泥酔、悪酔い
※キャラ挿絵あり
「隣、いいでしょうか?」
俺が野菜の溶けだした風味豊かなスープに頬を緩ませていると、突如背後から声がかかった。女性の声である。
「あ、どぞ」
スープに夢中だったので、特に振り返りもせずに空席である隣を促す。先ほどよりも空席は減りほぼ満席、といった風である。向かいの席にも男連中の三人組が座り、先ほどから談笑に花を咲かせていた。残念ながら俺は人見知りなのでその会話には加わらなかったが。
大きなジョッキをドンと置き、声の主が右隣に座る。
ふわっといい香りがした。これは食欲を促す系の香りではなく、隣に座った女性の髪の毛から香ってきた優しい香りである。
ちょっと気になったのでチラリと隣の様子を伺ってみる。
「お一人なんですか?」
盗み見たつもりであったが、向こうもこちらを気にしたのかバッチリと目が合ってしまう。
「あ、あー、そうだな、うん」
そして急にどもりだす俺。それも仕方がない。相席を申し出てきた女が、それはそれは見目麗しい美女だったのだ。
腰の下まで伸びたつやつやの黒髪と、シルクのように滑らかな肌。まるで雑誌から飛び出したモデルか何かかと思ったくらいだ。
細い眉と垂れ下がった柔和な目。上品に微笑むその姿はまるで女神のようである。
年は俺よりちょっと下か……いや、今の俺の肉体年齢からするとちょっと上になるのだろうか。穏やかな表情とお上品な物腰。薄手のキャミソールらしき服の上からでもわかる豊満な体。
……大人のお姉さんという感じである。実年齢的にはきっと年下なんだろうけれども。
「冒険者……ですよね?」
「まあ、そうだな……今日登録したばかりのニュービーだけど」
「あら、それは素敵。今日は記念日ですねえ」
先ほどまであれほど食欲を掻き立てたイ族のシェフ自慢の品々が、急速に味気なく感じる。喉も乾いてくるようだ。
う、ううん、万年独り身だったとはいえ、ここまで美人に弱かったのか、俺は。
彼女はどうやらヒト族……であるようだ。パッと見て特にこれといった亜人ならではの身体的特徴が見受けられない。
「そういえば名乗ってませんでしたね。私はシャルマ。……一応、冒険者としての資格も持っています」
あまりクエストは受けませんけれど、と無邪気に笑う。
「俺はチヒロ。さっきも言ったけど新米冒険者だ。この町にも来たばかりで、右も左もわからない、って感じだな」
「チヒロさん。素敵なお名前ですね」
ほわっ、と胸の中で何かが温まった。
自分のことを女性に甘い、と思っていたのは確かである。だがここまで惚れっぽい人間だったとは。いや、これは、どう考えても一目ぼれである。
変にドギマギして、どもるとみっともない。あくまで冷静を装わなくては……。
「シャルマ……だったか、食事はいいのか?」
「ええ、私、食事はあまり必要ないのです。一日一食も頂けば十分なんですよ」
「そりゃまた……燃費の良いことで」
シャルマの前にあるのは大きなジョッキひとつのみ。中に入っているのは発泡性の飲み物……色味から察するに恐らくはエールか。
美しい女性がジョッキ片手に、というのもなかなかギャップがあっていい。
と、よく見ると小皿を一つだけ机に置いている。中身は……炒ったナッツ?
「チヒロさんは飲まれませんか?」
「む、いや、あまり酒は強くなくてですな。いや全く飲めないという訳じゃないんだが……」
シャルマの姿に見とれていたらちょっと変な感じの返答になってしまった……。
「でしたら! せっかくの記念の日なんですから、乾杯しましょうよ?」
「う、ううん、そこまで言われちゃあ……」
俺の返事に我が意を得たり、とばかりに喜色満面になる。左手を大きく上げて近くを歩いていたウェイトレスを呼び止めるシャルマ。
シャルマに気が付いたウェイトレスがひょこひょことこちらに駆け寄って来る。って、ウェイトレスだと思ったのは見覚えのあるメイドさんであった。
「いつものをいただけますか? チヒロさんの分も」
「はい喜んで~、って、あなたは先ほどのお客さま……!」
「あ、その節はどうも」
お世話になってますとは言えなかったので軽く頭を下げるにとどまる。
「シノさん、チヒロさんと面識が?」
シャルマもメイドのシノちゃんを知っているのだろう。というかこの宿屋を使っていれば当然か。
俺との出会いが出会いだったため、なんと言ったものだろうかとシノちゃんは逡巡している。仕方がない、素敵なシーツを頂いたお礼に助け舟を出してやるとしよう。
「部屋の場所がわからなくて困ってたら、シノちゃんが教えてくれたんだ。そうだよな、シノちゃん」
「……あっ、は、はい、そうなのですっ! えーっと、チヒロさま、でしたでしょうか。先ほどはご挨拶もできずにすみませんでしたっ」
「いやいやいいんだ。色々と助かったからな」
丁寧にピシっと頭を下げてくるちっちゃな金髪美少女。うさみみが付いているのだから卑怯である。
「あっ、えっと、エールでしたね。ただいまお持ちしますっ」
そういってひょこひょことまた駆け去っていく。隣のド美人も素晴らしいが、ああいう小動物系の美少女も捨てがたい……。
シノちゃんは器用にも泡が今にも溢れそうなエールのジョッキを全く揺らすことなく運んでくれた。
「お待ちどうさまです、お会計は後ほどまとめてお支払いいただきますっ!」
「あっ、この場は私に付けておいてもらえますか?」
と、シャルマさんからの思わぬ申し出。
「い、いやいや、女性に奢ってもらう訳には……」
「良いんですよ、せっかくの記念の日なんですから。ここでお会いしたのも何かの縁でしょうし、お祝いさせてください!」
と、意外と強い押しにたじろがされて引かざるを得ない。俺の安っぽい男としての矜持など無いに等しいので、強く言われて反発するほどの物でもないのである。
美人に奢ってもらうというのは確かに恥ずかしいとは思うのだが……まあせっかく祝ってくれるというのだから甘んじて受けるとしよう。
「それでは乾杯しましょう。チヒロさんの華々しい冒険者デビューを祝しまして!」
乾杯、とジョッキをぶつける。どうやらこういう文化は世界共通らしい。
少々音頭が恥ずかしい内容な気もするが、無邪気な笑顔を見ると、まあいいかと思うのだ。
一口、二口。うむ、悪くない。さすがに技術がモノを言う造酒なので元の世界ほどの品質とは言えないが、それでも飲めないというほどではない。というか文明レベル的に冷蔵庫があるのかどうかも怪しいのにきちんと冷えている。それだけで嬉しいものがあるな。
ふと隣を見ると……ぐっ、ぐっ、ぐっ、と勢いよくジョッキを傾けるシャルマ女史。……おやあ?
「……っぷはあっ!」
「あのー、シャルマさん?」
「やっぱり、この一杯のために生きてますよねえ」
ドン! と空になったジョッキを机にたたきつける。ううむ、中ジョッキどころかどう見ても大ジョッキなのだが……。
俺が二口ほど飲んだジョッキの中身は一割も減っていない。
「お待ちどうさまです~!」
俺がシャルマの飲みっぷりに唖然としていると、ドンドン! と机の上に同じ大ジョッキが二つ並べられる。持ってきたのは俺のお気に入り美少女メイドのシノちゃんである。
「え、いつの間に……」
「シャルマさまのいつもの、というのはジャンジャン持って来い、という意味ですからっ!」
な、なんだって。
「チヒロさん、まだ一杯目が空いてないじゃないですか!」
「い、いや、だからそんなに強い方じゃないって……」
「まあまあそう言わず、記念日ですから!」
記念日というのは何でも許される魔法の免罪符ではない!
先ほどまでの愛慕の気持ちはいずこへ……。酒を入れた瞬間に豹変したこの残念系美女はいったい何なのだ。
「ほら、グッと行きましょう! グッと!」
と、言いながら新たに来たジョッキを片手に持ってグッと飲み干していく。俺に勧めているのかと思ったら自分で飲んでるじゃないか。
僅か数秒で二杯目を飲み干し、再び景気よく机にジョッキを叩きつける。
見ている分には全く逆の方向性で惚れ惚れする光景ではある。
「ほらあチヒロさん、こんな感じですよ!」
僅か数分足らずで多少酔いが回ったのか、随分と上機嫌である。頬も上気して、シルクのように透き通っていた肌も赤みを帯びているようだ。
酒を入れてちょっと厄介にはなったが、目の前の女性がとんでもない美女であることには変わりはない。いったい自分の感情をどう処理すればいいのか。
「……仕方がない。潰れても知らないからな」
俺が。
そう言い放ち、俺もようやく一杯目を飲み干した。
スカッとした炭酸が喉を通る。何とも言えない爽快感である。学生時代に多少嗜んだアルコールであるが、俺の知るビールとは風味がかなり異なる。使っている素材が違うのか、もしかすると大麦ではないものを原料としているのだろうか。
そもそもここは異世界。似たような文化を持っているとしても地球と同じ原料があるという訳でもないか。
とかなんとなく考えているうちにシャルマは三杯目に取り掛かっている最中だった。
「……っぷはあ~」
そしてそのままジョッキを空にする。
……結構な水分量だと思うのだが、この細身の一体どこに収まっているのだろうか。
そしてとてつもないハイペース。こりゃ、一人でガロンを空ける勢いである。
俺がもう言葉も出ないほど驚いていると、再びシノちゃんがやってきて両手のジョッキをシャルマの前に置いた。
「お待ちどうさまです~っ」
そしてあわただしく空になったジョッキを持って去って行く。
食堂をよく見るとどうやら酒の給仕はシノちゃん一人で行っているらしい。この人数にたった一人だと相当ハードだと思うのだが、そこは亜人であるト族の力の成せる業なのか、巧みなフットワークでひょこひょこと食堂中を駆け回っている。さすがはうさぎの民族。脚力自慢なだけはある。
「いいですか、せめて私の半分くらいは飲んでくださいね!」
隣の美人が何か言ってる。
「いや、既に四杯目突入してるじゃないか……」
「まだまだ序の口です!」
何かと戦っているのかと思わせるくらい、シャルマのジョッキを飲み干すスピードは速かった。
分別のつかない若者が若気の至りで早飲み勝負をするようなペースである。
「お酒はもっと楽しんだ方がいいと思うが……」
「とっても楽しいですよ~」
にこにこ笑顔。まあ、本人が楽しいのなら止める理由はないのだが……。
この手の人間は酒が回ると人格が変わるのが定番である。清楚でおしとやかな美人さんかと思いきや……いったいどうなってしまうのか。
その後もシャルマのペースは落ちることはなく、俺が必死に頑張って三杯目を空ける頃には、シャルマはなんと十杯目の大台に乗るところだった。
「それにしても……チヒロさんはとってもいい匂いがするんですね~」
「……は、はあ、左様ですか」
ようやくペースが落ち始めたか、という頃にはシャルマはすっかりと出来上がっていた。瞳はとろんとして顔は真っ赤。色っぽさを通り越して心配になる。
上半身を机に投げ出し、ひんやりするのが気持ちいいのか右頬をぺたっと机にくっつけている。全身の骨でも抜け落ちたか、というほどに動きはふにゃふにゃだった。
「私、これでも鼻には自信があるんです!」
バタッ、と上半身を起こす。
「シャルマ……ヒト族、だよな?」
「もちろんですぅ~」
くんくん、と鼻先をぴくぴくとさせて見せる。
そしてそのまま俺の方を向き、美人が台無しのにへらっとした表情を浮かべて俺の首元に頭をうずめた。
「~~!? しゃ、シャルマさん何をっ!」
「いい匂いがするんです~」
そのままぐいぐいと首元から胸にかけて鼻をこすりつけてくる。すんすんすん、と鼻を鳴らしながら。
なんだ、なんだこれは。へべれけに酔っぱらった美女がまるで子猫のように甘えてきている……だと。
というか間近だからか、くっついてるのは頭だけではない。両腕を俺の背中に回して抱き着いてくる。そのせいで上半身がぴったりと俺の体に押し付けられているのだ。その豊満な肉体が、細身のわりに出るとこ出てるわがままボディが、ふにふにと……あ、鼻血出そう。
「ぬうう、シャルマ、ちょっと落ち着こう、水でも飲んで、ほら!」
ガバっとその肩を両手で掴み引き離す。名残惜しいが、こんな泥酔した女を酒の力に任せてどうこうできるほど俺は肉食系ではない。というかそんな経験ない! ヘタレと呼ばれてもかまわない。
こちとら二十九年間女っ気なんて一切ない人生だったんだ!
「チヒロさんこそっ!」
「うぇっ、なんだっ」
両肩を掴まれてふにゃふにゃとしていたシャルマだったが、急に何かスイッチが入ったかのようにびしっと姿勢を正す。
「チヒロさんこそ本当にヒト族ですか~?」
「ああっ? そりゃそうだろ!」
「うううう……おっかしいなあ、この匂いは……ヒト族の匂いじゃないんだけどなあ~」
再び骨がすっぽ抜けてふにゃりとし出す。
っていうか今何か気になることを言っていたな……。
「ヒト族の匂い……って、どういうことだ?」
「だからあ、匂いですよ匂い! 私の気力感知はちょっと特殊なので、嗅覚で感知するんですよ~」
「……んん?」
思わぬ発言に眉をひそめる。大ジョッキ三杯は俺にとってはとんでもない酒量だったので、俺自身もかなり酔いが回っていた。
それでも冷静さを保てたのは俺以上に出来上がっている人物が隣にいたからである。
そんな残り僅かな冷静さを必死になってかき集める。
極々僅かに、自分の気力の流れが乱れていた。……これは、さっきドワーフの爺さんにもされたことと同じだ。気力感知を受けている。
「シャルマ、さっきからずっと俺の気力を探ってたのか」
「はい~すっごく、いい匂いです!」
そういって再び懐に潜り込んでくる。
今度は急襲ではなく予測がついたので、すんでのところで両手でシャルマの頭を抱えて防いだ。
「俺の匂いは、ヒト族のとは違うのか?」
ぐいっとその頭を両手で掴み、目が合うように眼前まで持ち上げてやる。
美人に対する扱いとしては最低なものだが、このへべれけ泥酔者にはこれくらいでちょうどいい。どうせ理性的に何か言ってももはや聞いていないのだ。
「うう~ん、ヒト族のようで、違うような~気力の量もすごく多いですし、嗅いだことのない匂いです~」
ヒイロは俺の気力量が増加したことを、突然変異のようなものだと言っていた。ギリギリまで空っぽになった状態で他人の気力が注ぎ込まれて何かしらの変化が起きたのだと。
それはもしかするとヒイロの持つ異様な気力のせいだったのかもしれないし、俺の肉体が例の内なる声とやらによって造られた仮初の物だったからなのかもしれない。もしくはその二つのどちらもか。
結果として俺の持つ気力は、ヒトのそれからは変質してしまった、ということか。さすがに昨日今日気力感知を覚えたばかりの俺では自分の気力の性質までは把握しきれない。
そういえば気力感知はそこそこ習得するのが難しいというし、対象の気力の性質まで掴んで見せるとは……このシャルマという女、一見ただの酒好きな残念美人だが、冒険者でもあると言っていたしかなりの実力者なのかもしれない……。
「うぇへっ」
という気の抜けた声。思考にふけっていた俺の手が緩み、ついうっかりシャルマの頭を放してしまった。
俺の眼前まで持ち上げていたシャルマの頭はそのままつるっと滑るように前方に突き出された。
すなわち、俺の顔がある方へと。
え? と思ったのは僅かの時間。
「んん……むちゅ」
シャルマのぷにっとして柔らかい薄紅色の唇が、俺の口元……から頬にかけての辺りに押し付けられた。
「ひゃあんっ!」
と、生娘のような叫びをあげたのは他でもない俺。
あまりの出来事に気が動転する。
「しゃしゃ、シャルマさん!?」
それまでの冷静な思考などどこへ行ってしまったのか。急転直下の出来事に俺はたまらずその場から飛び退いた。
支えになっていた俺がいなくなったため、そのまま俺の体に沿ってずりずりと崩れ落ちていくシャルマ。もう全身に力など入らないのか、最終的には、べたり、と地に頬を当てることになった。
「シャルマさん! 俺、は、初めてだったんですけど!? ちょっと!?」
起き上がる気配はない。
……すぴー、すぴー。とどこからともなく幸せそうな寝息。おいおい……。
「マジですか……」
口元に残る生々しい感触を拭うべきか拭わぬべきか……。とにかく大変な嵐は過ぎ去ったようである。とりあえず今はそれを喜ぶとしよう……。
いやあ、めちゃくちゃな美人とお近付きに慣れたと思ったんだけどなあ。中身は残念だった。
『などと言いつつ、内心では歓喜しています』
うおっ、内なる声さん!?
ひ、久しぶりに来て早々俺の心情を捏造しないでいただきたいね。
『などと言いつつ、ワンチャンあったのではないかと思っています』
違うから! 内なる声さん、何の影響か知らないけどちょっと俗っぽくなりつつない?
『そのようなことはありません。あなたの心の影響です』
ま、まさか俺が邪なことを考えていたから……内なる声さんも俗っぽく……?
ごめんよ内なる声さん、世界観的にそういう立ち位置にいたらやりづらいだろうに……。
『これ以上は本編に影響します』
あ、すいません。
内なる声さんはめちゃくちゃやりづらいんだよな……なんかタブー多そうで迂闊に触れないし。
『しばらく登場を自粛します』
その方がいいな。
って、やっぱり自分で出て来れたりするんだ、内なる声さんは。
『…………』
また何かに抵触しそうになったのか……。




