4・チカのためになるなら
肉体労働・デスクワーク・そして完全なる雑用。──そのいずれも下手くそな俺に対して、新沢さんは項垂れていた。
「まさか、私の先輩がこんなにも役立たずだったなんて……驚愕です。お金を稼いでいただく予定だったのが、完全に赤字になりそうなんですけど」
「すまん。本当ごめん。先に時間取らせて資料の翻訳とかしてもらってるのに本当ごめん」
「謝られても何とも言えません。とにかく、お客様に迷惑さえかけなければ何だっていいです。もういっそ。失敗なんてやらかしたら何とか私がフォローしますので、頑張って下さい」
「面目無い」
翻訳の仕事って、結構忙しいんだな。資料ってこれ何に使うの? とか本気で疑問だったけど、先に仕事内容をチェックするのが目的なのな。そうすればする程、翻訳の時に役に立つらしくて。
新沢さんの仕事を間近で見た感想は、劣等感が生まれたってくらいだ。ある仕事ではフランス人の言語を別の国の人間に翻訳して説明。即座に反応して聞き取って翻訳するって、並みの人間にゃ不可能だ。
そしてまたある仕事では、何冊も分厚い何かノートみたいなのが送られて来て、それを全てパソコンで翻訳した物を作成するというもの。たまに四冊程を一時間でって人も居て血が凍りついた。
俺はどの仕事でもひとまずは資料を運んだりするだけ。他にはデスクワークと言っても、新沢さんが作り終えたデータを削除するだけの仕事。だけど文字が読めなくて中々進まない。
今日もまた、六冊分のデータを作成している。
「毎回こんなことやってんのか……凄いな。よく混乱してこないな。俺だったら諦める」
データ翻訳の仕事を終えた新沢さんの横で、そう溢した。凄い剣幕で睨んできた後、新沢さんは背伸びする。
「そんな簡単に諦めるからダメダメなんですよ、貴方は。本来、労働以外の仕事なら熟せる筈でしょうし」
「……何で?」
「貴方は今でこそ何も出来ない文字通り無能と化してしまいましたが、元は違った筈です。私も、貴方の演奏を知る者ですから」
「トランペットの? そんなもんで、俺が色々熟せるって理由にはならないぞ? 結局辞めてるんだし」
「自ら道を変えたのには疑問が有りましたが、当時は見えていたんでしょうね、自分自身が進むべき道を。今の貴方は、迷いがあるなんてレベルじゃない。最早半永久的に続く迷路を彷徨っている状態です」
「何だそりゃ。全く分かんないんだが」
「考えることすら放置しているのですから、当たり前です。……少し疲れたので、コーヒーを買って来てくれますか? 砂糖多めで」
「了解、ちょっと待っててな」
「こちらこそ了解、です」
新沢さんが自身専用とするビルの十五階から降りて、自販機を探した。このビル全体が翻訳専門の会社か。あまり人は見ないけど、新沢さんが一番上って凄いよな。俺とは大違いだ。
後輩なのに。ははっ。十八かそのくらいってことだろ? あの人。
「やっぱ疲れると甘い物飲みたくなんのかな」
コーヒーの超濃厚砂糖入りって書かれた物を購入して、何となく立ち止まった。新沢さんの言っていた言葉を理解しようとして、考え事をする。
「半永久的に続く迷路……か。何だそれ。俺今別に迷ってなんかいないんだけどな。チカとこのフランスを目的地として旅して来たじゃんか」
俺は普通だ。特に何も無い。チカや新沢さんの言うような実力だって本当は持ち合わせていない。
言ってしまえば、トランペットを辞めたのも実力の世界から逃げ出したかったからだった気もする。覚えてないけど。
失敗しまくる人生にはなってしまったけど、元々負けるのが怖くて選んだ道だ。何だって構わない。
「少し遅いのは、私の言葉を気にしてですか?」
十五階に戻ると、新沢さんは新しいデータの翻訳を進めていた。どんだけこの国翻訳することあるんだろう。分からないなぁ。
新沢さんが左手で机をトントンと叩いたので、そこにコーヒーを置いた。
「悪い遅くなった。……やっぱ俺、逃げたっちゃ逃げたけど迷ってはないと思うんだよな」
「やはりそれを考えてましたか。不正解です。貴方は未だに迷いが捨てられていません。……本当は、自分がこのままでいいのか悩んでるんじゃないですか?」
よくパソコンで翻訳しながら会話出来るなこの人。俺が悩んでるかどうか、自分以外が分かる訳ないだろ。
「俺は悩んでないよ。確かに、このままじゃチカと生きてくには足手纏いでしかない。ただチカはそれを理解した上で俺をここまで連れて来たんだ」
「……なるほど、完全に人の所為にするんですね。分かりました、今から三時間程休憩時間をとります。適当に過ごして来てください」
「え……? 三時間? やけに長いけど、むしろいいのか?」
「えぇ、きっと自分の本心が見えてくる……筈だと信じてますよ。さっさと消えて下さい」
「……はいはい」
新沢さん少し怒ってたよな。人の所為なんて言ってたし。誰がいつ人の所為にしたんだか。
フランスの町をぶらぶら歩いていて、俺はあることに気がついた。
「いや待って? 何も出来ないんだけど。俺金の使い方分からないし字も読めないし、人と会話も出来ないし……何もすることない。三時間も、何してりゃいいんだよ」
自販機みたいに数字とかなら分かる。だけど文字は読めない。俺に出来ることは、現状何もない。それだけで初めて感じる様な大きな不安の影が広がって行った。
「そうだ、一回病院に向かおう。もしかしたらチカが目を覚ましているかも知れないし」
進行方向を病院に変え、駆け足になる。まるで必死に生き延びようとしてる、サバイバーとも感じた。自分で。
病院は病室が何故か番号じゃなくてチカの部屋を探すのに手間取った。それでも辿り着いて、言葉を失った。
「チカ、まだ起きてないのか……」
絶望した気分だ。何でか自分でも分からないけど、チカが口を開いてくれないってだけで、酷い恐怖に襲われた。
俺一人じゃ生きていけないんだよ、チカ。俺を一人にしないでくれよ。最強の義妹がついてるって言ったの、チカだろ?
──ああ、そういうことか。
「人の所為って、そういうことなんだな。案外早く理解出来てよかったかも知れない。俺は自分で生きる努力を、捨ててんのか」
俺はチカに守ってもらえると、俺はここまでチカに連れて来られたんだと、どうせチカが全てどうにかしてくれると──そんなことを心の中で考えていたんだ。心の、気づかないくらい奥の方で。だから自分でやらなきゃって責任感を、抱けなかったんだ。
たまには考えてたさ、俺もチカと並べるくらいにならなきゃって。……だけどチカ以上に頑張ろうなんて少しも考えなかった。完全に人任せだったんだ。全てをチカになすりつけてたんだ。
「最っ低だな俺。六つ近く歳下の女の子に全てなすりつけて言い訳して逃げようとか、考えてたのか。マジでふざけんなよ、俺」
何が兄だ。ずっとずっと自覚はしてたけど、ただのお荷物じゃないか。兄としてやるべきことを俺は成し遂げていない。ひとつも。
チカの役に立ちたいのは本心だ。だけどそれ以上のことを望めなければ、実行しなければ本当のお荷物になる。分からないからって、言語から逃げるのも無しだ。しっかり人とコミュニケーションを取れる様にしなきゃ生きていけない。新沢さんがいなかったらどうするつもりだったんだよ俺は。
そんなことも全て、チカ任せだったんだろうけど。
「……ダメだな、それじゃダメだ。結局トランペットを辞めて今を生きてるんだし、その道が間違いじゃないってことも証明しなきゃ。きっと踏み出せるかどうかが、俺の迷いなんだと思うから」
ビルのキーを握り締めて、ベッドに横たわるチカの手に触れた。そして、振り返って病室。飛び出した。
「チカのためになるなら、俺はどんなことでもやってのけてやる。この国で生きていけるくらいには、立派になってやる! ……子供か」
病院を後にして、三時間経たずにビルに戻った。十五階までの階段を上るのはスタミナが保たないから、エレベーターに乗る。勢いが死んだみたいで何か恥ずかしい。
十五階に到着して、ノックせずに新沢さんの仕事部屋のドアを開けた。
「早いお帰りでしたね、どうしました? 私は三時間消えろって言ったんですが」
睨みつける様に言うのは、俺を甘やかさないためだって理解した。だから一歩も退かず、逆に進んでいく。
「それじゃ三時間分働いたことにならないだろ。仕事、貰いに来た。……ついでにフランス語と英語教えてくれると助かる」
「貴方が覚えられるとは到底、思えません」
ツンとした態度で眼を逸らした新沢さんの横まで歩いて行って──土下座した。恥も外聞もぜーんぶ気にせず。
「……は? え? ちょ、ちょっと何してるんですか⁉︎ 床に掌をつけるとか正気じゃない! 早く洗って来て下さい!」
「そっち⁉︎ もしかして新沢さん潔癖症⁉︎ それより、覚えるから教えてくれ、英語にフランス語! ここで暫く暮らすなら最低でもそこは覚えなきゃならないんだ!」
「ぎゃあああ! そんな手で触らないで下さい! 分かったから、早く洗って来て!」
「言ったな⁉︎ 分かったって言ったな⁉︎ んじゃ洗ってくる!」
英語とフランス語を同時に勉強することになった俺は、ひとまず基本的な単語だけを教えられることになった。少しずつ慣れる様じゃなきゃ仕事が進まないかららしい。
初めは全く期待せずにいたらしい新沢さんは、三日後辺りに口を押さえて驚愕していた。
「まさか、教えた単語は全て覚えたんですか? フランス語も英語も。素直に驚きました」
「元から暗記は得意だったんだよな、確か。まぁトランペットで使った楽譜とか、テクニックとか、そういうの覚えることにしか使わなかった所為で勉強はからきしだったんだけど」
「なるほど、今までは好きなものでしか記憶力を活かせなかったと」
「うんまぁ、そんな感じだな。単語は一通り覚えたから、次からは文法とか教えてくれると助かる。空いた時間で構わないから、頼めるか?」
「そうですね、その方が役に立ちますし。分かりました、取り敢えず今日の仕事に向かいましょう」
「おっ、早速英語が試せるかも知れないんだな。流石にまだ不安だからやらないし、新沢さんの聞くだけにするけど」
「今日はスペイン語なので英語は必要ないですね」
「……あ、そうっすか」
スペイン語は難しそうだなぁとか仕事中に考えたけど、その間も翻訳相手のフランス語はしっかりと聞いておいた。知らない単語が出た場合、検索して発音をトイレで聞いたりした。そうやって日々、新たな単語を覚えて行った。
「新沢さん、この英文なら俺でも訳せそうなんだけど。俺がやっておこうか?」
更に五日経った頃、俺は簡単な英文ならマスター出来ていた。我ながら、凄い努力したと感激する。
「そうですか、ならお願いします。ですが一応、翻訳の後は私に見せて下さいね」
「勿論。まだ完璧って訳じゃないからな。んじゃやって来まーす」
「私も別の資料を作成しているので、何かあったらここへ」
「はいよ」
一週間は過ぎた。だけどまだチカは退院出来ていない。チカが帰って来るまでに、英文くらいならマスターしていたい。フランス語も行く行くは覚えて、この国での仕事を探したい。
問題は俺が継続出来るのかってとこだけど、そこに関してはこう考えることにした。『全てチカのため』って。そうしたらきっと、何だってやり遂げられると思うんだ。
──唯一、スタミナ切れが激しいことが不幸。
「こりゃ時々なんか、ジムでもあれば通うしかないな。ストレッチとかもして筋肉痛が頻繁に起こるのも予防しないと」
そこそこ長期間ニート生活だったのが災いしているのであろう体力の低下は、再び運動し身体を慣らすことで回復する。そう聞いたことが確かにあった……筈。ジムは効果的だと思う。
デスクワークより正直やりたくない運動だけど、こんな貧弱な身体じゃあ保って半年。そんなのは絶対嫌だから、二度と体験したくないことだから、本気で努力することにした。
「チカが退院したとしても直ぐには動けない。だからそんなチカを安心させてやれるくらい、成長しなきゃ。十九歳で成長って、かなり遅い気もするけど気にしない気にしない」
折角救われたフランスでの生活、その恩を仇で返す訳にはいかない。新沢さんにもしっかりとお礼をしなきゃな。
チカのために新沢さんを頼り、新沢さんに感謝の気持ちとして尽くす。
いつかやって来るハッピーエンドを手に入れるため、俺はチカのために生きるんだ。




