第八章「須磨」
第八章「須磨」
源氏は日々、遠い目で須磨の海を見ていた。
須磨の海はどこまでも静かだった。
自業自得とはいえ、源氏の心は空虚に満たされていた。
「あの日・・・、あの日から私は満たされなくなったのか」
内陸の海、波の静けさとは裏腹に源氏は心の奥底を呟いた。
「紫はさろめの傀儡だった、私が悪かったのか・・・」
さろめが二条院に来てから紫は毎晩のように源氏を求めた。
しかしそれが毎夜となると、さすがに源氏も苦しくなった。
そんな折、紫の教育女房であるはずのさろめが、こともあろうに臥所に来たのだ。
その日以来、紫とさろめが交互に夜伽を始めた。
その異様な男女の営みに、通い婚が常である風潮において源氏に何かを植え付けたのであろうか。
ある夜、さろめは紫を連れて臥所に来た。
紫が源氏の上で喘ぐ・・
「光君さま・・」
裸のさろめが薄笑を浮かべながら紫に寄り添った。
「紫、光君様はまだ満たされていませんわ、このようにね」
「やめて、さろめ、いや!」
すでに源氏の身体の一部が入った紫の身体を、さろめの指が犯してゆく。
恐ろしい程美しく妖しいさろめと艶やかな紫の姿に、源氏は奇妙な満足感を得ていた。
それは人間がもつポリジニーであろうか。
毎夜繰り返される秘め事を重ねるうちに、源氏は自分自身の歯止めが利かなくなっていた。
思えば朧月夜との仲も、欲望に囚われていたのだ。兄帝の女御と知りながら。
「ご主人」
「良清・・・」
「どうされたのです?」
「すまない、お前までこのような地に伴わせて」
「私はよいのです。それよりご主人ともあろう方が、相当参られているご様子で」
源氏の目より滴が流れた跡が良清にも分った。
「京の事を思い出していた」
「京の賑やかさとは全く違いますので、お気持ちはご察し致します。しかし少しばかりお気持ちを変えるような事をなされた方がよろしいかと」
「この地にそのような者はおらぬ。私は蟄居の身、私を相手にする者など」
「実は少々気になる事がございます」
「どうした?」
「明石に心映えの優れた女人が居るという噂を聞きました。ご主人のお相手にと思ったのですが、文を出した所、その方の父君が大そうお怒りになられまして」
「その父君とは?」
「明石の入道と呼ばれる播磨守でございます。して・・」
「して?」
「ご主人の母方の祖父の甥。つまり桐壺更衣様の従兄の方でございます」
「ほう、元宮中の方か」
「その父君からの返文によれば、娘に会いたければ明石に来られよとの事、なんとも失礼な方で」
「良清、私は蟄居の身、この屋敷周囲から迂闊には出れぬのだ」
「この良清、必ずや明石の父君を説き伏せ、姫を須磨の屋敷まで連れて参りますので、しばらくご辛抱を・・・」
良清はそう言い残すと下がった。
その夜、須磨の屋敷から火の手が上がる。
火はみるみるうちに屋敷を包み、折からの海風によって屋敷は激しく燃え上がったのだ。
良清が狂ったように叫ぶ。
「早く!早く打ち壊せ!火の回らぬうちに!源氏の上は何所に?、ご主人!何所におられるのですか!」
轟炎の中に人影が見えた。髪の端々を燃やしながら、白束帯の源氏が紅蓮の炎に映し上がる。
「ご主人!何をされているのですか!早くこちらへ!」
源氏の目が妖しく紅く光る。炎を写しているのだろうか?
良清は一瞬たじろいだ。
「良清、これで明石に行けるはず・・」
「ご主人?」
「早々に手配しろ」
「しかし屋敷が!」
「京へ申せ!蟄居の身、事情により叶わぬと」
「・・ご主人」
「早々に頼むぞ」
「・・・」
後日、源氏は明石に移り、明石の君と逢瀬を重ねる事になる。
須磨屋敷における火災の伝令を受けた頭中将はすぐさま弘徽殿に報告し、紫宸殿で帝の命を受けると二条院に向かった。
帝の意志は母君である大后の意志、大后は頭中将に執心であるゆえ、実質的に宰相である頭中将に叶わぬものは無いのだ。
頭中将は高まる高揚を抑えながら、牛車の中で静かに笑い目を閉じた・・・




