15・私の人生
──生まれたばかりの記憶は、流石に私でも残ってない。覚えてて、二歳の時のことかな。
私が思い出せる最も古い記憶では、最初に感じたのは激痛だった筈。それから、酷い虚無感。
人が話す言葉の意味を既に理解出来ていた。産まれて大して時間も経っていないのに、自分で立つことだって簡単だった。調子に乗って走ったら階段から落ちたけど。
それから二年、何となく子供らしく生きようと努力して、お父さん達のことも困らせない様にした。毎日外で遊ぶ振りをしてはちょっとだけ筋トレして、更に知識を広げる為にお母さんの目を盗んでパソコンで調べたりした。
一番ハマったのは、エッチな動画だけど。
いつの日か、バレちゃった時に『好きな人を満足させてあげられる様に練習しなさい』ってお母さんも言ってたから頑張った。
いやでも、未だにあの動画思い出せるなぁ。
三歳の頃、私はいつも通り自室にいた。肺活量鍛える為に二リットルサイズのペットボトルを吸って潰してた。中身分けとけば飲めるから便利。
毎日運動してるからスタミナも無尽蔵になるほどに。それで、漸く自分が天才なんだって理解した。
だけど、数日後私は絶望した。
午前中、何となくシュワルツの方程式ってやつを勉強してたら、金属がカットされる様な嫌な音が微かに聞こえた。
何処からの音なのかは、直ぐに理解した。
私の部屋からはかなり離れた多少密室になる部屋で(音が篭るから)、上からだから二階より上の何処か。お父さんの部屋かお母さんの部屋。
そうしたら、会社に出ているお父さんじゃなくてお母さんの部屋からなのが容易に予想出来る。
お母さんは普段、ベッドで内職をしてる。何か手術に失敗したみたいで、上手に動けないんだって。
だから大きな音を立てることは無い。それが不安で、怖くて、慎重にお母さんの部屋の扉を開けた。
内職の紙を床にばら撒いたままのお母さんは、胸から血を流して壁に寄りかかっていた。
私が呼びかけても返事はなくて、その身体は呼吸一つ起こさずに停止してる。
電話のかけかたも、お父さんの電話番号を知ってた私は直ぐに知らせた。電波悪くて難しかったけど。
帰って来たお父さんはその場で項垂れて、暫く無言のまま部屋に閉じ籠ってしまった。
急に、もっと幼い頃の虚無感が戻って来たイメージが湧いた。
お父さんはそれから会社に行かなくなって、お母さんは誰にも知らされずに庭に埋められた。
大好きなお母さんは死んだ。大好きなお父さんは壊れた。私の心は、薄れた。
こっそり家を出て図書館に向かった私は、ある男性と出逢った。実は図書館、本は十冊くらいしか無いんだけどね。
「君、一人で何してるんだい? 両親は? 流石に君くらいの年齢で一人歩きは危険だと思うな」
まだ若そうな男の人だった。
両手にビニール袋。中身は全部古文書。そんな彼が気になって訊いてみたら、図書館の管理人だと教えてくれた。
まだ二十代半ばらしくて、流石に凄いなぁなんて感動。
だけど、やけに大人びた私に、彼も感動したらしい。
暫く通い続けて、私は四歳になった。
「そう言えば、出逢った頃からもう九ヶ月も経った。君の名前も、両親のことも未だ知らないなぁ」
彼は不満気というか、それよりは不安気に私に訊ねた。
実を言うと、私も自分の名前を知らない。お母さん達はいつも、『ねぇ』とか『マイベイビー』とかで呼んできてたから。
だから、「名前なんてない」って答えた。
頭を悩ませる様にした彼は、突然私の首元に注目した。ちょっとビックリしたけど、彼はそれ以上に驚いてるみたいだった。
「君は実験を受けた子供なんだね。それで、恐らく唯一の成功例……」
「成功例? 実験って、何のこと?」
「少し前……そうだな、今から三年前のこと──」
そこで私は、この町の人間が人体実験を受けたことを知った。お母さんとお父さんがこの町の人間じゃないことも。
──同時に、お母さんの死因がその実験のせいだってことも悟った。
お母さんは実験に失敗した。脳の一部が麻痺し、両脚だけが不自由になってしまっていたんだ。
それで、突然死んだ。何処かしらが壊れてしまったのか? 違う、自分で自分を殺したんだ。何か、嫌なことでもあったのか……。
「可哀想に。まだその歳なのに、親の顔も分からないんだね」
彼にはまだ、両親の事情を話していない。
だから私は──
「私の、お父さんになってくれますか」
丹谷さんの娘になったんだ。全て、忘れる為に。
──違う。そうじゃない。こんな国から出て行くためにだ。
丹谷さんの図書館に住めば、一ヶ月に一度、色んな国の情報が載った本が増えて行く。それは仕事をする為らしいけど、私の目的は違った。
何処か、知らない国で生きていく為。お父さんとお母さんが住んでいた国に向かう為だ。
そこで、誰にも正体がバレない様に生きていたいから。
その時まで育ててくれた丹谷さんには本当に感謝してる。だけど時々身勝手で、私のことを利用しようとするから今は嫌い。
まぁ、私も利用したんだけど。
十二歳くらいの時かな。私はある計画を立ててた。
それは、海を渡る計画だった。
森や林、町中から木材や石材を集めて船を作るつもりで。知識が充分じゃない為、かなり難度が高い試みだった。
十三歳頃、丹谷さんに船の設計が見つかった。勿論材料も全て没収されて、船は諦めることになった。
それから考えたのは、どうやったら監視が強まったこの状況下で自然にこの国を出られるか、だった。
勿論、大人になって仕事をする他安全なものはなかったけど、私だからこそ可能な手も思い浮かんだ。
それから、丹谷さんにちゃんと告げてから海に遊びに行く時間を増やし、気づかれない様に遠泳の練習を開始。
私の最終手段は、別の国まで泳ぐことだった。
スタミナは無尽蔵。筋力は常人を遥かに上回る。熱意だってある。それでこそ可能な横断の旅だ。
風邪を引く可能性も充分にある。だけど、そんなこと構わない。この国から出て行けるのなら、何日かかって毎日が生魚のご飯だとしても耐え抜いてやる。
でも味あった方が美味しいよね。
ま、ご飯は別の国に着いたら目一杯食べるとして、今はいつ決行するか、だ。
まず、予め必要最低限の持ち物だけをビニール袋と真空パックに詰め込んで所持。常に持ち歩く。
そしてその他の私物は丹谷さんの居ぬ間に廃棄。これで私がどこに消えたのか知られることはない筈。
「お義父さん、私今日友達と遊ぶから遅くなるね」
「ああ、行ってらっしゃい。日没までには帰るんだよ」
「うん、分かった」
十四歳の秋。ついに決行の時が来た。
計画してたったの二年。学校(みたいなボロ小屋)に行く振りをして全速力で海へかけた。その時、忍者みたいに足音をあまりたてない走り方をマスターしてた為、気づかれることはない。
人目もちゃんと盗んだし。
海岸に着くとまず人がいないことを確認した。それから充分にストレッチ、準備運動して着水。
幾ら真空パックで閉じた上ビニール袋に縛って入れてあるからといって、完璧に中身が濡れない訳じゃない。だから頭に乗せた。
時々落とさない様に慎重にね。
私は海を少し、甘く見ていたみたいだ。
波は私の筋力をもってしても押し返して来て、海岸沿いから抜け出すのに時間がかかった。
それに、お風呂とかとは水温も気温も圧も全て別物。魚も一杯泳いでるし、塩っぱいし、夜は冷えるし。
夏バテするよりは涼しい方がいいかなと思って秋なの。
一番恐怖だったのはやっぱり深夜。元から私のいたあの国に街灯は少なくて、少し離れると真っ暗。懐中電灯も持ってきてなかったし、闇の中を彷徨ってる気分だった。
夜は昼と違うお魚も沢山でした。
そうこう繰り返して、時々休憩したりお魚と遊んだりして、多分十日が経過した。
流石に初めて疲労感を味わって、海の中じゃ自由がきかなくて怖かった。
それでも既に見えている漁港に向かって泳いで行く。
漸く辿り着いた陸に足を乗せたら違和感しかなくて、痺れて、その場に倒れ込んだ。
疲れより、安心で眠っちゃったんだ。
丸一日寝ちゃって、服は乾いてた。凄いね乾く速度。暑かったのかな?
それで、誰も居ない漁港を探索して落ちてる靴履いて、その先の林を抜けて行く。長い長い、静かな木々の中はとても落ち着いた。
林を抜けたら大きな橋が架けられた川沿いに出た。
初めて来た町。不思議と、不安は無かった。それどころかワクワクしてて、一回休憩の為に橋の下で眠った。
ホームレスの叔父さん、段ボールを剣の形に切ってプレゼントしてくれたよ。何か嬉しかった。
その叔父さんと会話して、気がついたことがある。
私の国と言語が一緒だったこと。
つまり、この国がお父さんとお母さんの故郷だった可能性が高い。何で国かな。確か、『日本』だった筈。
お母さんのメモ帳勝手に見たら『千寿ヶ峰』って書かれてた。町役所でも探して、地図貰えないかな。
右も左も分からないこの町でウロチョロしてたら、通行人が千寿ヶ峰への行き方を教えてくれた。優しい女子高生だったよ。
この町の人達は親切なんだね。千寿ヶ峰もそうだといいんだけど。
暫く歩いて夜、私は千寿ヶ峰に辿り着いた。だけどそこで立ち尽くし、これからどうしようか頭を悩ませる。
そうして歩道に座り込んでたら、一台の小さな車が眼の前で止まった。ちょっと警戒したけど、その警戒は直ぐに解けた。
「ほい君どしたの? 見た感じ、ホームレスなのかな。うち丁度バカが一人消えたから部屋空いてるんだけど、来ない? 嫌なら大丈夫よ」
「母さん、変な人と思われるぞ。すまないね、えーと、君。家出なら、暫くうちに来るといい。遠慮なく母さんをこき使ってやってくれ」
「お、ロッキーぶん殴るわよ?」
明らかに賑やかな夫婦だった。
本当は知らない人について行くのは嫌だったけど、この町に知り合いなんていない。その上この人達は事情を細かくは聞いて来なかった。だから甘えることにした。
「見てみこれ、これがうちのバカ。二年近く前までうちにいたんだけど、十八になった途端一人暮らし始めてねぇ。絶望してニートやってるよ」
「そ、そうなんですね」
明らかなダメ人間の写真を見せつけられて、『こんな大人になっちゃダメよ?』と忠告を受けた。勿論なる気なんて無い。
「あの、私お二人のこと何て呼んだら……」
「んん、そうねぇ。ねね、ロッキー何がいい?」
「ああ〜、じゃあ僕のことは母さん同様ロッキーで、母さんのことは僕同様母さんでどうだい?」
「何じゃそりゃ」
「……ロッキーさんと、お母さん」
「うん! 逆に私達は何て呼べばいいのかな?」
「えと、私名前がないんです。ですから……」
「待って、君首に数字が書かれているんだね。千七百五……じゃあ、『千』からとって『チカ』はどうだい? 苗字も無いなら、僕らのを使うといいよ」
「チカ……」
嬉しかった。心の底から泣き崩れた。
二人を困らせてしまったけど、私に初めて名前が出来た。『意味分からん』ってお母さんは笑ってロッキーさんは恥ずかしそうにしてたけど、私は満足だった。
それに、また両親が出来たみたいで、暖かい気持ちになった。
首の数字を何とか消してもらって、私は『千七百五号』じゃなくなった。
その日、私は私のお義兄ちゃんである、『ダメ人間』と説明された男性の私物がしまわれた部屋に入ってみた。
そこで私は思ってもみなかった感動に言葉を失った。
「凄い……こんな楽器一杯。それに、トロフィーとか賞状とか……」
吹奏楽部の栄光。楽しそうにお義兄ちゃんが笑う写真が立てかけてある。その側には幾つもの賞状やトロフィー。コンテスト毎に分けられたトランペットの量は、五つもあった。
一つのトランペットには、お義兄ちゃんが音楽の道を閉ざした理由まで連ねられていた。
『今までお世話になりました。小学生の間だけの大会で、金賞を頂けたことは本当に心に残っています。未来永劫、忘れることはないと思います。多分。だけど俺は、トランペットの道を諦めます。皆に頼ってばかりじゃなくて、自分一人で生きていく努力をしてみたいと思ったんです。だから、これが俺の夢の最後となります。』──その手紙の横には、一枚のディスクが埃を被ってた。
お兄ちゃんが演奏した、最後のトランペットの音。
それを隠れて聴いた私は、何故か涙を流してた。本当に素敵で、自分一人でも人の心を動かせる音を出せるのに、何でやめてしまったんだろう。
それから私はお義兄ちゃんに興味が湧いて、お母さんやお父さんに訊いたりアルバムを見たり、色々と調べてみたりした。
いつの間にか、知らない筈のお義兄ちゃんに恋をしていたんだ。
会ったことも無い。全く知らなかった筈のお義兄ちゃんを知っていて、もっと知りたくなった。
そして今辛い思いに負けているお義兄ちゃんを助けてあげたいって、そこから努力したんだ。
そして十五歳の春、お兄ちゃんの元へ勇気を出して飛び出してみた。意外と身長高くてビックリした。
まぁ飛び出したって言っても、道が分からない振りして話しかけたんだけど。
それで、ちょっと経って四月。運命の再会って感じにしたくてお兄ちゃんの家に進入。
だけど忘れ去られてて失敗。上手くいかないね。
今はまだ『チカ』としてお兄ちゃんと義兄妹の関係だけど、いつかは……きっといつかは────。
私の人生を貴方のものにしたいです。




