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第2話 ②


 エリオが岩の上で眠りから覚めたとき、もはや、木立の隙間を縫って彼を照らしていた陽の光はかなり離れたところへ差していた。


 そのせいで、少し肌寒さを感じたエリオ。

 だが次の瞬間、寒さとは全く違う理由で、全身に悪寒が走った。



 岩の上で飛び上がるようにして起き上がった彼が、陸艇一行が安らいでいるはずの方に向かって目をこらし耳を済ませてみたが、人の気配はなかった。

「みんなー!僕はここにいまーす!!」

「まだ、出発しないでくださーい!!!」


 喉の奥がヒリヒリ痛むほどに、できるだけの大声を振り絞ってみたが、嫌な予感だけは当たるものだ。返ってくるのは、自分の声のこだまだけだった。森は気持ち悪いほどに静まり返っていた。



 頭の中が真っ白になりながら、エリオは陸艇一行が停車していた原っぱにまで戻ってみたが、そこに人影はなかった。

 いつの誰のものかもわからない、薄汚れたサンダルの転がっているのが、人のいたらしい形跡のすべてである。



(これからどうしよう……)

 今晩、この森から抜け出せる見込みはない。

 どんなにあたりを見渡しても、まわりに人の気配も、一夜の宿りに使えそうな小屋の一つも見当たらなかった。



 

 すると、どこからか、低くくぐもった音が響いてくるのを感じた。

 かすかな突風の音でもあるようだったが、それは不気味に感じられた。

 見ると、枯れた蔦の深く絡まった茂みの向こうに小さな影の動くのを感じた。


 茂みの向こうを凝視すると、それほど大きくはない4つ足の姿が、ゆっくりとこちらを伺うようにしているのが見えた。


 やがて茂みの向こうから姿を現したのは、ただの犬だった。

 痩せこけた犬だった。抜け毛の跡をいくつも体中に見せて、薄い皮膚の下には肋骨の形をくっきり浮き上がらせた貧相な犬である。

 まるで老犬みたいな様子をしているが、目だけは異様に鋭い。

 そして、その足取りも老犬とは違っていた。

 町で出くわしてもあんまりいい気持ちのしないような奴。

 そいつがうなり声をあげながら、こちらに向かってゆっくりと近づいてきた。


「こっちに来るな!」


 エリオは足元に落ちていた細い枝を拾い上げると、まだ遠く間を置いたままこちらを睨む犬を追い払おうと必死にそれを振り回してみた。

 犬のほうは、そんな遠くで振り回される枝ごとき、まるっきり無視してじっとこちらを伺っているだけだった。

 しかし、気づくと、ゆっくりとそいつはこちらと距離を詰めようとしてきていた。


「こいつ!痩せ犬の癖に、人間を襲おうっていのか!あっち行けよ!」



 あんまり強そうなナリはしていないが、とにかく気持ちの悪い奴だ。こんな奴とはあんまり近づきにはなりたくないと思ったエリオは、犬に注意をしつつ、右手の棒切れを振り回しながら、先ほど上ってきた崖を下って、小川のほとりまで降りてきた。


 深く垂れた目に強い警戒の色を浮かべながら、痩せ犬もエリオの跡をずっとついてきた。



(あいつ、僕を狙ってるのか?とにかく、なんとか逃げなきゃ!)


 もう今夜の過ごし方を考えている余裕もなかった。どう見ても安心などできなさそうな相手に付きまとわれているこの状況から逃げることが先決だ。


「こっちにはナイフだってあるんだ!近づいたら殺すからな!」


 懐には一応、護身用として少し大きめのナイフを忍ばせてはいた。

 旅に出る以上は持っていなきゃと思って村を出たが、まさか、本当に使うような羽目になるとは考えても居なかった。



 先ほどの小川まで下りたエリオは、川原に落ちていた石を拾って犬に向かって投げてみた。うまく当たらなかったが、奴は少しだけ後ずさった。

 その隙に、小川のあちこちに転がっている岩の上を片足踏みで、ぴょんぴょんと飛び越えて、川の向こうに降り立った。


 振り返ると、犬のほうは、川岸ですこし立ち止まった。



(よし、今のうちに距離をとっておこう)


 エリオは川の流れに沿って、少し足を速めた。


 が、もともと大きくもない川だ。犬のほうも、適当な浅瀬をぬってすぐにエリオの背後へと出てきた。


(あいつ、意外とすばしっこいな……)

 またもや、犬との追いかけっこだった。

 いつまでこんなことをしていなければいけないんだろうとエリオが思いながら、時に後ろを向いては棒切れを振り、落ち葉と苔に覆われたかび臭い森のなかを、足早に進んでいたときである。


 それまで背後の痩せ犬にだけ注意していたが、やがてそれとは違う何者かの足音に気づいた。それも一つや二つではない……。



 後ろの犬が辛抱強く、襲い掛かることもせずにこうしてじっとただ後をついてきたのは、実はこのためだったのか?つまり仲間の到着を待っていたという……?

 エリオがそんなことに気づいたときには、もう、同じように貧相な姿をした痩せ犬の集団に囲まれてしまっていた。



 野犬のうなり声は、すっかり周囲を満たしている。

 近くに聞こえた足音に目をやると、そう遠くないところに、ポツポツと犬の影が確認できた。

 数なんか数えている余裕はなかったが、5,6頭という数ではなさそうなのは確かだ。


 このままではここで奴らに食われる!


 エリオは、もう恐怖で何も考えられなくなった。彼は持っていた枝を投げ捨てると、一目散に駆け出した。

”ウォン!ウォン!”

”グゥワン!!

”ボォフボッフッ!”

 野犬たちも、ついに大きな鳴き声をあげて、いっせいにエリオを追いかけた。襲撃者はついにその機会をつかんだのだ。



 しかし、人間と犬が森のなかで追いかけっこをしたらどうなるかは、誰にでもわかることだ。

 しかもエリオはこの森のことなど何も分かっていない。

 どんなに必死に両足を動かしても、背後に迫り来る凶暴な声はあっという間に彼の間近にせまってきていた。首筋にはすでに刃でも当てられたかのように冷たい戦慄を感じた。

 

 そのとき、エリオは急に踏みしめる足元の感触を失った。そのためにバランスを崩した彼は、横倒れになって急な斜面を転がり落ちた。

 ”とうとう犬にやられた!”

 エリオは思ったが、それはただ彼の目の前にあった急な崖に足をとられたあと、そこをごろごろと自分が転がり落ちる衝撃である。

 もはや、まともな思考は、今の彼にはなかった。



 野犬の群れは、今まさに襲いかかろうとしたその瞬間、エリオの転がりおちていった崖のふちで一瞬立ち止まった。

 しかし、これぐらいことで、あきらめるはずもない。

 平地を駆けるときよりは少しだけ慎重な足取りで、転げ落ちたエリオのあとを追ってその崖を下って行った。人間みたいに転げ落ちるようなヘマはしないのだった。




 舞い上がる枯葉とともに、湿った土にまみれて崖を転がり落ちたエリオ。

 彼はその衝撃のなかで、自分が今どんな状態にあるのかを、かすかにさとった。自分は崖を転げ落ちているという状況を。

 それから何度も天地がひっくり返るような衝撃を感じながらも、運よく気を失うこともなく、崖下まで転げ落ちた。


 滑落の勢いから開放されたとたん、すぐに土まみれの体を起こした。

 うかうかしていると、奴らに追いつかれる!

 大急ぎで、どこに逃げたらいいかとあたりを見渡した。


 小川の流れが小さな滝となって落ちているそのそばの崖では、もうその中腹あたりにまで野犬の群れは下りてきている。

 とっさに、左手を見ると、小さな岩穴が口を開けているのを発見した。


 それが一体なんなのかとか、その選択が正しいかどうかなど考える余裕はなかった。

 エリオはその岩穴めがけてとにかく逃げ込んだ。



 エリオは身をかがめるようにしてその岩穴の中に転がり込んだ。

 

 昼でも暗い森の奥深くの岩穴の中。にもかかわらず中は驚くほど目が利いた。壁一面に張り付いた、発光苔の薄明かりに照らされているせいである。

 足元の乾いた砂地は、ジメジメした森の中にあって、ここだけはなぜか乾燥しているらしい証拠。

 今のエリオにそんなことまで観察する余裕などないが。


 狭い岩穴の口をくぐると、そこはすこし開けていた。

 砂の匂いを強く感じつつ数歩踏み入いると、背後では野犬たちのがなり声も近づくのが聞こえた。おそらく岩穴のすぐ前にまで来ているに違いない。


 気になって入り口を軽く振り返った。

 なぜか、奴らは穴の外にたむろしてはいるが、飛び込んでくる様子がなかった。

 

 懐に隠しておいたナイフに手をかけたエリオが、穴の奥へと再び視線を向けなおしたそのとき、彼は再び心臓の凍りつくようなあの感覚に襲われて、立ちすくんだ。


 そこでエリオは巨大な骸骨の出迎えを受けたのだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ”命が惜しければ、夜の森には立ち入らぬこと”

 という掟のあるこの朧の森。

 じきに夜を迎えるこんな時間に、それも「朧の森の朧の朧」という気味の悪い名前のついた一帯を行く者たちがいた。



 つま先から頭のてっぺんまで、鉄の装備に身を固めた完全武装の一隊。

 常足なみあしで歩む馬の蹄の音だけが響く中、隊の前後には哨戒役と後備えの騎士が2名ずつ連なり、隊列は呼子と呼ばれる笛の音が届く範囲内で維持される。

 武装中は、常に戦地との覚悟。

 たとえ無人の野を行くときも、私語などは厳禁。

 歩みはゆっくりとしていたが、風のように粛とした一隊が朧の森の中央を進んでいた。総勢は20名。



 この一隊が朧の森のとある場所を通りかかったとき。


 聞こえてくるのは鳥たちのさえずりか、風にゆれる葉ずれの音しかないようなこの森の中で、少し奇妙な音を感じ取った。

 かすかに響くうなりのような喉鳴りの音だ。獣がこの音を立てるなら警戒が必要である。

 ただしそれは、少し遠かった。

 隊列の中央を行く一人の騎士が、その音を聞いて軽く手をあげた。後ろをゆく仲間に呼びかける合図である。

 

 一同は、「止まれ」の音の呼子の音とともに、その場に立ち止まった。

 手を上げた騎士のもとへ、騎士たちが近づいた。

 いでたちはみな、鉄の鎧に青いマント姿である。


「どうされました?」

「聞こえないか?オオカミかなにかのうなり声が?」

「ええ、確かに聞こえます」

「気になる」

「声は遠いようです。気にするほどではないかと……」


 そんなことを話し込む馬上二人のもとへ、別の者が近づいてきた。

「私が見てきます。この下のようですから」

 ひらりと鞍の上から飛び降りると、持っていた長槍を地へ置き、腰に差した剣の柄に手をかけながら、慎重な足取りで叢の中に消えていった。



 やがて、その男が帰ってくるとこんな報告をした。

「その下に小さな原っぱがあります。原っぱを囲む崖に小さな岩穴もありました。そこで痩せた野犬と思われるものが12頭、穴の前でうなっていました。あれに違いありません」


「痩せ犬か……人騒がせな……」

 すっぽりと鉄の板に覆われた兜の下から苦笑が漏れた。

 無理もない、痩せた野犬の群れに大騒ぎするなど、ロイヤルガードとしての沽券にもかかわる。


 しかし、隊の行軍を止めさせた騎士だけは、しばし思案に沈んでいる様子。

 この隊長が行こうと命じなければ勝手に動くことはできない。

 隊長どのは、なにをしきりに考え込んでいるのだ?と一同が不思議に思っていると、


「気になる。見に行こう」


 その一言に皆は驚いた。

 

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