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第十二章「皇子」

第十二章「皇子」



 日が傾く。瀬戸内の海に西日が写り、海に落ち込む山を照らし出した。

 疲れで意識が朦朧としていた夕霧は、おぼろげな景色を見ながら呟いた。


「須磨は思いのほか山と海が近いな・・」


 夕霧はこれまで須磨を一度も訪れた事がない。何かを本能的に感じたのであろうか。

 焼け落ちた須磨屋敷の横を立ち止まりもせずに早足で明石へ向う。

 播磨守の屋敷に着いたのは夕刻、すでに日は暮れていた。


「宰相殿、そのお姿は?」

「良清、細かい事はよい。源氏の君は?」

「主人は明石の方とお屋敷内に」

「すぐに通せ!明石の方とは別にしろ!源氏の君だけにお話しがあるのだ」


 薄暗い夕刻、良清はそそくさと屋敷内の部屋へ案内した。

 頭中将と冷泉皇太子、夕霧が続いて入り、奥からそのままの並びで座る。

 良清は二人の若者を見て思わず叫びそうになり、慌てて手で口を塞いだ。


「今、主人を呼んで参りますので」

「早々にな」


 良清は回廊を早足で歩きながら呟く。


「恐ろしい事をなされる・・」


 間を置かず源氏が御簾を上げて部屋に入ってきた。


「宰相・・」

「源氏の君、お久しぶりでございますな」

「どうして・・・帝の御意志か?」

「源氏の君、前にも申しましたが、貴方と私の仲です。今までのように頭中将と呼んで頂きたい」

「ならば頭中将、これは一体?」

「帝の御意志ではございませぬ。これは私の一存であります」

「そんな勝手な事が」

「私は宰相であり権中納言でございますぞ、政に関しては一位の位にあり、皇子方々の教育や擁護も一任されておりますゆえ」

「なぜ冷泉皇太子まで伴ってきた?」

「おかしな事を、父上である源氏の君から出るお言葉とは思えませぬな」

「・・・右大臣家の差し金か」

「何を仰るのです。冷泉皇太子にはあなたが必要なのですぞ」


 夕霧の心は複雑だった。

 冷泉皇太子は身上をすべて知っているのだろうか?

 ・・そしてこれからどうするおつもりだろうか?

 源氏が冷泉皇太子を見つめる。しかし冷泉は微動だに動かなかった。


 そういえば何かおかしい。

 冷泉は一言も口を開いてはいない。それはまるで皇太子という揺るがない厳格というより、むしろ何かに囚われているように思えた。


「冷泉・・」


 頭中将が冷泉に人差し指を差し出すと、冷泉は黙ってその人差し指を咥えた。

 その指を冷泉の頭上に向かわせると、指に沿うように舌を出しながら冷泉は顔を上げた。

 冷泉の口から離れた頭中将の指には、唾液で細い糸が伝わる。


「あ・・皇子様!」


 夕霧が思わす声を上げる。

 腹違いとはいえ血の繋がった弟の余りの扱いに、夕霧は憤りを覚えた。

 しかし冷泉の目は普通ではなく、恍惚と快楽を楽しむような眼差しに変わっている。

 頭中将が追い打ちをかけるように叫んだ。


「冷泉、直衣を取りなさい!」


 冷泉は素直に従い直衣を脱ぎ、単衣や下襲まで脱ぎ始めた。

 半尻を捨て、美豆良髪をほどき振分髪になると、その美しさは父である源氏の妖しさも兼ねているのであろうか、母、藤壺中宮を凌ぐ色気を思わせた。

 冷泉は中性的な身体を見せつけるように、目線を源氏と夕霧に向けた。


「あ・・」


 その時、冷泉の身体の所々に痣、そして火傷の痕が生々しく浮かび上がった。

 夕霧の顔が思わず凍る。それは父である源氏にも伝わった。

 源氏が眉を顰めるのを見ながら頭中将の口が開いた。


「源氏の君」

「・・・」

「あなたにも同じ記憶があるのでは?」

「頭中将・・」

「後ろ盾のない皇子がどのようになるのか、それはあなた自身が身を持って体験したはずです」

「・・・」

「源氏の君、だから夕霧を宮中から遠ざけたと?」

「そんな、桐壺帝の末子であれば、そんな」

「宮中において源氏の君が求められたのは、女人だけではありますまい?」

「何を、そんな事は」

「これが冷泉皇太子に充てられた正当な寵愛の姿だと?」

「・・・」

「冷泉は何時でも人を捨てられるようにおられます。それは・・」


 すでに冷泉の息使いは普通ではない。

 そのまま倒れこむように頭中将に身を任せると、その身体に獣のように舌を這わして行く。


「やめろ!」


 夕霧が叫ぶ。同時に頭中将に向かって走り出した。

 電光石火のような一瞬が過ぎる。


「うっ・・」




 夕霧が気づいた時、そこには血だらけの頭中将と冷泉。


「夕霧・・」


 ガタガタと震える夕霧。それを見て動かない源氏。

 夕霧にはこの一瞬が無限の時に感じた。


「ち、父上・・、私は」


 夕霧の右手には自らの帯刀、その刀は冷泉と頭中将を貫いていた。


「ああ・・」


 力なく跪く、夕霧の両目には大量の涙が溢れていく。


「夕霧・・」


 ゆっくりと立ち上がった源氏が話しかける。その言葉に涙を流しながら夕霧は顔を上げた。


「夕霧、芥子だ・・もう冷泉にはすでに意思は無かったはずだ。そなたに落ち度はない」

「父上、私は一体?」

「気にするな。宮中に申し立ては何とでもできる。宰相がこのような行為をした事、芥子を使った事など、帝にも私から告げよう」

「・・父上、本当に芥子なのでしょうか?」

「・・・」

「父上も昔は・・」

「気にするな」


 源氏が良清を呼ぶ。

 良清は一瞬言葉を失ったが、すぐに幾人かの人を呼び屋敷の外に遺体を運び出した。


「良清、後は任したぞ」

「はっ・・」


 源氏は夕霧を別室に伴い、自ら盥に水を張り夕霧の血糊を落としていく。


「父上、宰相殿は?」

「夕霧、何も臆するな。明日に都に戻る。そなたも伴うのだ」

「それは処罰でございますか?」

「違う、私が自ら戻るのだ」

「し、しかし、帝の御意志は。いや、まだ登宮のお許しは」

「すでに申し受けたわ、案ずるな」

「父上、すべて分かっておられ・・」

「もうよい、そなたは父に尽くしてくれたのだ。共に戻るぞ」


 引き戸が開く


「ご主人」

「良清、遺骸は?」

「ご指示の通りに致しました」

「先ほど運び出した者は?」

「皆、同じ処分を」

「私と夕霧、そしてそなた以外この件を知る者は?」

「すべて消しましたゆえ・・」

「よろしい。良清、明日の準備をしろ」

「すでに宮中には早馬を飛ばしておりますゆえ」


 夕霧の顔から血の気が引いていく。あまりに計算された振るまいに恐怖を感じていた。

 源氏が夕霧の血糊を洗いながら言う。


「夕霧、そう怯えるな・・・」



 山城の屋敷、さろめは一夜中月を見ていた。


「逝ったか、天を追われた者よ」


 独り言?それとも・・・


「ふふ、人の意識はまるで映し出す鏡のようですわ」


 誰に向かって話しかけているのか?さろめの目が妖しく輝く。

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