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第九章「二条院」

第九章「二条院」



「何者か?」


 二条院の警備の兵が牛車の音に気がついた。

 牛車の付人が兵士達に言い放つ。


「宮中よりの牛車である。宰相殿が御乗りであるぞ、門をあけろ!」

「そのような事は信じられぬわ!主より何も申し受けておらぬ」

「無礼な!」

「もうよい・・・」

 

 牛車の御簾の中から声と共に手が伸びた。


「其処の者、此方に参れ」


 兵士の一人が恐る恐る牛車に近寄る。突然、伸ばされた手が兵士の耳を掴んだ。


「何をする!」


 叫び声とは裏腹に兵士の顔は牛車の中に引き込まれていく。

 およそ人間離れしている力によって、御簾の中に顔だけが入った形になった。


「放せ!放さぬか!」

「その者・・・」


 赤面した兵士の顔に向かい、頭中将が話しかける。

 兵士は頭中将の顔を見るや否や全身に畏怖が走った。赤面した顔がみるみる蒼白になっていく。


「そなたに特別に宰相の顔を見せてやろう。よいか?源氏の嫡妻である、紫の上に取り次ぐのだ!宰相が進言に来たとな!」


 頭中将は目を赤く輝かせ、僅かに見える首からは黒い羽根とも毛ともつかないものが半臂まで伸びている。

 怯える兵士をニヤリと一瞥すると、頭中将は突然手を放した。兵士はそのまま地面に転がり込んだ。


「何をしている!」


 他の兵士が駆け寄ると転がった兵士は立ち上がり帯刀を抜いた。


「よせ!この方は宰相殿であるぞ!門を開けろ!紫の方に取り次ぐのだ!」



 二条院の女房が紫の部屋に走る。


「紫の上様、宰相殿が急なお越しでございます」

「・・・」

「さろめ様、紫の上様は?」

「紫の上は少々お疲れの様子ですわ」

「しかし、宰相殿はすでにお着きになっておられますゆえ」

「別室で私がお相手しましょう」

「そんな、二条院は源氏殿の屋敷でございます。屋敷内に勝手に他の殿方を入れる事はできませぬ」

「それは心配ありません。宰相殿は頭中将の頃から、源氏殿と兄弟のように過ごされて来ましたから」

「そう申されましても・・・」


 その時、騒ぎ声が後方から聞こえた。

 頭中将が周りの制止を振りほどきながら回廊を歩いてくる。


「さろめの君は居るのか?」

「困ります!そのような事をされますれば」

「女房、帝の命に背くのか?」

「・・・」

「帝の許しは得ているのだ、それともそなたは宰相に疑心を持つというのか?」


 頭中将の鋭い眼差しは女房に無限の恐怖を与えた。


「通るぞ!」


 部屋に入る頭中将の後姿をみて、女房は崩れるように倒れる。


「宰相様・・・」

「さろめの君、そこにおられましたか、して紫の上は?」

「ご気分がよろしくないとかで、本日のお目通りは叶わぬかと」

「ならぬ、帝よりの代理として紫の上に勅令を申さねばならないのでな」

「なんと言われました?」

「紫の上に、実親の兵部卿宮の元にお戻り頂きたく進言するのだ」

「急なお話ですわ、紫に何か?」

「源氏の君が須磨で少々混乱されておる。どうにも須磨での蟄居がお辛かったらしく、明石にお移りになられた」

「それは・・・」

「すでに明石の君という女御と住まれているとか、このままでは紫の上一人で二条院を守る事、少々後ろ盾が厳しいかと」

「それはどなたの命でございます」

「源氏の君の実兄、朱雀帝の配慮です。さろめの君、紫の上に進言をしなければならぬ」

「宰相殿、本当に帝のお言葉ですか?」

「そなたは私を疑うのか?」

「あなた様は手に入れたいものはどんな手を使っても入れるのですね」

「それは・・・」

「紫の上は本当に混乱されているのです。今そのようなお話を受け止められるお心を持たれてはいません。私が説得してみましょ

う」

「私の顔を見ると混乱するというのか?」

「あなたの目的は私でしょう?」

「・・・」

「源氏の君様が須磨に行かれてもご様子は都度見ておられるのですね」

「それは帝のご配慮もありますが弟帝である源氏の君の事です。何かありましたら国の大事に至るので、宰相としては常に気にかけるのは当然でありましょう」

「その為に密偵も必要だとおっしゃられるのですか?」

「そのような事は・・・」

「ふふ・・源氏の君の事、伝令より早くお知りになっていたようですね」

「あなたはまつりごとを知らぬのです、宮中では源氏の兄君であられる朱雀帝様がどれだけ源氏の君を気にかけているのか」

「それがあなた様はお気に召さないのですね?」

「な・・・」

「お待ちください」


さろめはそう言い残すと静かに別室に入っていった。

しばらくの後、さろめが戻り頭中将の前に座った。


「宰相殿、紫の上がお会いになるそうです、ただし」

「ただし?」

「わたくしも同伴して良いならと申されております」

「勅令を伝えるのにそなたが同伴では・・・」

「宰相殿!」


 さろめが急に立ち上がり頭中将の面前に自らの顔を寄せた。

 頭中将はさろめの目に慈愛を見た。満たされぬ日々を思い出し自分を見失いかけた。


「・・・わかりました。ではそなたも付き添って頂く」

「では宰相殿、こちらへ」


 薄暗い御簾の奥に影のように女人が見える。紫は酷く怯えた様子でそこに座っていた。


「紫の上、ご気分がすぐれないようで。どうされたのです?幼い頃のあなたは姫君らしくない振舞いで、周りを困らせていた程なのに」

「宰相殿・・・」


 紫が呟くと同時にそのまま床に倒れた。

 慌てて頭中将が近寄り抱き起こす。


「さろめの君、すぐに従者を呼びなさい!それから薬湯の準備と祈祷を」

「必要ありません」

「な、何を言うのです!」

「すでにあなたは兵部卿宮様をこの屋敷に向かわせておられるのでしょう?それまでは騒がずに床をひいて安静に見守っていた方がよろしいかと」

「なぜそれを」

「あなたの目的はわたしをこの屋敷から連れ出す事ですから。ならば主である紫の上に退いてもらうしかありませんわ」

「し、しかし、紫の上のご容態がここまでに悪いとは思っておらなかった。まさかこれは・・・」

「宰相殿、紫のお気持ちだと思って受け止められた方がよいと思われますわ」

「さろめの君・・・」


 一刻後、紫の上の父君である兵部卿宮が二条院に到着した。

 源氏が須磨に蟄居してからというもの、源氏の政治力を期待していた兵部卿宮の落胆は大きく、事あるごとに対左大臣派としてまつりごとで振舞っていた。

 兵部卿宮にとって実娘を左大臣派から戻すことに何の躊躇も無かったのだ。

 すでに二条院の屋敷には牛車と輿が到着していた。

 紫の上は兵部卿宮付添の女官により輿に運ばれていく。それはまるで事前にそうなる事を知っていたかのように周到なものであった。


 その様子をさろめはじっと見ていた。その時、背後から声がかかった。


「さろめの君、あなたは私と来るのです」

「よいのですか?」

「紫の上が父君の元に戻られた今、源氏の君の命は意味を成しません。あなたはここに居る事は出来ないのです」

「ならば公家をやめれば良いだけの事です、私は大丈夫ですわ」

「いや、そのような事を言っておるのではなく・・・」

「藤原の君、本当の事を言ってくださいませ。何がお望みなのですか?」


 すでにすべてを見抜かれている、いや、そういう姫ではないのだ・・・

 頭中将はその恐ろしさを分っていながら衝動を抑える事はもう出来なかった。


「わたしはあなたが欲しい!」


 頭中将は強引なまでにさろめを抱き寄せる。

 腕の中でさろめがクスクスと笑った。


「何が可笑しい?」

「藤原の君、あまり興奮なさるとお身体に自制がかからなくなっていますのね。わかりましたわ、あなた様が暴走しないように私が制して差し上げます」


 二条院の廂口に牛車が用意され、頭中将と共に顔を扇で隠したさろめが連れられて乗りこむ。


「お待ちください!」


 二条院屋敷より女房達が牛車に駆け寄った。


「主を失ったこの屋敷はどうなるのです、宰相様!」

「心配ない!明日には宮中より屋敷を統するものを送る。今宵のうちに身の回りを整理しておけ」


 牛車の御簾越しに言葉が投げかけられた。その言葉は宰相の声だったのか?それとも・・・

 唖然としながら、女御達は二条院を出ていく牛車を見送るしかなかった。



 夕刻、山城国酒造の屋敷に牛車が着く。牛車より頭中将と女人が足早に屋敷に入った。

 早足に廊下を歩きながら部屋に向かう。その後ろを酒造が追った。


「さかきのみやっこ、既に分っておろうな」

「は、先方は先ほど着かれました」

「さかきのみやっこ・・・」

「はっ、」

「馬を用意しろ」

「なんとおっしゃられました?」

「馬を二頭用意するのだ」

「どなたがお乗りになるのでしょうか?」

「私と側近の二人だ」

「それはいけません!宰相殿ともあろうお方が、世間に丸腰で姿を見せるなど、馬では御簾もかける事ができません」

「白覆面を付ければよい、早急に用意しろ」

「・・・」

「さかきのみやっこ!宮中に反心を持つというのか?」

「いや、そのような大それた事は」

「では用意しろ、明日の朝までに・・・」

「分りました、恐れ承りましてございます」


 頭中将は奥の部屋の引き扉を開けて部屋に入った。


「晴明!どこにいる!」

「宰相殿、こちらに」


 奥の闇に晴明が気配を消して座っていた。

 しかし頭中将の後からさろめが入って来ると、晴明は狼狽を隠せなかった。


「さろめ、なぜここに・・・」

「晴明様、お久しぶりですわ」

「宰相殿、なぜさろめを同伴されているのです!」

「晴明、さろめは既に後ろ盾がおらぬのだ、しかし源氏の君が宮中に進言した姫君である以上、この宰相が身上を守るのが常であろう」

「それは以前にも・・・」

「晴明様、私を如何しようと思われたのですか?」


 晴明を見てさろめの顔が怪しく微笑んだ。その顔を見て晴明は全身に恐怖を感じた。


「晴明様、高天原の神を司る大神の命を忘れたのですね?」

「そのよう事は無い!しかし、さいのかみに見染められたのは源氏の君であるぞ、それを・・・」

「晴明様、もうよいのです。あなた様のお役目、既にあなた様には大神より降りていられるはずですわ」

「・・・」


 さろめと晴明が話している間、頭中将は縁側の御簾より京の都を見ていた。

 山城国を始め、京の都は四方を要塞としての山々に囲まれている。

 京の都は怨霊や邪気対し、山城に石清水八幡宮、近江に蝉丸社、丹波に首塚大明神、更に亀岡に篠八幡宮疫社を起き、強固な防衛線を張っている。それらを統括するのは、従四位である晴明の役目であった。

 山城国では多くの屋敷がそうであるように、酒造の屋敷も高台に築かれており、京の様子がよく見えた。


「晴明、ここに来てあれを見るがよい」

「宰相殿、京の都に何か?」


 都の左京、内裏に近い中央部において赤い火の手が見える・・・


「あ、あそこは二条院、源氏殿の生家ではござりませんか!これは一体?」

「晴明、このような事では都の安泰は守れぬであろう?後日、帝に進言しておこう。源氏の君、屏息されてもまだ影響やまぬので、まどうことならず対応をとな・・・」


 頭中将の目は赤く輝き、晴明に反論を許す余地は無かった。


「晴明様、こちらへ」


 背後からさろめが薄笑を浮かべながら晴明を呼び、同時に頭中将は縁側の扉を降ろした。

 もはや晴明は自らの命を諦めた。今宵が終わるまでは・・・

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