17・恋に理由なんている?
「う、あ、ああぁ……おおぉぅ……」
「お兄ちゃん。流石に貧弱過ぎないかな!?」
「すまん……」
ホテルに帰って早五分。ベッドでは俺のマッサージが始められていた。
もう色々と隠す必要も無くなったチカが、呆れて溜め息を零す。それでも細い指はぐっと俺の身体を癒してくれていて、本当ありがとうございます。
でもさ、結構動いたんだぞ。俺。確かに貧弱なんだけども。
三日後俺達はこの町……国から出て行くつもりだけど、ふと不安に身体が硬くなる。そう、俺の筋肉痛大丈夫かな? っていう捨て猫にも哀れまれそうな程情けない不安。
うつ伏せの状態で小さく唸ると、腰に腰掛けているチカが鼻を鳴らして笑う。今馬鹿にしてた?
「お兄ちゃん大丈夫だよ。筋肉痛引くまでゆっくり休んでいて。旅に必要な物とかお金とかは、その間に私が何とかするから」
「いやでもさ? 俺がチカを幸せにすると宣言した手前ね、何もしないというのはちょっと気がひけると言いますか……」
「何か出来るの?」
「……出来ないかも」
こんな全身筋肉痛のひょろひょろが何か出来るものか。ニートなのに。それを分かってるんだろうな。チカはまた息を吐いた。
それと少しばかり気になることが。
気になってばかりじゃちょっと頼りな過ぎるだろうけど、気にするなって方が苦しい話だ。
チカさん、ちょっと態度厳しくなってません?
あれかな? 過去も知られたし、色々と納得もしちゃったからもう隠す必要無いってことかな? 猫被る必要無いなとか。
だったら、正解だよな。俺もその方が距離が縮まった感じするし。……ただ、かなり甘やかされた分衝撃が手榴弾並みにデカいけど。
「はい、おしまい。お兄ちゃんじゃあちょっと暫く横になっててよ。買い物して来ちゃうから」
腰からするりと降りたチカは指をパキパキと鳴らしながら背伸びした。俺はいそいそと買い物用のバッグを準備するチカの後ろ姿に、「うん」と返しておく。
うつ伏せって、ちょっと苦しいななんてゴロゴロしていると、その小恥ずかしい光景を見たチカが口元に手を置いて笑った。
その笑みは、今までの明るい……満面の笑みとは違った。まるで心を包み込んでくれる様な、本当の笑顔だった。
その考えに俺は確信が持てた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、チカ」
ひらひらと手を振って出口に向かうチカを静かに追って見送る。
もしかしたら、ちょっと前の俺だったら自分が置いてかれた気分になっていたかも知れない。けど、今はしっかりと待てる。理解してるんだ。
──チカは俺の傍に帰って来てくれる、って。
「ふ……」
何でかよく分かんないけど、自分一人だけの空間で笑みが零れた。本当に、風が身体を通り過ぎる様に自然な笑みだった。
もしかしたら安心したのかもな。俺は産まれて数ヶ月の赤ん坊か。
待ってる間暇過ぎるな、とふと充電させていただいた携帯電話をポケットから取り出す。それでこれからチカと向かう予定である、西洋について調べ始めた。
特に理由は無い。何となくの行動だったんたけど……自分的に興味の湧いた国を見つけた。
「フランス……とかいいんじゃないか? ヨーロッパだし。有名な建物とか見て回れるし。チカも、喜んでくれる気がする。根拠は一つも無いけど」
そこで、暫く二人で過ごすんだ。誰にも、知り合いの邪魔なんて入るわけがないし。多分。
……正直、一番知ってるのがそこだからなんだが。
チカの誕生日、いつだっけ。いやそんなこと聞いたこともないな。今まで、『チカ』という名前しか知らなかったし。
チカは今十五だ。日本の法律だと確か、女性は十六歳で結婚が出来る筈。
チカが嫌じゃなければ、俺はチカと結婚したいと思う。ずっと一緒に居て欲しい。
もしかしたら『傍に居て欲しい』って気持ちの延長線上の想いなのかも知れない。でもそれが俺の恋なんだってことは、自分自身よく分かってる。
だから、後悔しない様にこの気持ちをしっかり伝えるんだ。
──気がついたら夜だった。ベッドの傍に幾つものビニール袋やバッグが並べられているけど、これ全部荷物かな。腕捥げないかな。
「……っと、流石のチカでも疲れたか。ごめんな手伝ってやれなくて」
本当ごめんなさい。……と、隣で寝息を立てるチカのサラサラな髪を撫でる。
寝てて気がつかなかったけど、これだけの買い物をするのに何処まで足を運び、どれだけ時間を消費したことだろう。きっと俺じゃ直ぐ倒れる。
だけど微妙に気になるのは、何処にそんなお金が有ったのかってとこ。それと案外色々揃ってんじゃんこの国。捨てたもんじゃないよ。
ふとここで、俺のドヘタレ精神発動。一応面と向かってみる。
「チカ……あの、えと、そのぉ……」
まるで「お漏らししちゃいました」と母親に告白する時みたいな緊張を踏まえ、すやすやと眠る隣の義妹に頭を下げた。何か変だなって直ぐに顔上げたけど。
「結婚、しましょう」
何故か敬語になった。自分の義妹に敬語を使った。とんだドヘタレ野郎である。
プロポーズした相手は今現在足を揃えて夢の中でございます。夢見てるか知らんけど。そんな相手に、敬語になって、プロポーズした。寝てる人間にプロポーズした。史上最強のドヘタレ野郎誕生である。
俺ってこんな臆病者だったんだな。泣きたくなるよ。
いや泣きたくなるくらいならしっかりしろよ。
「ふふ」
自分の情けなさに項垂れて、あろう事か求婚相手に尻を向けて座ってる。その背後で、堪えかねたと言わんばかりの弱い失笑が現れた。
慌てて振り返ると、「あっ」と短く声を出したチカが狸寝入りを始める。口元が緩みきって睫毛が小刻みに震える、余りにも酷い狸寝入りだ。バレっバレだからなおい。
「起きてたのかよ!?」
「だって、髪の毛触られたらビックリするじゃん?」
顔面が茹でられた様に熱くなるのを気にしつつ、悲鳴の如く声を上げるとチカは更に吹き出した。そりゃ、撫でましたけど……。
「それならそん時起きてくれよ……」
俺一人だけ恥ずかしいじゃんなんて小さく声に出したら、「寝てる相手にプロポーズはもっと恥ずかしいと思うよ」って笑われた。だったら起きてくれよ。そしたらちゃんと言ってたか不安だけど。
冬眠する熊の如く穴掘って隠れたいくらいに恥ずかしいけど、まずこれに対しての答えが知りたい。
「……聞いてたなら、返事、ください」
「え〜? 何のこと? 何の返事かな? もう一回言ってくれなきゃ私分からないなぁ」
「明らかに楽しんでらっしゃる! 何となくこうなる気はしてたんだけどさ!? ゲームでもよく見るよ、そういうからかうの大好きな女の子!」
正直俺は苦手なタイプ。全力で照れた後にもう一度言うとか拷問かよ。今直ぐ逃げたいです。
だけど、チカは真剣な眼差しを向けて俺を逃しはしてくれなかった。
「私は、ちゃんと起きてる時に、ちゃんとお兄ちゃんの口から、ちゃんと聞きたいの!」
「う……」
ちゃんとカケル三攻撃。まるで心に抉り込む様に、「ちゃんと」の部分をよりハッキリ強調して真っ直ぐに見つめられる。これは、逃げられないな。
ていうか、そもそもプロポーズしちゃった俺の負け。勝負は不戦敗。自分は負け組としてフィールドからおさらばしますよ──。
「逃げないでよ!」
「ちょ、襟掴むな死ぬ死ぬ! 窒息死するから!」
「そんな強く掴んでないよ! ほら、私の眼を見て!? これ以上ヘタレなんて言われていいの!?」
誰に? もしかしてチカに? チカなら構わないよ。チカは地獄の王様が恐れおののくレベルに勇敢だし。丹谷さんみたいな、娘が出て行くことに怯える人には断固否定するけど。
……でも、ちゃんと伝えなきゃって決めたもんな。いつ決めたっけ? 忘れたけど、大事な気持ち程口に出さなきゃ伝わらないもんだ。
だから決心して、ヘタレな自分を穴に埋めてチカに向き直った。因みに正座。
ベッドの上に二人して正座って、奇妙な絵面だね。普通ベッドに正座するのかな。
「えーと……」
「うん!」
……あまり期待されても凄い困るんですけど。つーか、凄く言い難いんですけど。もっと自然にしててくれないかな。
正座してから、何分経ったかな。多分まだ一分も経ってないっぽいけど、緊張すると時間が早く感じるって嘘じゃなかったんだな。でも行動に移さなきゃ何も始んなくて、チカをがっかりさせたくもないから。
「結婚、してください!」
「ちょっと、違うんじゃないかな?」
勢い任せに頭を下げて瞬間粉砕された。折角勇気を出したお兄ちゃんになんて仕打ちだ。
少し傷ついた胸を撫でつつチカを上目に見ると、そこには薄桃色の優しいオーラを剥き出して花を咲かせそうな微笑みを浮かべている女神が居た。正確には、そんなイメージが自然と湧いて来る様子をしたチカだ。
困惑してか緊張してか、既に朧げな景色へと変わった先程の台詞を何とか思い出して、その思いを吐き出した。
「結婚しよう、チカ」
「はい……!」
今度はペケじゃない様で酷く安心した。安心し過ぎて腰砕けて立てない。その上足が痺れた。早えよ、足痺れんの。どんだけ血行良くないんだよ。
俺のプロポーズは花丸だったのか単に正解だったのかはよく分からないけど、その後からチカはかなり上機嫌だった。鼻唄が絶え絶え部屋に流れる。
照れに因る身体の火照りが治らないまま、それから俺達はフランスに向かってからを話し合った。
フランスまでは流石に遠いから交通手段は必須。という俺の主張に、チカはただ『うんうん』。
フランスではまず最初に宿、泊まれる場所を探すからな。という珍しく俺が決定してみせると、チカはまた『うんうん』。
チカが十六歳になり次第、結婚時期の予定を決めるからな。と照れ臭く説明しても『うんうん』とキラ星の如く笑顔。
ちゃんとコミュニケーションが取れているのか心配になって来たぞ。チカだけ先に未知の国へお出かけしてしまったのかも知れない。置いてかないでくれ。その『うんうん』の国には行かないが。
コミュニケーションと聞いて(自分が言ったんだけど)一つ、ずっと気になっていた疑問が心の片隅から浮き輪と浮上して来た。
いや浮き輪沈んでたのかよ。空気入ってんのかそれ。
微塵も笑い声が聞こえて来ない一人漫才は、チカが指でツンツンして来たことで終了した。
「どうしたの? お兄ちゃん。ちょっと悩んでる様な表情してたけど。もしかして、私のことでかな」
「うん、悩んでたのはチカが一人先に異国へ旅立ったからだな」
「私ここに居るよ!?」
「違った。いや違ってないけど、今知りたいことがあるだった。あのさチカ──」
チカにごめんと手を振って、今しがた……いやもう、出逢ってそんな経ってない頃だな。髪の先から爪先まで疑問に思ってたことを問いかけてみる。
「何で、俺のこと好きなんだ?」
チカは、水晶みたいに水中を錯覚させる綺麗な瞳を丸くしてミーアキャットの日光浴みたいに硬直した。暖かくはないけど。室内だし。
少し考えれば直ぐに、分かることかも知れなかった。公園で聞いた吹奏楽のこと。その憧れの延長線上の恋かも知れない。そうとも思ったよ。
だけど、何となく違うなって気もした。やっぱり俺はそんな立派な人間じゃなかったし、憧れられてるのも未だに信じ難いことだから。
それ故か、それともさっきのチカの言葉の影響か、チカの口からちゃんと教えて貰いたかったんだ。
チカは一度口を小さく開けると、また閉じて、苦い物でも口にした様に唇を歪めて、今度はちゃんと口を開いた。
「恋に理由なんている?」
チカはその一言だけ言って、申し訳なさそうに苦笑した。正直納得いく返事ではなかったけれど、チカのことをちゃんと信じようと気にしないことにした。
何がどうであれ、チカは俺を好きでいてくれてるんだって、幸福をしっかり受け入れるだけでいいんだ。
この前みたいに、後悔する結果にはしたくない。だからこれ以上は追求しない。それでいい。
「いいや、要らないよな。別に」
だから首を横に振って、安心した様にほっと息を吐くチカの頭に掌を重ねる。それから笑顔になるまで撫で続けた。
「さてお兄ちゃん、いつラブホでの権利を実行しますか!?」
急に抱きついて来た。ラブホでの権利って何かななんて聞かないことにして、ここは大人の男としてしっかり対応しなくちゃな。
「あのなチカ。そういうことは学生の内は──」
俺の言葉を遮るタイミングで扉がノックされた。
「千七百五号、旅の者、少しいいかね」
扉の向こうから聞こえて来たのは、上陸後間もなくして聞いた覚えのある老婆の声だった。意図している訳ではないだろうが、悪役の様な渋いダミ声になっている。
そうだ、忘れていた。問題は丹谷さんだけじゃなかったんだった。




