第十章「紅」
第十章「紅」
暗闇の沈黙が部屋を包む。
晴明は全身の気を逆立て気配を見ても、さろめは元々が神木の依衣である。気配など無い・・・
頭中将は縁側の扉を閉めてからその場を動かなかった。
「晴明・・・」
さらめが晴明に話しかける。
どこから?
「晴明、高天原からの命、もはやお忘れですか?」
「・・・」
「大神は以前にも私と同じ使いをこの地に産みましたわね」
「その節はわかっておる。しかし今回は一体?」
「卑弥呼は高天原より大和の衆を導き、出雲の力を封じましたわ。でも出雲の力は強く大社を祭り今でも封じておられるでしょう?」
「それは出雲神の御顔が都に向いておらぬことでも分かるではないか、それだけの力が・・・」
「そなたの本当の役目は?」
「すでに京に結界を張り大神が望む道はすべて整っておる」
「でも出雲神、いやさいのかみに源氏の方は見初められましたわ」
その時、縁側の扉で荒い息使いが聞こえた。
宰相、いや頭中将が目を赤く輝かせながらこちらに向かってくる。
その姿はこの暗闇でもはっきりと分かった。
「宰相殿、すでにお身体がままならなくなっているのか・・・」
晴明は絶望に近い気持ちでその姿を見た。
さろめの気配は無い・・・晴明はたまらず頭中将に叫んだ。
「宰相殿、この晴明がお分かりですか!お気をしっかりとお持ちくださいませ!」
聞こえているのか、それとももはや操られているのか、頭中将は息荒くこちらに近づいてくる。
その時、突然晴明の顔の前にさろめの二つの目が現れた
「無駄ですわ、晴明」
さろめの声にひるんだ晴明がその瞬間に見たものは、頭中将から振り下ろされた長刀だった。
「ぐわっ!」
晴明の左手首が宙を舞う。同時に赤い血潮が飛び散り、飛沫がさろめの姿を浮かび上がらせた。
晴明の体の自由はすでに利かず、左手首からは血が滴り落ちてゆく。
「さ・ろ・・め・・・、な、なにを・・・」
血まみれのさろめが晴明に向かう。
さろめは薄笑いを浮かべながら、口から舌をだして晴明の腕から滴り落ちる血を水のように受け止めていった。
「晴明!」
頭中将の声?いやこれは・・・
「さろめの身体は神木である。これ以上の依衣にはそなたの気が必要なのだ」
頭中将はそう言い放つと血に染まった長刀を鞘にしまった。その顔は満足気に笑っていた。
数刻後、左手首を縛った晴明が部屋から出てくる。
「晴明様!」
さかきのみやっこが近寄る。
「すぐお手当を」
「いらぬ!」
「しかし・・・」
「さかきのみやっこ、馬は用意しておるな?」
「は、はい」
「私が連れてきた馬がある、それを宰相殿に渡すのだ」
「あれは」
「何も言うな、よいから準備をいたせ」
その時、晴明は左の袖から切り落とされた左手を出した。
ギョっとするさかきのみやっこに晴明が言う。
「この左手をあの馬に与えろ」
「な、なにを申されるのですか」
「さかきのみやっこ!」
鬼神凄まじい形相の晴明の命に、もはや従う他はない。
山城の屋敷を晴明の牛車が出ていく。さかきのみやっこは、その姿を呆然と見送るしかなかった。
京、陰陽寮晴明邸では、下女が屋敷の前で主の帰りを心配そうに待っている。
「晴明様のお力が弱くなっております」
「お早くお戻りにならないと」
「しかし戻られたとしてもどうなさるのです・・・」
「それは」
その時、西洞院大路に晴明の牛車が現れ、下女達はすぐさま屋敷の門を開けて中に導きいれた。
牛車から苦渋の面で晴明が降りてくる。もはや身体の半身がままならなくなっていた。
「代わりの身体はすでに来ておろうな?」
「は、はい、しかし」
「よいから早く案内せい!時間が無いのだ!」
下女は慌てていた。晴明は半身を引きずりながら奥の部屋に入っていくと、蚊帳が吊るされた奥に臥所が設けられていた。
臥所の前で晴明は自身の目を疑った。
「うっ、これが宰相殿が言われていた身体・・・・」
晴明は絶望の淵に叩き込まれたようだった。
頭中将は晴明に腕となる身体を用意し、その身体はすでに陰陽寮邸に内々に運んであると。晴明に言ったのだ。
そして臥所に安らかな寝息を立てて寝ている姿は・・・
「八宮・・・、右大臣の皇太子の身体を使えというのか!何と恐ろしい」
晴明は右手が震えながら八宮に伸びていく。
「身体がなければ私の力は弱まるのだ、しかしどうすれば・・・」
伸びた右手が力なく下りた。もはや晴明は気が狂いそうだった。
「うっ、うわあぁぁぁーーーーー!!!!」
晴明の断末魔の叫びは屋敷はおろか京中を震わせた。
早朝、山城のさかきのみやっこの屋敷に二台の牛車が着く。突然の事にさかきのみやっこは戸惑いを隠せなかった。
さかきのみやっこが用意した馬が二頭、そして晴明が連れてきた馬が一頭。
その馬は黒い体を持ち、この世のものとは思えぬ勢いで晴明の左手を飲み込んだのだ。
牛車の到着を見据えたように頭中将が部屋から出てきた。しかしその姿に、さかきのみやっこは目を疑った。
「宰相殿、そのお姿は!」
禁断の紅の直衣・・・
「さかきのみやっこ、二台の牛車は着いたか?」
「はい、今し方」
「迎えに行く」
「い、一体どなたでございますか?」
「そなたが気にする事ではない、もっとも知らない方が身の為だ」
牛車から白覆面をした若者が降りる。頭中将が近づき話しかけた。
「二人とも覚悟はできておられますか?」
頭中将は二人の顔を覗き込んだ。
若者二人はお互いの目線を合わせるとすぐさま踵を返し、うなずいた。
「ご兄弟であるお二人の謁見、さぞお父上もお喜びになられますぞ」
頭中将はそう言い放つと二人を馬に乗せ、自らは黒い馬に跨り白覆面をつけた。
「お二人ともこの宰相からお離れなさるな、あなた方の父上は運気が非常に強いお方であらせられます。これはお二人にとっての試練と思って頂きたい。私の官位が権中納言になったとお伝えすれば、あなた方の父君もこの試練を分かってくださるはずです」
頭中将は鞭を放った。
「門をあけい!」
紅の姿に黒い馬。
まさに標的になるとしか思えぬ姿で駆って行く。その後ろを慌てて二人の若者が続いた。
さらめは屋敷の中からその姿を見ていた。
「ふふ、必死ですわね冷泉皇太子と夕霧。運命は・・・」
独り言のようにさろめがつぶやく。
朝靄に、三人の姿は消えていった。




