第2話 惨劇の森 ①
翌朝早く、まだ空に星明かりがポツリポツリと見えるような時間に、巨大な岩犀の引っ張る陸艇の一行は宿場を後にした。
森への玄関口として古くからにぎわったこの町は、のんきな旅人なら数日滞在しても旅の楽しみに困ることはない。
しかし、今のエリオは陸艇の旅客の一人として、その定められた予定に従わなければならない身。
それと引き換えの、安全でそれなりに楽な旅路である。
この町の昼の姿をまったく見ることなく去らねばならないというのは少し惜しい気もした。
エリオの住むノラの村から、せいぜい半日旅程ほどで着くような隣町といっても、村の外へロクに出たことない彼には、興味津々の異世界でもあったのだから。
「『朧の森』の中を通るのは、実は初めてだよ!」
「あなたもそうですか。実は私もそうでして……」
陸艇の客車の中の面子は、昨日とくらべて少しだけ変わっていた。
そういえば、エリオのことを何かと気にかけてくれていた婦人はさっきの町で降りたようで、客車にその姿が見えなかった。
そのかわりに、4人ほど新たに乗ってきた客があった。
いずれもきちんとした身なりをしているが、白いシャツの上に袖なしのチョッキ姿なのは、長旅の途中というより、村の小役人の出勤風景みたいである。森を通ってすぐに降りてしまうなら、これぐらいの格好のほうがいいのかもしれない。ロイヤルガード隊の護衛付きの車内に1、2日揺られているだけだというなら。
これから通る『朧の森』は、ほんの少し前まではよほどのことがない限り、旅人風情がその奥に足を踏み入れるということのない秘境だった。
ウェスタニア東部を覆うように広がるこの森林地帯は、自然の障壁でもあり、皇国の防衛線の重要な一端を担っていた。
そのせいもあり、長い間、森は自然の姿のまま放置されていた。
しかし、国内外が治まり、今度は経済の発展を考えなければならないようになると、物流の停滞は皇国の大きな課題となった。
そこで、ついに森の中央を横切って、ウェスタニアの東部地帯と皇都エストスを直接結びつける森林横断道路の開発が始まった。
人死にの多く出る難工事ではあったが、ついに完成したのが、今からほんの10年ほど前のこと。
”朧の森を一日で通れることになったって?”
”そいつはすげえなあ。けど、道があったって、あんなところよく入ってゆけるもんだ”
”結局、護衛の一つでもないと、熊かなんかに食われるだけだろうけどな……”
そんなことをノラの村の人たちが話していたことをエリオもつい昨日のように覚えていた。
それまでは、森の向こうにまで行こうとなると、その周囲をぐるりと3日もかけて遠回りしなければならなかった。
仕方ない。職業猟師ですら、その「朧の朧」と言われる中央部に夜は足を踏み入れない、とされているようなところであったのだし。
どこまで行っても半丈づつずらして並べた平べったい四角い切石の列の続く街道の様子は、昨日と変わらなかったが、客車の中にいては感じないぐらい、道が緩やかな登り勾配を描くようになると、あたりの茂みが深くなっていった。
そのころになると、背後から上ってきた朝の日差しを受け、空は霞がかった色に晴れ渡りだした。この分なら今日一日は天気の心配はしないで済みそうだ。
『朧の森街道。通り抜けには一日旅程を要する。中央部は危険につき、夜間の進入、滞在は禁止する。なお森の中で起こるいかなる事態についてもお構い無用、以上』
森のもっとも周辺部である、潅木の多い叢林に差し掛かると、街道の脇にそんな看板を目にする。「夜には森に行くな。何があっても知らん」ということが書かれたこの看板の出迎えを受けたら、いよいよここからが「朧の森」ということなるようだ。
やがて木立の茂みが頭上高くをずっと多い尽くすようになり、あたりが薄暗くなってしまった。
おてんと様も朧にしか見えない。
しばらくは、森のなかで拾いあつめた薪をいっぱいに背負った人とすれ違ったりして、このあたりはまだごくありふれた山道と言ったところだった。
「綺麗なところだな」
「ああ、鳥の声もよく聞こえるし。ちょっと肌寒いけどなあ」
客車の旅人たちものんきにそんな言葉を交し合っている。
そのうち誰とも出くわすことはなくなった。
時折、樹海の遠くに、鹿かなにかの影が見えることがあるぐらいに。
皇国がその威信をかけて作った森の街道はおよそ曲がるということのないまま、まっすぐ森の端と端をつないでいた。
その行程が単調だったせいもあって、エリオは道中、何度もまどろんでは起き、まどろんでは起きを繰り返していた。
実は昨晩はあまりよく眠れなかった。
初めての一人での長旅の緊張のせいもあったのだろう。
彼がその晩泊まった安い木賃宿の寝床が、少しいやな匂いのしていたことも影響していたかもしれない。
森の道行きは、順調に続いた。
一行は、陽の光がまだ頭上に差し掛かる前に、森の中央部を示す大きな石碑のよこを通り抜けた。それからその日二度目となる休憩をとることになった。
森の街道沿いには、旅人が一息つけるような場所がいくつか存在していた。
とはいっても、ことさらに小屋かなにかが作られているわけではない。道の付近で、乾いた喉を潤すのにちょうどいいような小川や、小さな泉があったりするそんな所の木を少し切り倒したあと、腰でも下ろせるようにと岩を適当に転がしただけの小さな原っぱである。
陸艇の一行がそんな鬱蒼とした原っぱに足を止めると、眠い目をこすりながらエリオも他の客とともに、客車を降りた。
「少し長めの休息とする。くれぐれも3度目のラッパの音には遅れないように!」
護衛のロイヤルガードの隊員の声を背中に聞きながら、エリオは持ってきたパンをかじり、街道脇を少し下ったところを流れているという小川を目指した。
ずいぶんと寝てばかりいたはずだけど、腹も空けば喉も渇くものだった。
他の客たちは小川の流れに両手を浸して顔でも洗ってから、掬った水を飲み干すとすぐに客車のまわりに戻ってゆく。何しろ、このあたりはどんな獰猛な獣がウロウロしているかわからない森の中央部なのだから。
充分に分別もある大人たちは、いくらゆっくり時間があると言っても、護衛のロイヤルガードからあまり離れるのはまずい、ということぐらい、言われなくてもわかるもの。
ところが、年齢だけは成年の16歳になったと言っても、子供みたいなところのあるエリオは森のことを恐れる様子もなく、一人で小川の流れにそって歩き出した。
(なんか、あんまり怖そうなところでもなさそうだな。見てたら獣の姿もなんにも見えないし……)
好奇心の赴くままに無謀な探検をするつもりもなかったし、ラッパの一唱目が響くまえにはちゃんと客車に戻るつもりではいた。
小川のあちこちに転がっている岩の上を起用に飛び跳ねてゆくエリオ。足元の流れは岩場の隙間を縫うように続いている。時に膝ぐらいまでのちょっとした深みがあるとそこには、手のひらほどの大きさの魚の姿も見えた。
振り返ると、まだ、他の客たちが川べりにしゃがみこんでいる姿も確認できた。
あんまり進むのもまずいだろうけど、もうちょっとなら構わないだろう。
すると、目の前に大きな岩が転がっているのを見つけた。
エリオの背丈ほどの高さがあって、靴を逆さにして置いたような格好をした上部が平べったい岩だった。つま先みたいな先端が、小川の流れの上に突き出ている。
木立の茂みの途切れから差す陽に照らされて、薄暗い森の中にその岩だけ、黄土色した岩肌をキラキラと光らせていた。
(あ、あそこ、日当りがよさそう!)
長い間日当りの悪い森の中を、小さな窓しかない陸艇の客車の中ですごしたエリオは、その暖かそうな岩の上でしばらくの間、思う存分、陽の光を浴びてやれ!と、近寄っていった。
父親からは「チビチビ」と馬鹿にされていたが、体が小さいせいか身軽なところのある彼ならば、ちょっと飛び上がっただけで岩の上の縁りが自分の胸の高さに見下ろせる。そして縁にかけた両手の肘を伸ばして体を持ち上げ、片足を岩の上に掛けたら、「ホイッ!」と一呼吸で、らくらくと、岩の上に出ることができた。
そこは、自然石にしては平らな岩肌だった。エリオじゃなくても大人が充分に足を投げ出して寝転がれるほどの広さである。
だったらエリオも満足そうな笑みをたたえながら、大の字になって寝そべるのは当たり前のこと。
見上げると、朧の森の中ではないみたいにして、ぽっかりと青空が見えた。
「うわぁ!あったかくて、いいところ!」
岩の上で寝そべるエリオだった。
足元で響く小川のせせらぎはすぐに子守唄を奏でだした――。
ところで、前日の客車の中でエリオのことを気遣ってくれたあの婦人が今日の客車から消えたあと、エリオはほかの乗客とろくに話をすることがなかった。
なぜなら、車中ではずっと眠りっぱなしだったし、外に出たらこんな風にして、一人だけふらふらと遠くにまで足を伸ばしたりと、結構気ままに振舞っていたからである。
それはそれでいいのだが、そのせいだろうか?
不運なことに、彼の不在をこの陸艇の一行の誰も気がつかなかったらしいのである。
それにしても、客車の中に持ち主不明の薄汚れた頭陀袋が転がっていることにすら、一行の誰も注意を払わなかったらしいのには驚かざるを得ない。
それは、つまりどういうことかと言うと……
続きは後ほど、今晩中に。