責任感だけ強い無責任な男
最近、とても行動的になった。失うものなどなにも怖くはないからだ。ジャズがながれている喫茶店の中央の席に座って、オレは向かいあう女性に話をふった。相手は優しげに口角をあげている。
「オレのこと覚えてる? 小学生の時にちょっと話したことがあるくらいだったから覚えてないかもしれないけど」
「あーうん、覚えてるよ。口崎くん小学六年生の時に山梨から山口に引っ越して来たんよね。山が無いところから山があるところに、ね」
「いや山梨にも南アルプスや富士山が」
「転校生でそんな遠くから来るの初めてじゃったけーあの時の印象は結構残ってるよ。部分的には鮮明に思い出せるところもあるなー」
実に凄いなと、思った。一年ほど同じクラスにいたというだけなのに、オレのことを覚えてるらしかった。
冷たいロイヤルミルクティーを飲む。
「オレ、なにしてたっけ」
「なにって?」
「小学生の頃。あの頃、なにをしてたかな?」
「うー、ん。あー、なんか、あのイメージが強いな。カーテン事故」
彼女はカフェラテを飲んだ。
「なにそれ」
カーテン事故とはなんだろう。失われた記憶に興味がわいてきた。
「なんかさあ、教室の窓際付近で男子同士がふざけあってることあったじゃん」
「あー、あの先生の机と窓の間のスペースとかね」
「そこに偶然、日向ぼっこしてる君がいたわけよ。はは」
笑われた。
……あの頃のオレは日向ぼっこをしていたらしかった。
「それで?」
「偶然、その近くで男子達が取っ組み合いを始めて、一人が転んだ拍子に掴んだカーテンを——引っ張っちゃって。はは」
「……」
レールからカーテンが外れたのか。
「レールのランナーが割れてカーテンが外れたんちゃ」
ランナーというのは、レールからカーテンを繋ぐ部品だろう。オレの脳内辞書にあるランナーという単語は走る人という意味でしか記述されてなかったが、多分、そんな感じの意味だと思う。
「それが外れたから、たまたま近くにいた口崎くんとふざけあっていた男子達が、先生に——あはは」
笑われた。さっきから、なんだかオレを逆撫でするような感じがする。オレが神経質なだけだろうか。
「叱られたんだね」
「先生に『お前達でなんとかしろ』って言われたね」
「……そうだったっけ」
「あれは本気で言ったわけじゃなかっだろうに、責任感の強い口崎くんは自己犠牲でカーテン事故を『なんとかしようとしてた』ね。口崎くんは全く無責任なのにははは」
お腹に手を当てて、腹筋が崩壊したかのようにははははははははと、笑い続ける。
「……」
「あははははははやべえぶちウケる」
「……」
オレは目を細めてじっと彼女を見つめ続ける。
「あ、ごめんごめん。だけど、私は悪くない。だってあのときの真剣な表情で、一人で勝手に『なんとかしようとしている』様子を思い出したら、苛めたくなるくらいに心臓がくすぐったくなっちゃって、やばい、これはもう、う、ぷ、ダメな奴だあははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
「……」
オレは死んだ魚のような目で見つめ続ける。死んだ魚でも、ここまで目を細めるだろうか。腹筋が崩壊している方を見つめ続ける。
この余白的な時間、オレは彼女の名前を思い出そうとしていた。な、なんだったかな。思い出せない。申し訳程度にも覚えてなくて、申し訳ない気持ちになった。
「はははははははははははははははははははははははははははははは。割れたランナーを直すために、瞬間接着剤を使ってた君の無駄な頑張りを思い出すたびに、ふ、腹筋がぁ、あはははははははははははははははははははははははははははははははははははは」はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」はははははははははははははははははははははははは」
「…………」
そろそろ怒ろうか?
場の空気を察したのか、彼女は頑張って、笑いを堪えた。しかし、もう遅い。オレたちは店内ですごく浮いてしまっていた。湯船に浮く垢のように、邪魔な存在になってしまっていた。
「あーあ、なんか私たち注目されてるよ。これは全部口崎くんの責任だね」
オレが悪いのか。
オレは少し逃げ出したくなった。店内の四方を壁やガラスで囲まれた世界から、逃げられることができたらどんなにいいだろう。昔からこういう、人が密集している場所が苦手だ。
——みんなに責任を果たさないといけない。
——みんなに気に入られないといけない。
——みんなの役に立たないといけない。
「……そうだ。今、こうしてオレたちが浮いてしまっているのはオレの——責任だ。オレがなんとかしないといけない」
「じゃあとっととなんとかしろっちゃ。このぼけが」
「……」
なんだろう。向かいに座っている方の性格が全く読めないんだけれど。性格なんて、あるようなないような不明で可変なものだろうから、枠にはめて決めつけるようなことはしない方がいいのだけれど。
「責任を果たせっちゃ。みんなの為に、正義の為に、自分で勝手に背負いこんで、自分で勝手に失敗して、失敗した理由を考えないで、また同じ失敗を繰り返せばええんじゃないん? ばーかばーか」
——でも、彼女の性格はちょっとヤバい気がしてきた。
なにがヤバいって、色々、うん。なんかヤバい気がしてきた。なにか言い返さないと。とりあえず、思いつく限りしゃべってみる。
「オレは馬鹿じゃない。頭が弱いんだ。頭を働かせるたびに、全身に負荷がかかり、穴という穴から血が出て、ひどい時には、昇天した心地になって見えた三途の川の向こうからショートカットでショートカットでショートカットな髪型の美麗で端正な顔立ちのおっさんの隣にいる天使の輪っかと羽があって身体の曲線と膨らみがグラマーな女性がこちらにほほ笑みかけているのを見ることがあるんだ!」
「……」
——いい。——いいぞ。
これから会話の主導権はオレのものだ。
「どうだ」
なにがどうだ、なのかはわからないが、虚勢をはったような感じになってしまった。
「うわぁ。うわぁ」
「あ、あのどうかしました?」
敬語になってしまった。
「うわぁ。うわぁ。いきなりなに言ってんだこの人。自分でいきなり、語り出したよ。三途の川に溺れて死より苦しいひと時を過ごせばいいのに」
「ん?」
こそこそと、小声の独り言が聞こえた。オレは、聞こえてない振りをして、頑張った。オレ、頑張った。
——この方、オレに対する扱いがひどい。
——オレ、いじめられてるかもしれない。
なんだか、さらに店内がざわついてきた。
相対するオレたちは周囲に意識を向けた。みんな、同じ方を向いている。どうやら、レジ会計をしているのを見ているようだ。
「おら。金出せ。早くしろ」
男は包丁を片手に、レジ会計をしていた。
おつりが三十万……。
オレは立ち上がり、レジの店員さんに「おつり間違えてますよ」と言った。
しかし、なんということだ。無視されてしまった。
包丁を持った男が「動くな! 少しでも動いたらこの店員を殺す」と言われた。なぜ殺されないといけないのだろう。よくわからない。
「なんで?」
「はあ!?」
「だから、オレが少しでも動いたら殺すの? そんなの理不尽じゃない? その店員にも、まあ、それなりに生きる権利はあるはずだよ。なのに、なんで殺すの? ねえ。なんで? ねえ教えてよなんで? なんで?」
男は引きつった笑みを浮かべたあと、外のどっかに行ってしまった。もっと、深い話しがしたかったのに。
そんな怖い顔していたのかオレ。まあしかし、そんなことはどうでもいい。さっきの話しの続きをしないと。
中央の席に戻って座った。
「ごめん。遅くなった」
「なにさりげなく、強盗やっつけてんの。ぶちすげーっちゃ。全部見てたよ。やるじゃん」
「はあ」
強盗だったらしかった。
「なんでそんな元気ないの」
「うっ頭が……」
「え……急にどうしたの?」
「あの強盗を助けてあげられなかった自分に——責任を感じてしまったんだ。オレがいなければ、あいつは、病弱で先の長くないお袋に、好きな食べ物を買ってあげられたかもしれないのに……」
責任の文字が脳内でうめつくされてゲシュタルト崩壊しそうだった。どれほど脳内でうめつくされていたかを表現すると十万文字分の空欄が必要になりそうだった。七万文字では収まらない責任の数だった。
「……」
「……」
「……変」
「なにが?」
「ぶち変。今回の事件は口崎くんに責任の所在はないっちゃ。自分勝手に妄想して責任をつくりだすなよ」
……事件だったのか。
「オレには、責任がある。あの男に」
「ついさっき会った強盗に!?」
「ああ。オレの——責任だ。オレのせいであいつは……」
「いい加減にしないと殴るよ?」
無表情なのにものすごい剣幕を感じたので、オレは自制することにした。無表情で握りこぶしってこわい。
間をつなぐように、自然な仕草で、テーブルに置いてあるカフェラテの吸引口。すなわち、ストローの先端を尖り唇でじゅるじゅると吸った。
とてもスムーズな無駄のない動きだった。
しかし彼女は無表情でオレの頭にゲンコツした。
「勝手に他人の飲んでんじゃねー!!」
「あ。ごめん。これ、あれだわ。か、か、か間接キスとかいう昔から伝わる愛人同士がやる衆目に晒しても大丈夫な合法的な性行為だ。ご、ごめん。けして自然にやればバレないだろとかそんなやましい考えのもと実行したわけじゃなくてた、ただ、なんとなーくその場のノリで唇を尖らせてしまって——イタイイタイごめんなさい話せばわかる。もしくはわからないかもしれないよイタイ」
オレは暴力をふるわれた。顔面のところどころがプロのボクサーもびっくりの青あざができて腫れている。今度から彼女のことは暴力女性と呼ぶことにするかもしれない。よっ! 暴力女性! 女性が男性をぶつのは国の憲法でしっかりと合法化されているからな。今の日本では『女は男を見かけたらとりあえず殴る!』が社会の常識となっている。
だからこの程度の重傷なら、警察沙汰にならないのである。男が不甲斐ない世の中になった。
喫茶店が血の海に染まった。
……どんな殺人現場だ。とそんなツッコミはこの社会では通用しない。男はいつも女のサンドバックのようなものなのだ。女性はか弱いものという常識が次の世代に受け継がれ、次第に女性は常に男性よりも優位に立つべきだという思想が広まっていった。
結果、思想の自由が拍車をかけ、近年、『男撲滅党』なる政党や『百合満開党』などの政党が支持率をぐいぐいと上げてきている。各報道メディアでも第三次世界大戦の被害者のインタビューで『男がいなければ戦争は勃発しない』と話した場面を大きくとりあげている。どんな女尊男卑だ。
——もはやこれは乱世ではないのか。
——男性対女性の治世を巡った争いではないのか。
「新しい世の幕開けじゃあ!」
拳を天に振り上げた。
「ど、どうしたの? 急にびっくりするっちゃ」
「お、おう。オレにもよくわからん。なぜか身体が勝手に動いて……。もしかすると第二の人格を形成してしまったのかもしらん」
ふるえる両の手のひらを見つめている。眼球が左右に震とうしている。厨二がはじまった。
「ぐぅ……暴れるな」
「……大丈夫? 頭、大丈夫?」
「お、おい、オレから離れろ。オレの手に近づくんじゃない! 業火に焼かれたくなければなあ!」
「いい加減にして。殴るよ」
無表情で握りこぶし。これ以上、殴られたら、本当に死んでしまうので、ここは自制した。反省はしていないけれど、自制した。
「あーもう帰ろうよー。口崎くんと話すの飽きた。つまらない人間と話すの飽きた。時間の無駄。目障り。目の前から早く消えてほしい。ぶち帰りたい!」
「率直な気持ちを伝えてくれてありがとう。だけど、それ前振りだろ? ツンデレだろ? このあと『別に口崎くんのことが嫌いだってわけじゃないんだからね!』ってフォローを入れてくれるんだろ? でなきゃオレは死にたくなるような惨めな気持ちになるしかないよ? いいのそれで?」
彼女は太陽のような陰りの要素のない天真爛漫な笑顔で「うんいいよ!」と言った。いい笑顔だぜ。あれ、目に水が。
「……じゃあ帰ろうか。結局、なにを話していたのか忘れてしまったけれど、しょうがあるまい。忘れてしまったものは」
オレは席を立って、色々としたあと、店を出た。そして、お別れをした。またね。またね。それでお終いだ。また会えるなんて保証はどこにもないのに。
青天を見上げて途方にくれる。なんの話しをしていたのか忘れてしまった。しかもそれだけではなく、なぜ、ほとんど話したことのない小学生の時の同級生を呼び出したのかがわからなかった。
——そういえば、オレは今日が最後でもいいと思っていたんだった。
忘れていた。だから、オレは急にSNSで同級生の人達に一人ずつ声をかけて、喫茶店に誘っていたのだった。今日が最後でもいいやという投げやりな覚悟で、スマートフォンのパネルを押した。
SNSの登録名はニックネームのようだったのでフルネームがわからなかった。結局、彼女のことはわからずじまいだ。まあ、ネットでいくらでも会えるからいいか。そう思ってオレはお家に帰る足を進めた。
明くる日。オレは再び、喫茶店にやってきた。レジでロイヤルミルクティーを注文したあと、中央の席に向かった。そこには——知らない人がいた。
「やあ」
すると向こうも。
「やあ」
「久しぶりじゃない? 中学生以来だったよね」
「なにを。中学生以来なんだから、久しぶりに決まってるだろう」
「お久」
「それじゃあ帰るわ」
彼は、席を立った。帰る準備をしている。
「早すぎ!?」
「お前が遅すぎるんだよ。約束の時間の五時間前にはくるのが常識だろう。待ちくたびれたから、帰る」
「ちょいちょーい!」
オレは本気で帰ろうとする彼を静止させた。腕を掴んだら彼は怪訝な表情をした。こういう時に、押しの強い人間が近くにいれば、彼を思うように操作できるのだろうが、生憎、そんな度胸の据わった人間は知り合いにいなかった。
とりあえずなにか話さないと。
「待たせたのは申し訳なかったよ。待ち過ぎた奴が悪いのは言うまでもないことだけれど、待たせてしまったみたいでごめん。——責任はとるよ」
彼は怪訝な顔だった。
「はあ? どうやって責任をとってくれるんだ。そもそもお前なんかに、責任を負うだけの度量はねえだろう。小さじ一杯で精一杯だろ? 口先だけの方便で精一杯だろ?」
「……オレの包容力が小さじ一杯だと思われていることについて深くは言及しないけど、責任は絶対にとるから」
「やめろ。そんなことしたら、お前……」
「いいんだ。止めるんじゃない。これは、オレの意思で決めたこと。こうなることは、覚悟、できていたさ」
「……お前」
「絶対に止めるんじゃないぞ」
「……ああ」
「絶対だぞ。絶対だかんな!」
「……おう」
「絶対に押すなよ! 絶対に押すなよ!」
「……ああ」
「そろそろ止めてくれない?」
「……お前」
「そういうことだ」
どういうことだ。それは誰にもわからなかった。
最後までオレを止めなかった彼は、バイバイして帰った。つまり、バイバイと彼が手を振ったあと、オレもバイバイと手を振ったということだ。帰り際に彼は清々しい笑顔で「ふう、やっと家に帰れる。これがカタルシスか。五時間も待たされた甲斐があったな」とつぶやいていた。なんだか、よくわからないが、彼は抑圧から解放されたらしかった。おめでとう。オレは一人でロイヤルミルクティーをすすった。このお店のロイヤルミルクティーはおいしい。ロイヤルミルクティーロイヤルミルクティーロイヤルミルクティー。オレはロイヤルミルクティーがいればあとはなにもいらない。ロイヤルミルクティーがオレの全てだ。
オレはロイヤルミルクティーを飲み終わった。
オレはお家に帰った。
オレにはまだまだこの世界に責任がある。たとえ、今日がオレの最後の一日だとしても悔いを残さないように頑張らないといけない。頑張らないと、オレはみんなから価値を認められないような気がする。
たとえ誰かに小さじ一杯の努力だと思われても、オレにとっては精一杯の努力なんだ。
オレにはみんなに——責任がある。
明日もまた、名前を覚えていない知り合いに喫茶店で落ち合うことになっている。中学校で同じクラスだった人らしいが、LINEのアカウントがニックネームなので苗字もわからない。きっと顔を見ても名前は思い出せないだろう。
だけど——そんなことはさして重要じゃない。
オレには目的がある。
——六十億人に責任を果たすという目的が——
誰にでも優しいって、やっぱり無責任だ。