1章5 『殺さないと』
闇夜が支配する中を白い結晶が降りしきる中、一人の男は震える手の平の中に鈍い光を携えて、うわ言のように何かを呟き続けている。
「殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと殺さないと――」
深い底なし沼のような狂気にのまれ、男の口の端からは泡となった涎が溢れるほどそのたった6音の言葉を繰り返し口にする。まるで呪われた人形のようだ。顔面は蒼白で握りしめられた拳は、赤く変色し爪が平に食い込んでいる。右手に鈍く光っていたのは、昼間あまりの衝撃で刃が毀れた短剣だ。
まるでぼろきれのようなその男の身なりは、雪の中を歩くような服装ではない。ここで行商を行っているほどの人物が、その程度の防寒具を持ちそろえていないわけがない。単に着忘れてきたのか、それともそんなことに頭さえ回っていないのか。
どちらにせよ、真正面から吹きすさぶ雪の冷たさで男の体温はどんどんと奪われていく。それでも男は寒さなど感じてすらいないように、ふらふらゆらゆらゆっくりとある目的地に向けて歩みを続けている。
吹雪で白く閉ざされた道の先は、底知れない闇色をしていた。それでも、この先に自分が恐れる最悪の災厄が、のうのうと息をしてこの村に居座っている。それはこの男にとって、この世の終わりとまるで同義だ。
「殺さないといいけないんだ……殺さないと」
雪が目や口に容赦なく入り込んで、まともにしゃべることも見ることもできない。強く風が吹きすさび、雪は半ば弾丸のような勢いをもって体へと当たる。本当ならまともに歩くことすらできないはずなのに、その男は這う這うの体で何とか前進していた。
それは一種の妄念ともいえる男の執念のなせる業だった。
壊れたように口から漏れ出る殺意。それだけが、男の――この村出身の行商人レナードの意思だった。
溢れんばかりの『魔人』への殺意。憎悪。怨嗟。嫌悪――そのすべては、確かにこの世界で生きる者にとって、当たり前の共通認識だ。
『魔人』は恐ろしい。『魔人』が憎い。『魔人』に消えてほしい。『魔人』と関わりたくない。
この世で最も疎まれ、憎まれ、嫌悪される、唾棄すべき存在。それが『魔人』なのだ。
だが、それでもレナードほどの思いや行動力を持つ人間はほとんどいないだろう。片手に短刀をぶら下げ、その手で『魔人』を葬ろうなどと考えられる人間はごく少数だ。
大半は関わり合いになどなりたくないから、『魔人』の脅威に身を竦ませ、家の片隅でただ嵐が過ぎ去るのを待つかのように身を潜ませる。『魔人』を殺すような実力行使ができる存在など、それ以上の化け物にしかできないからだ。馬を駆り口八丁手八丁でものを売りさばく一商人であるレナードが、そんな存在であるはずがない。
「俺が殺すしかないんだ俺がやるしかないんだ俺しかできないんだ俺がやるべきなんだ俺が――」
しかし、そんなことは彼には関係ない。そんな薄っぺらで上辺だけの事情など、彼には一切見えていない。それが正しいとすら思っていない。彼の中にあるのは、ただ「殺せ」という己の陰から囁かれる甘言だけだ。たとえ、殺すことができずとも、そんなことはどうでもいい。
――ただ、この抗いがたい恐怖にあらがう方法がこれしかないのだ。
「――もう、たくさんだ……」
色黒の肌が、吹雪の中で凍傷でも起こしたのか白く硬くなり、まるで蝋のようになっている。動くことも難しくなってきたのか、歩む速度は遅く、頭や肩に雪が積もり始める。しかし、彼はそんなことなど気にも留めず、ただ己の中に燻る深く暗い殺意に従い歩む。
「『魔人』に殺された街なんぞ見るのは、もうたくさんだ。殺さないと殺さないと殺さないと――」
焼死。轢死。圧死。
彼が今まで見てきた死体の数は、何十体だろう――
溺死。感電死。出血多量死。
彼の身に募った恐怖は、どれくらいだろう――
今まで見てきた『魔人』の被害に、そんな死体はざらにあった。商いに訪れた街が、村が、ただの死体だらけの村になっていたことなど幾度となくあった。各地を回って物を売る行商人は、『魔人』の被害を受ける回数も目撃する回数も多い。そんな中、自分は殺されずにすでに災禍が去った後の惨劇ばかりを見てきた。
『魔人』は、魔物と同じ。人に仇為す存在でしかない。理性無き魔物よりなお悪辣に、人の尊厳を踏みにじり、その一生を娯楽に興じるかの如く奪うのだ。
今、故郷の村がそうなろうとしている。それは彼にとって、許しがたいことであった。だから――
「殺さないと」
それが彼の使命なのだ。
歩む彼の足取りは遅く、けれど確実に目的へと近づいている。
吹雪で道の先は白く覆われ、視界は黒に支配されたまま先行きも見えない。終わりのない洞窟を歩いているような錯覚を覚えるほど、長い時間をかけて一路化け物のいる場を目指す。
彼には一切理解できないだろう。化け物を受け入れた女性――エレナのことは。レナードにとってはもう、彼女すら同じく化け物のように思える。化け物を受け入れる心根、それがもうまさに化け物だ。信じられない。これからさきも同じように悲劇を招く存在であるならば、それはもう『魔人』と何も変わらない。
男のどこまでも暗くよどみ切った瞳は、けれど、一切の不純を排除した純粋な黒い底なしの殺意をたたえて、歩む。白い吹雪の中、鈍く輝く短剣の光が冷たい怜悧な感情を伝えてくる。
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そうしてやっと目的の場所まで行程の半分を過ぎたところで、男はその場に倒れこむ。
「殺さないと殺さないと殺さないと――」
変わらない憎悪と殺意を秘めた瞳は何も変わらず、ただ口だけがその重苦しい響きを持った言葉を白と黒の世界に響かせている。その声を聴く者は、今この場には誰も――
「あれ?こんなところにお人形さん?」
しかし、レナードのその声は誰かに聞き届けられていた。そのことにレナード自身が最も驚く。降り積もった雪に顔を埋めていた彼だったが、声の存在に驚きゆっくりとだが顔を上げる。
こんな吹雪の中、外を出歩こうなどと考える輩がいるはずもない。冬場、急な吹雪に見舞われることの多いこの村の住人は言わずもがな。この村の住人でなくとも、肌を打ち抜くような激しさのこの吹雪に身を晒す馬鹿はいまい。
だからこそレナードは『魔人』を殺すなら今しかないと思い、こうして命を張って外へ出向いたのだから。
その目論見は今まさに目の前で呑気に声を上げる人物によって崩れかける。姿はこの闇夜の中、さらに猛吹雪とあってほぼわからない。浮かび上がる影のようなシルエットで見れば、ほんの少ししっかりとした体格の男。肩幅などは広く、背もレナードより少し低いくらいの身長だ。あの忌々しい『魔人』と比べれば、レナードも目の前の人物も10センチほど低いかもしれない。
その男の影は、吹雪の轟轟とした恐ろしい音をかき分けてこちらへと歩み寄る。レナードは、それに対し警戒を露わにして手にしていた短剣を突きつける。寒さで震えて切っ先が揺れる。しかし、歩み寄る男への牽制にはなったのか、その男はこちらへの歩みを止めた。
「うーん……どうして怒っているのか分からないわ?」
大の男の口調にしては妙に子供の、それも女のお嬢様のような話し方。はっきり言って目の前のがっちりとした体格には全く想像もつかないしゃべり方だ。声の質も、吹雪でよく聞こえないとはいえ女のそれではないということだけは確かだ。
レナードはそれを不審に思いながらも、目の前の人物へ来るなという意思を伝えようと口を開く。しかしそんな体力すらもないのか、妙にかすれた声が小さく漏れ出ただけだった。
「新しいお人形さん……にはできそうもない。寂しいわ!哀しいわ!」
湿っぽい声を出して悲しそうに男がレナードの許へと再び歩みだす。レナードは内心焦りを感じていたが、体は熱を失い動作も緩慢とした動きしかなせない。結局その歩みを止めることは出来ないまま、謎の男はレナードの許にたどり着く。ここまで来れば、レナードが突きつけていたのが刃物だと否が応でもわかるはずだが、男はそれを気にも留めずレナードの頭を掴んだ。
「お顔をよく見せて?」
その声音はどこまでも無邪気な子供だった。まるで人形遊びに興じる女の子のよう。けれど、その声質はやはり低い。女の子とはとても思えない。レナードが顔を掴まれ、焦点の会わない目でよく見ると――
「――!?」
目の前には黒と赤の色違いの瞳が並んでいた。その話し方とは違い、ちゃんと顔も体つきもしっかりとした男のものだ。黒髪黒目はこの地方ではあまり見られない特徴だが、しかし男は短い黒髪に濁りのない黒い瞳をレナードに注いでいる。まじまじと品定めするような目でレナードの顔を検分している。
そんな男をよそにレナードの方はより大きな絶望を顔に浮かべていた。それはやはり目の前の男に起因することだった。
(まただ……また、『魔人』がこの村に来た!?)
自分を遠慮なく覗く瞳は黒だけじゃない。その右の瞳は、あの呪われた赤い瞳だった。この世界で『魔人』だけが持つ、右目の赤い瞳だ。忌むべき、疎まれるべき害悪が目の前にもいる。それが、レナードには耐えられなかった。
「うああああああああああああああああああああああああああああああっ!?!?!?」
半狂乱になってレナードは握りしめていた短刀を男に向かって振り上げていた。その切っ先が、男の首筋を切り裂き、首をえぐり取ろうとする直前。
「やっぱり……駄目」
失望感に満ちた声が、男の口から漏れ出した。同時に、レナードの手も男が後ろ手に受け止めていた。見ることもせずに男はレナードの攻撃を防ぐと、そのまま手首の骨を折った。
「あ!?っがああああああああああぁぁぁっっっ!?」
なんの覚悟もないまま、レナードは骨を折られた痛みに絶叫する。手首の骨は綺麗に織られているため、実際にはそこまでの痛みは無いはずなのだが、得体のしれない『魔人』に何をされたのか分からない恐怖に、レナードは悲鳴を上げることしかできない。
その男の涙や鼻水でぐしゃぐしゃとなった哀れな様子を、何の感慨も抱かずに男はただ侮蔑を込めた声で切り捨てる。
「お人形にするためには全然可愛くないわ。顔が駄目。手が駄目。目が駄目。口が駄目。耳が駄目。首が駄目。体が駄目。腕が駄目。足が駄目。全部が駄目。愛せないわ。恋しくないわ」
飾り気のないただただ純粋な否定を並べ立てられる。しかし、レナードはそんなことなど何一つ耳に入っていない。
「ああああああっっ!?うあ!?うああぁぁあああぁっ!がああぁっ!?」
恐怖で。憎悪で。苦痛で。レナードは狂乱し、まったく目の前に焦点が合わせられない。そんな男を前に、さらに影だけの『魔人』は不満を口にする。
「わたしが目にするには何一つ美しくないわ。可愛くないわ。今すぐに冥界の門前の犬にでもくれてしまいたいわ。それに――よく考えたら、わたし|遊ぶ≪ロール≫する前に遊んでしまっているわ。なんてことかしら」
目の前の男は、口元に手を当てて「失礼だわ」と一言告げる。そして、頭をこつんと少し叩くと、これまでの態度を一変させた。
「あーー……とりあえずこの状況何とかしなくちゃならねぇよな」
初めて、この男の外見と口調が一致したような、そんな感覚。今までの子供じみた言葉の数々よりも、今目の前の男のその話し方が本来のものである。中身と外見が収まるところに収まった。そんな感覚だった。
「まぁ、おっさん。運が悪かったと思ってくれよ。こんな夜中に、しかも吹雪の中を歩いてるなんて誰も思わなかったんだ。出会っちまったが最後。これでまだ人形になる資格がありゃ生きることは出来ずともこうはならなかっただろうにな」
レナードが狂乱に目を見開き、なおも折られた手首を抑えて喚いている。先ほどと違い、男は憐憫のような感情を男に差し向けて、端的に言い放つ。
「悪いな。俺にはこの弱っちぃ力しかないんだ。だから、マシな死に方は選ばせてやれねぇ……安らかな死ってのは与えられねぇ。ごめんな」
男は、憐れみを込めた言葉をレナードに差し向け、頭を下げる。その姿は狂乱状態のレナードには届かない。それでも、男はしっかりと頭を下げてレナードに詫びる。そして――
「ああああああああ!?っも……が!?」
男の手が、レナードの口元へと伸びる。そして、そのまま口に手をかぶせて押さえつけると、レナードは手足をじたばたと暴れさせて男の手から逃れようとする。狂乱状態のレナードは男の体をはねのけようとするが、もとから寒さで弱きっていた体だ。抵抗も敵わずそのまま雪に埋められる。
「んんんんんん!?んんんんんんんんんんんんっっ!?!?」
口を押えられ、鼻から荒い息を吐いて暴れるレナード。悲鳴を上げないようにか、口を押えられ積もった雪の中にほとんど体を埋められる。男は、悲しげな瞳を黒い目にも呪われた目にも浮かべて告げる。
「ごめんな……」
その瞬間、白い雪に伸びた男の腕から、すさまじい量の血が飛び散る。返り血がそこら中に飛び散り、男の顔や腕も真っ赤に染め上げる。レナードが埋められた雪の塊、その雪が赤く赤く染まっていく様は、まるで純白の綿布に血を吸わせたかのようだ。白と黒だけの世界に、鮮血で染め上げられた美しくも無残な装飾が出来上がった。
口を押さえつけていた男の腕が雪から引き抜かれる。その手はべったりとした赤い血で染まりきり、また小さく切り刻まれた肉の小片がこびりついてもいた。冷たい雪の感触が、直前まで暴れていた男の温かい血で濡れている。男は腕の赤い血肉を見て身を震わせ、次いで吹雪にさらにうずもれていく男の死体を憐れみを込めて見る。
「うっ………!?ごえぇ!?」
吐き気を催した男は、その場に蹲ってその吐き気と戦う。自分で起こした惨状に自身で傷つく矛盾。それは、男の優しさゆえのものなのか。それとも――
「――うまく|遊べた≪ロール≫?」
ただのお遊びだったのか。
無邪気な声で、男は再度立ち上がる。再び違和感だけの声で、鼻歌交じりに吹雪の中を歩みだす。
「ここまでしたんだし、ここでお人形さんを一人探してもらうわ。嬉しいわ!楽しみだわ!」
その言葉を残して、男は吹雪の中、影だけを残して去っていくのだった。