに、ふっと空中に投げ出されたような、そんな覚束ない感覚。
「奇跡的にリルからの行商が、私の薬を運んでこの村を通ってくれることを祈るしか……」
「……行商?」
「ええ、私の薬は試験的にリルの町で販売しています。ですからそれを他の街に売るための商人が……」
どくん、と心臓がはねた。
シャルマは前から小金持ちだな、と思っていた。冒険家業も副業だと言っていたが、本業の研究職は今は休職中だと。
ならばシャルマはどうやって収入を得ているのかと不思議に思ったこともあった。
そうか、研究で得た知識で薬を作って売っていたのだ。冒険者なら万が一の事態に備えて回復薬の一つくらいは保険で買っておくだろう。冒険者が多く集まり賑わうリルの町ならば、その売れ行きもきっといい。
『ああ、あれか。これはリルの町じゃうちしか扱ってない特別な製品でね、一応今のところ販売してるのはこの青いのだけで、他はまだ量産できてない展示品なんだ』
『……薬、だよな?』
『まあ大まかに言えばそうだな。気力活性剤、失われた気力を回復させる秘薬だ』
どくん、どくん、と胸が早鐘をつき始める。
冒険者なら、きっと一つくらいは保険で買っておく。
特に異世界に来たばかりですぐさま瀕死に陥った新人冒険者なら、きっと買っておく。
『そういえばこの薬はここでしか売ってないって言ったな? それほどメジャーな商品じゃないのか?』
『ああ、実はうちは高名な薬師のセンセイと懇意にさせてもらっててな。そのセンセイが手作りした薬を降ろしてもらってるんだ』
『ほう……? じゃあこの、気力活性剤とやらはやすやすと誰もが作れるものじゃないのか』
『当然だ。そんじょそこらの粗悪品とは比べるべくもなく、品質は保証する。なんせあのシャルマ様が精製した薬だからな』
青い、小瓶……。
あの時、冒険者になったばかりのあの日、役に立つものを買っておこうと覗いた雑貨屋……。俺はその店で便利なんだかどうなんだかわからないキャンプグッズ一式を押し切られる形で買わされて……そして店の片隅に置いてある薬品棚に並ぶ青いポーションらしきものを、買ったんじゃなかったか。
あの店主が口にした、高名な薬師……確かに薬師だろう。薬を降ろしてくれる相手は、店主にとって研究員でも科学者でも魔術師でもなく、薬師だったはずだ。
そうだ、その店主の口から、俺はハッキリと聞いていた。何でもない店主との雑談だと聞き流していた、その薬師の名前。
……シャルマ様。
「……俺、持ってる」
「えっ?」
「シャルマ、俺、その薬持ってるぞ!」
そう、その薬はまだ使われることなく、俺の愛用のバックパックの中に突っ込まれている。
いつか使うことがあるだろうと、ずっと保険としてしまい込んでいた。
「その薬があれば、メウは助かるんだな!?」
「え、ええ、そうです、でも本当に……」
「荷物の中に入れっぱなしだ!」
俺はそうやってシャルマと掛け合いながら、深夜の騒音に対する苦情などすっかり頭からすっぽ抜けて、先ほどまで自信が寝かされていた部屋に駆け出した。
扉を開け、ベッドのわきに置かれていたバックパックを手に取る。ありがたい。昏倒した俺を運ぶ時に荷物まで運んでくれたシャルマには感謝の念しかない。
中を探る。そうこうしてるとシャルマも後から追いついた。数日分の携行食糧と何枚かのタオル、替えの服を引っ張り出して、一番奥にしまい込んでいた、青い液体の入った小さな小瓶。……それが指先に当たる。
「シャルマ、これ……」
「……っ、これ、間違いなく私の薬です! これがあれば……」
「メウは、助かる……」
「はい!」
そして俺はシャルマに連れられて、メウが寝かされている部屋に入った。
ベッドの上に横たわり、布団をかけられているメウ。月明かりに照らされるその顔は、いつもよりもずっと白かった。それが美しさよりも不気味さを感じさせるのは、あまりにも生気が薄すぎるからだろう。
「……チヒロさん、残酷な質問ですが、本当にメウさんに飲ませていいんですね? 確かにメウさんの命は助かるかもしれませんが、その代わりチヒロさんの気力はもう二度と……」
「いい、メウに使ってくれ」
ほんの一瞬も迷うことはなかった。
確かに今、気力を失っているのは俺も同じだ。この薬で気力を回復させれば俺の気力回路も回復するのかもしれない。
けれど大切な仲間の命と引き換えにしてまで、手に入れたいと思う力ではない。
もしこれで冒険者稼業を廃業になったとしても、メウさえ生きていてくれればそれで構わない。こいつにまた腹いっぱい飯を食わせてやるためなら、肉体労働だってなんだって喜んで俺はやるだろう。
ふっ、と声にも出さずに自嘲した。
ろくに就職活動もしないで、かろうじて生活費を稼ぐためだけに働いていたバイト先で、職場の人間から仕事を舐めてると言われ続けた俺が……ここまで変わるとはな。
「わかりました」
俺がそう答えるのは最初から分かっていただろう。シャルマは優しく微笑んで、メウの頭を抱えて口から回復薬を注ぎ込んだ。
生命活動が殆ど停止しているのに近いのだろう。口から薬が少しこぼれる。だがゆっくり、ゆっくりと喉を鳴らして、瓶の中身をメウは飲み干した。
いつの間にか緊張していたのか、強く握り込んでいた手のひらを開く。安堵のため息が出た。同じタイミングでシャルマも息をついた。
「明日の朝には、きっと気力が元に戻っているはずです。目も覚めると思います」
「……よかった、本当に。ありがとうシャルマ」
「いえ、薬を持っていたのはチヒロさんです。本当に……よかった」
俺はメウに近づいて、肩まで布団をかけて、優しく頭を撫でた。
心なしか真っ白だったメウの顔には既に僅かに赤みが差し始めているような気がした。
俺が目覚めるまでの間もメウのことをずっと気にかけていたのだろう、シャルマはようやく山を越えたメウを見て柔らかく微笑んでいた。
「シャルマ、このことはメウには黙っておいて欲しい」
「……チヒロさんの気力がなくなってしまったことは、メウさんもすぐに気付きますよ。隠し切れることではないと思います」
「ならさ、俺の方はもうどうしようもなかった、ってことで合わせてくれよ。俺が自分勝手に暴走して、どう足掻いたって治す方法なんか無かった、手遅れだった、ってことでさ」
俺はどんな状態だろうと今だってこうして生き残っている。そもそも命と天秤にかけるようなものではないのだ、戦う力程度のものは。
けれどメウはそう思わないかもしれない。もしかすると自分のせいで俺が気力を失った、だなんてバカな勘違いをするかもしれない。
「……わかりました」
シャルマは同意してくれた。俺が言わんとしていることを汲み取ってくれたのだろう。
そしてシャルマと二人して、静かに部屋から出る。明日の朝にはきっと快復していることを祈って。
「あの、お二人とも……」
「……あれ、あんたは」
扉から出た俺たちを待ち受けていたのは、依頼人であるシャーリー……ではなく、シャーロット姫だった。
落ち着かない様子で今出て来たメウの部屋を気にしている様子である。
「……大丈夫、一命はとりとめました」
シャルマが言うと、小さく驚いたようで、それからすぐに安堵の表情を浮かべた。
「お二人にお話しておかなければならないことがあります」
そして意を決したように顔つきを険しいものにしてシャーロットが言う。
「……俺も、あんたに……、じゃ、なくて、姫様に聞いておきたいことがある」
無言でうなずく。そうして俺たち三人はつい今しがたまでいたテラスに戻った。




