第1話 ②
旅をするものにとって、もっとも安全確実な移動方法とはなんであろうか?
ユトラントと称する広大なこのあたり一帯が、長年の平和のおかげで一応治安は安定しているとは言っても、旅に危険はつき物。
ノラの村から、皇都エストスまで、通常の旅人の足で5、6日というところだが、その間を剣の心得もないような人間が一人旅をするのは、危険なことであった。
そういう時には”陸艇”を利用することをお勧めする。
名前から船の一種と思われるかもしれないが、実際は馬車である。
通常の馬車なら、3頭立てで引っ張るようなものでも10名も乗ったら一杯だろうが、こちらは、数十人も乗れるような箱に車輪がついたという馬鹿でかい代物だった。
大きさがもはや船に近いということでその名前がある。
そしてこれには、ウェスタニア皇国の最精鋭である「ロイヤルガード」の一小隊が前後を固めるという心強い護衛も付いていた。
小さな事故はあってもこの陸艇が襲撃にあったなどという物騒な話は、何十年も絶えてない。
これなら女子供の一人旅でも、道中の危険を心配することはなかった。
エリオと父親のオディールが連れ立って、村長宅の細長い屏風のような建物の前にやってくると、陸艇の無骨な木組みの客車がもうすでに道端に止まっていた。
煤けた丸木をくみ上げた四角い箱みたいな姿は、ヤギ小屋に車輪がついたみたいな見てくれだった。
とは言っても乗客定員が30名を超えるような大きな木の箱を曳くのは、そこらの牛馬では無理なこと。
こういう、とにかく力だけが頼りみたいな仕事に駆り出されるのは「岩犀」であった。
全身を岩みたいな瘤で覆われたところからその名がついたとも、歩く姿が巨岩が動いているように見えるからとも言われているその犀の大きさに、はじめてみるものは、みな圧倒される。
動物好きの幼な子でも、一目見ると大抵泣き出す。
全体は妙に平べったい形をした四足獣なのだが、その背中で手綱を操る御者と地上の者が話そうとすると、まるっきり建物の二階にいる人みたいにして見上げなければならない。
尻尾まで含めると陸艇の客車をゆうに超える体長を持つ。
大きな動物といったら、馬か牛しかみたことない人間にとってみたら、こいつが作り物じゃなくちゃんと動くというだけでたまげるものだ。田舎に行ったら子供よりも大人にとっての格好の見世物となった。
想像のとおり、力は飛びぬけてある。
陸艇の客車を馬で引くなら10頭あつめてもしんどいところを、この岩犀なら一頭で余裕だ。
性格は非常に温厚。
いや、温厚を通り越して、かなり間抜け。
命の危険があっても走らない、と言われている。それぐらいにノロマである。
咽元とちいさな左右の耳に巻きつけた手綱を、ちょっと引っ張るだけで自由自在にあやつれるのだった。
こんな巨躯の獣とともに旅をする陸艇の一行が、その予定どおりノラの村に今日もたどり着いた。
だいたい3日に一度、この村に立ち寄ることになっていて、その時間もおおよそ、昼を少し過ぎた頃となるのが常であった。天候に恵まれればこのあたりでは大きく旅程がずれることはなかった。
丸太でできた太い二本の轅で客車とつながったまま、岩犀はあてがわれた枯れ草の山に首を突っ込んで食事休憩の最中である。
客たちも車の外に出、ここの短い停車の時間にせいぜい体を伸ばして、休息をとっていた。
陸艇での旅は歩く必要もないし安全ではあったが、こんな箱の中に長い間閉じ込められるのは、それはそれでちょっとした労働に等しい。
街道の石畳から少しノラの村の村長宅まで入るとそこは砂埃の舞う砂利道。
旅人たちはすわり心地のよさそうな草葉の上や小さな木陰で仮眠をとっていたり、気の合うもの同士で軽い談笑しあったり。
護衛のロイヤルガードも鞍を降り、行程中は付けたままだった兜をぬいで、汗にぬれた髪を風に吹かれながら、皮袋の水に喉を鳴らしていた。
そんなところへやってきた、エリオとオディールの親子だった。
オディールは、岩犀の巨体の上で眠そうにあくびをする御者の足元へと近づいた。
「あの……すみません……」
岩犀の巨体が怖かったからでもないのだろうが、オディールが御者を見上げながら話すその声がやけに弱弱しかったので、エリオはびっくりした。
「ん?なんだい?」
日焼けと土ぼこりで真っ黒な顔をした御者が物憂そうに足元を見下ろした。
「こ、こいつも、あの……ご、ごいっしょに、の、乗せてもらいたいんですが、そのあちらに空きというのは、ございますでしょう、か?」
なんとか丁寧な口を聞こうとしているみたいだが、慣れないせいなのと、おそらく極度に人見知りでもあるせいで言葉が少し変だった。
言われた御者は、怪訝そうに眉をしかめたあと、そっけなくこう答えた。
「それは俺に言われてもわからないね!ロイヤルガードの隊長さんに聞いてくれ」
「ろ、ロイヤルガード?……」
オディールの言葉が、半トーン急に高くなった。彼はすっかり度肝を抜かれてしまっていた。
村からろくに出たこともない田舎者の、貧しい農夫だ。
皇国の正式な戦士階級とはずいぶんと身分も違う。それも、その最精鋭であるロイヤルガードの隊員など、オディールの感覚ではまともに口が聞けるものではない、というものだった。彼はひそかに眉をひそめた。
すると、そこに、
「あなたも陸艇での旅をご所望ですか?」
一人だけ兜を脱ぐことなく出迎えた村長と軽く挨拶を交わしつつ話し込んでいた騎士が一人、歩みよってきた。
皮の胴着の上に錫色した胸甲を付けた、がっちりとした体格のこの男なら、平服姿でも充分に戦士らしく見えたことだろう。
光沢あざやかな青いマントを一人だけしていることを見ても、彼がこのロイヤルガード護衛隊の隊長であろうことはすぐに見て取れた。
肩のところには一本の剣を彫りこんだ盾の紋章が見えた。
ロイヤルガードの紋章であり、1本剣は無剣の紋章よりは高位を示す。ただし最高位である5本剣にまでは、定年まで勤め上げても到達するのは容易ではないだろう。
「う、うちの倅になります、こ、今年16にもなるんですが、な、なにしろ頼りないやつでございまして……、ええ!。そうなんですっ!、こ、こんな奴を一人で外に出したら、もう、すぐに襲われてしまうのなんか、め、め、目に見えていることでございます。はい。そこで、そこで、ま、まことに恐れ多いことですが、」
「……いや、いや、そちらの事情はよくわかりました。つまりはあなたのところのこの息子さんを一人、陸艇に乗せて都まで送り届ければいいというわけですか?」
「えっ!!ええ、ええ、そのとおりです!」
「空きは充分あります。御代は国銀2枚になります」
「おおっ、そうでした。そうでした。これ、ここにちゃんとお金はあります!」
「では、確かに御代はいただきました。さあ、君にはこれを預けよう。旅の終わりまでこれをもっておくように、旅客の証だ。それと旅支度はもうできているか?――そうか、なら、このあたりでゆっくりしていればいい。あの岩犀の食事が終わり次第、出発することになる。3度目のラッパの音にはくれぐれも遅れないように。それではよい旅を」
そういい残すと騎士は呆然とするエリオ親子を残して、立ち去っていった。
父親のほうは、なんとかロイヤルガードとの交渉を切り抜けたとの思いですっかり気が抜けてしまっていた。
そして、エリオのほうは、父親が自分のために差し出した金額の大きさに驚いていた。
騎士の言った「国銀2枚」とは「皇国銀貨2枚」のことである。
銀貨5枚が金貨一枚に相当する。地域によって多少相場がかわるが、ウェスタニア国内なら、一応これが決まり相場だ。
こんな田舎では、金貨はおろか、銀貨ですらほとんど目にすることはなかった。
それが2枚。相当な金額である。
都会なら金貨一枚で、親子3人が一と月の間、庶民としての暮らしを充分にやってゆけるという価値があった。
おそらく、この田舎なら、銀貨2枚でも充分だろう。
皇都まで自分で歩けば、只なのだ。
宿だって、安いところはいくらでもある。なんだったら、寺院の軒先を借りてもいい。
自分の家が村の中でも貧しいことを承知しているエリオにとっては、父親がこれほどのお金を自分のために使ってくれたことが意外だった。
一体いつの間にそんな金を用意していたのだろう?
やがて、ロイヤルガード隊員の鳴らすラッパの音が鳴った。
このあたりで有名な民謡の一節は、エリオの耳にも馴染み深いものである。
まだ一唱目であるが、その音色とともに、三々五々散っていた客たちもゆっくりと客車へと戻ってきた。
「じゃあな、エリオ。あっちでは達者でやれ。親方の言うことはよく聞くんだぞ。こちらの心配はするな。一人前になるまでは帰ってくるな。いいな」
そっけなくそういい残すと、旅立つ息子の顔をろくに見ることもなく、父親は背を向けてさっさと立ち去っていった。
あっけにとられるエリオはただぼんやりと、父親の煤けた上着の背が足早に遠ざかるのを言葉もなく見送るだけだった。
「親父さん、もう行っちゃったのか?ずいぶんとあっさりとしたものだな。……けど、ああ見ててお前さんのことが心配なんだよ。男親というのは、ま、あんなもんかもしれんな。お前さん、たしか都で鍛冶屋やるんだってな?いい職人になるんだよ。」
やがて、2度目のラッパとともに、エリオにそう言って近づいてきたのは、この村の村長である。
小太りのずんぐりとした体の上に、おんなじぐらいずんぐりした丸い顔を乗せた人のいい爺さんだ。
村の長、といってもこんな村では政治的仕事より、村人の世話役みたいな仕事がもっぱらなものだから、ちょうどうってつけの人材でもあった。
「さあさ、エリオ。これをもってお行き。餞別がわりと言っちゃあなんだけど、うちで作ったお菓子よ。車の中ででも食べておくれ」
そのあとから、顔も体も旦那そっくりな村長の奥さんがやってきたと思ったら、小さな紙包みをエリオに手渡した。
エリオは村長夫妻へ何度もお辞儀をすると、段差の大きい客車のステップを駆け上がった。肩の上では、薄汚れた彼の旅行カバン、というより袋が、ぴょんぴょん跳ね、ついに3度目のラッパが、少し哀切な音色を響かせた。
「旅立ちの歌」というその民謡は別れの歌なのだから。
カチャリという拍車の小さな響きとともに、ロイヤルガードたちの騎行がゆっくりとはじまった。
それに続き、石臼のような音をたてながら、岩犀の引っ張る巨大な客車が動き出した。
客車の壁際に、丸太を数本並べてつくられた細長い座席に腰掛けたエリオが、村を振り返った。
小さな窓からのぞくと、村長夫婦は、エリオの姿が見えなくなるまでずっと手を振って見送ってくれた。
そんな二人と、その足元をうろうろとしていた5,6羽のアヒルたち。
それが、エリオの見送りのすべてだった。
やがて、砂埃と牛小屋の匂いも消えたころ、エリオは木組みの座席の上におとなしく座りなおした。
それは、寂しい旅立ちだった。
続きも今晩中に、のちほど上げます。