表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/29

5・絶対に失いたくない人

 チカが入院してから約二週間。今日で退院するって聞いたから、新沢さんの許可を得て病院に向かった。

 病室のベッドには脚を垂らして座るチカがいた。


「お兄ちゃん、心配かけてごめんね。まさか蛇に噛まれてたなんて、気づきもしなかった」


 チカは申し訳なさそうに笑った。今は血行も良さそうで辛そうでもない。元気なチカが戻って来た。


「あ、もしかしてアレかな? お兄ちゃんが寝惚けて外で寝た日、妙にチクッてしたんだよね。アレかなぁ?」


「元気過ぎたな。普通、チクッて感じたら気にならないか? 気になって痛み感じたとこ見るだろ」


「そんな繊細じゃないんだよね私。基本的に大きな怪我とかしない限りスルーしちゃう」


「その性格が今回のことに影響していると思うので、今後は改めましょう」


「はーい、気をつけまーす」


 ベッドの横に置かれたデスクからポーチなどの私物を手に取っなチカは、早足でこっちに向かって来た。


「それじゃあ、出よっか」


 満面の笑みを見せたチカと手を繋いで、病院の階段を降りて行く。その間、チカは楽しそうに病院での食事のことや他の患者との思い出を話してくれた。

 窓ガラスをヤモリが破って侵入して来たっていうのはちょっと信憑性無いけど。


「あ、そう言えばこの一階の廊下でね、看護師さんがお医者さんに怒られてたんだよね」


「へぇ、何したかは知ってんの?」


「うん、ヤモリに餌付けしてたって」


「それは怒られるの当然なんじゃね? さっきのヤモリかそれ。さっさと逃がせよ」


「ううん違うの。そのヤモリ、実は看護師さんのペットだったって」


「ペットを病院に連れて来たらダメだろ。怒られんの当たり前じゃないか」


「強く生きろよって思ったね」


「マナーは守れよって思ったかな」


 病棟を出て直ぐのとこで看護師に挨拶されて、心の中でお世話になりましたって言っておいた。声に出さなかったのは、あの看護師にお世話になったのかが不明だからだ。

 チカは隣の病室に入院していた小学生の男子とのババ抜きが盛り上がったことを話していて、挨拶すらしなかったからちょっと不安に。


「チカ、ちゃんと医者とか看護師にお礼言ったか? 一応お世話になったんだから、言わなきゃダメだぞ?」


「大丈夫、お兄ちゃんが来る前に一通り言っておいたよ。いやぁ、病院って広いんだね。捜すのに手間取っちゃった」


「まぁ、広いでしょうね」


 チカだからお礼くらい終えてたと分かっていたよ。予想出来ていたよ。本当だぞ? 嘘じゃないからな。マジで。

 久々に外に出たらしいチカは、陽射しに一旦眼を瞑ってから、ゆっくりと顔を上げた。チカはやっぱり何処か、凛とした雰囲気の顔をしている。童顔だけど。


「そうだお兄ちゃん、私が動けない間どうしてたの? ご飯食べた? ちゃんと寝た? 体調管理はしっかりしてね?」


 チカが心底心配した様な顔で見て来るから、何かおかしくて笑った。そしたら、ふくれっ面になっちゃったが。


「何で笑ってるのー? ちゃんと答えてよ」


「悪い悪い。大丈夫、飯は食べてたしちゃんとベッドで寝た。体調管理はまぁ、大丈夫だと思う」


「おぉ、凄い。流石お兄ちゃん。でも、きっと協力してくれた人がいるんだよね?」


「ああいるよ。だから今から、そこに向かおう。入院費を出してくれたのは彼女だから、最大の感謝を伝えなきゃ」


「そうなんだ……。うん、行こ。私もお礼言いたいし!」


 二週間程お世話になった新沢さんのビルを上って行って、仕事部屋である十五階にエレベーターで向かった。何故か、初めて来た時よりも数段緊張してる。

 まだ金は返し切れていないけど、まずは心からの患者を伝えるべきだ。滑らかな手触りの扉をノックして、部屋へ進んだ。


「新沢さん、ただいま。お疲れ様です。突然で悪いけど、この子が俺の義妹(いもうと)、チカだ」


「こんにちは。兄がお世話になりました。私のためにお金出してくれて本当にありがとうございます」


 チカは普段の明るい態度ではなく、慎ましく礼儀正しくお辞儀をした。切り替え方凄いなぁって本気で思う。

 新沢さんはパソコンのキーボードから手を離すと、珍しくこっちに身体を向けた。普段なら仕事の途中で余所見なんて絶対にしないのに。


「顔を上げて下さい。お兄さんのお世話は確かに大変でしたが……」


「おい」


「お金に関しては、私の好意ではありません。困っている人間は助けずにいられないので、そうしたまでです」


 新沢さんの表情はかつて無い程柔らかい。口調は冷たくても、心は穏やかなのが見て取れる。

 困ってる人間を助けずにはいられないって、本当凄いことだと思う。バカにしてるとか一切なくて心から尊敬出来ることだ。俺だったら見返りとか何があるか怖くて踏み出せもしない。


「そうなんですか、いいと思います。私は困っている人達を助けてあげられる技量など持ってないから、尊敬出来ます。いつか、貴女みたいな大人になれたらいいなって、今心から思ってます」


「貴女なら私よりも優秀ですので、可能ですよ。きっと」


「へへへ、ありがとうございます!」


 二人のやり取りが微笑ましく感じて黙っていたら、急に変な感覚に襲われた。何か刺される様な──イメージは新沢さんの視線だった。


「先輩、貴方も妹さんに遅れをとりたくないのなら努力を怠らないことですね」


「はは、肝に銘じておくよ」


「それと、私の方から質問が一つ。答えていただきます、問答無用で」


「言い方どうにかしようよ」


 新沢さんは引き出しを開けると中から一枚の紙を取り出した。よく見てみると、誓約書と書かれている。


「今日一杯でここを辞めますか? まだ借金は大して返せてはいないのですが、どうします? 辞めるのなら残りは現金で払っていただくことになりますが。残るというのなら、これまで通り働いてくれるだけで充分です。どちらにしますか?」


「ああ、なるほど。正直充分、フランスで生きていくための知識は新沢さんからもらってるからなぁ」


「……では、今日でお辞めになるということでよろしいでしょうか」


 新沢さんは誓約書の他に印鑑を取り出した。今は既に、こっちに眼さえ向けていない。

 俺は印鑑が押される直前に新沢さんの手を止めた。チカが眉を曲げて、新沢さんが鷹の様な鋭い眼光を放つ。それでも俺は手を離さずに、誓約書を奪い取った。


「ちょっと、貴方何してるんですか? 誓約書は奪っていい物ではないのですが」


「いやぁもうちょっとだけ話聞いてくれてもいいんじゃないか? 決断に辿り着くのが早過ぎるって」


 まぁそれが新沢さんの強みなんだろうけど。何事も迅速に熟せるからこそこの仕事を続けられるんだろうし。

 だとしてもまだ、俺は決断を出してないから。


「俺は辞めないよ。ここで、借金返済出来るまでは絶対に働く。いつになるか分からないけど、全ての返済が終わったら、正式に働かせてくれないか?」


 俺が尋ねると新沢さんは唾を飲んで印鑑を元の場所に戻した。どうやら、俺の意思を汲んでくれたらしい。


「いいでしょう。その代わり、足手纏いにだけはならないで下さいね。もし、正社員となってから初めの頃の様に失態を犯し続けたら給料半分にしますから」


「お、ぉぉ。半分……じょ、上等! 大成功させてやるから見てろよ」


「楽しみにしてます。……大成功って何するおつもりなんですかね」


「よく分からない」


「あの、盛り上がってるとこ悪いんだけどお兄ちゃん」


 確かに盛り上がってるかもと笑って、チカに振り返った。何やら不安気な瞳で見つめて来る。

 そんな顔されると寧ろこっちが不安になるんだが。


「ここで正社員になるって……千寿ヶ峰には戻らないの?」


「ああ、なるほどね」


 誰でも浮かぶ疑問だ。そりゃそうだよな、世界一周か何かの旅で元々は還る予定だったんだから。

 でも俺は千寿ヶ峰に戻るより、ここで新沢さんにこき使われる方がいいんじゃないかって、自分なりに考えたんだ。

 不安気なチカの頭を撫でて、その自分なりの考えを教える。


「千寿ヶ峰に戻ったとして、万が一『変態ニート』や『暴力生徒』なんて呼ばれたらどうする? 生きにくいだろ? 千寿ヶ峰じゃ」


「だとしたら、別の町でもいいんじゃない? わざわざ別の国で慣れない暮らしをするよりは」


「チカにとって千寿ヶ峰は別の国で慣れない暮らし──だっただろ?」


 最大の理由は、それだった。かつて幼いチカは一人で海を渡り、故郷とは別の国である千寿ヶ峰までやって来た。もう随分経ったけどチカの故郷には行ったことがあるし、生活が違うことも理解した。

 チカにとって未知の世界だった千寿ヶ峰は俺にとって『普通』。又は『当然』と呼べる場所。変化も知れないけど、チカと並ぶには知らない町で暮らすべきだと考えたんだ。


「まぁ他にも、たった二週間程度でも働けた翻訳の仕事を続けたいってのもあるし、ついでに色んな言語を覚えてみるのも有りかなってさ。……ダメかな」


「ダメじゃ……ないけど」


 チカは俯いて、俺から一歩離れた。それは何かを待ってる。そう感じた。

 もしかしたらチカは一つだけ、勘違いしてるのかも知れない。だからこんな寂しそうにもしてるし俺から離れたんだと思う。

 安心してくれ、俺も()()は拒否するから。


「チカ、勿論チカも一緒だ」


「……! いいの?」


「当たり前だろ」


 俺はチカの手を握って、強く抱き締めた。なるべく苦しくならない程度に。


「俺はチカと一緒に生きていたい」


 もう『離れたくない』じゃなくて、『離さない』に変わったんだ。

 もう『チカのために』じゃなくて、『チカと共に』に変わったんだ。

 だからこれからもずっと、隣に居て欲しい。


「チカは絶対に失いたくない人なんだ。俺からも、離れないで居て欲しい。ずっと、ずっと一緒にいようチカ。──ここで、二人で暮らそう」


「……っ、はい……!」


 一瞬新沢さんが何かを言おうとしていた様にも見えたけど、次の瞬間には微笑みに変わっていた。それから、仕事に戻る。新沢さんはそうでいてほしい。何となく。

 この後チカは泣き出しちゃって、何が何だか分からないで困惑してたら新沢さんの溜め息が聞こえた。分かるなら助けて欲しい。こういう時は、自力じゃなくてもよくない? 寧ろダメ?

 何処からか噂を聞きつけたらしいフランス人や日本人の社員達が一斉に入って来て、祝福をしてくれた。おぉ、こんな時に限って聞き取れない。まだまだだな、俺。


 ──日々、新沢さんに本気でシゴかれることになった俺は、先月手に入れた一階建ての家でバタんと倒れた。ベッドがふかふかで気持ちがいい。


「ああ、疲れたマジで疲れた。流石に毎日十五階までダッシュするのはキツい」


 翻訳の仕事も簡単ではないので、目指す方は覚悟が必要です。やったるぞー的な軽い気持ちじゃ保ちません。

 最近はベッドに飛び込んで何となく時計を確認するのが日課になっていて、今も枕元の目覚まし時計を覗き込んだ。


「夜の八時……マジか、上がったの六時四十分だぞ。流石に二キロ以上離れたところはキツめか」


 家と、仕事場である新沢さんのビルは凡そ三キロ離れている。近くにいい場所が無かったからこんなに離れたんだけど。車があればもっと楽なんだろうな。

 因みにチカはと言うと、俺と同じく働くため、まずはバイトをしている。もう直ぐ帰宅する筈だから、飯でも作っておこう。


「……あ、でもやめとこう。俺何か飯作るのはド下手クソなんだよな。翻訳の仕事よりも圧倒的に苦手だ」


 何が間違ってるのかはとにかく分からない。レシピを参考にして作るのに、炭みたいになるのは何故だろう。


「ん? あれチカじゃね? もう暗いのに窓越しで見えるとか、我ながらチカ大好き過ぎだな。はっはっは。さてと、脅かしに行こうかな」


 チカが歩いているのが遠くに見えたから、玄関前で腰を下ろして待機。よくある、『ばー!』って脅かすドッキリを決行することにした。

 距離的にはもうそろそろ着く筈。チカの驚いた顔が楽しみだ。

 ドアノブが捻られ、身体が見えた瞬間に勢いよく立ち上がった。


「ばー!」


 チカの顔がゾンビの様にツギハギだらけ。


「ギャー!」


「……こっちだって窓から見えてるんだから、バレバレだよ。私の視力甘く見ないでね?」


「だとしても何故そんな覆面を持っているのか……」


 チカは覆面をバッグに詰め込んで、クスッと笑った。おっと、忘れるところだった危ない危ない。

 先に進んで行くチカの手を握った俺は、疲れを隠して笑顔を作った。


「お帰り、チカ」


「ただいま、京。ご飯まだだよね? 作るからちょっと待っててね」


「おう! んじゃ、先に座ってるわ〜」


「ふふ、うん。じゃあ今日も後少し、頑張ろ!」


 チカが張り切る中、俺はバッグからこっそりある物を取り出していた。


「今日は疲れたから、休日にするか。ちょっと遅れるけど」


 俺とチカ、二人の人生のクライマックスは恐らく、その日訪れる。

残り二話。よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ