表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/15

1章4 『魔人でも笑顔になれるような……』




「やっぱり厄介ごとになったんだよ」


 うんざりとした表情のアンラだったが、別段デュオンを責めるようなこともせずすぐにソファに体をうずめて寝息を立てた。それがただの振りだとはすぐに分かったが、ありがたくそれを利用させてもらおう。まだ混乱気味のエレナは短く「大丈夫です」と言葉を残して、奥の方へと引っ込んでいった。デュオンはアンラを残して先に宛がわれた個室へと入り、ベッドへと腰掛ける。


「やっぱり、俺は「化け物」でしかない……」


こうしてベッドのある個室で休むことなどこの二年あまりなかった。『魔人』として生きることになった赤き月の夜から、彼にとって世界は優しいものではなくなった。物を買うことさえ満足にできないのだから、彼の旅してきた2年間の過酷さは想像に難くない。何をするにも自給自足しかないのだ。だから、この2年間宿で眠れたことなどただの一度も無かった。


だからこそ、エレナのような存在は初めてだった。疑念も恐怖も憤慨も顔に浮かべることなく、笑顔で彼を迎えてくれる存在がいることにデュオンは驚いた。何を思っても怖がられ、何を言っても信じられず、何かをしても石を投げられ詰られる。それがデュオンの人生だ。そう受け入れて諦めていた。だけど、そんな風に思わない人もいると救われた気持ちになった。ここにきて、エレナに出会ってそう思ったのに。


「その彼女を危険にさらしたんじゃ意味ねぇよ……!」


 自分に好意的に接することでその人に危険が及ぶ。それだけじゃない。この村での彼女の立場さえ危うくしてしまう。それは彼女の命も生活も脅かしていることに他ならない。そして、その原因はほかならぬデュオン自身だ。


「やっぱり、俺は人と一緒に生きるべきじゃない。俺は『魔人』だ。でもそれ以上に俺は――化け物だから」


 赤き月の夜――あの日の惨劇の光景が目の前に広がる。そうして、どこまでもどこまでも深みに嵌っていきそうになっていたところに、コンコンと軽いノックの音が個室の中に響いた。アンラだと思って言葉も返さずにいたのだが


「あの……デュオンさん?」


 しばらく返事をしなかったからだろうか。不安げな声がドアの向こうから聞こえてきた。アンラよりも大人びた声。紛れもないエレナの声だ。


「すみません。アンラだと思って返事しませんでした」


「そうでしたか。てっきり先ほど何か怪我でもされてしまったのかと心配になりました」


 急いでドアを開けてエレナに応じると、彼女はサンドイッチの乗った皿をもってドアの前に立っていた。「あはは」と、気まずそうに笑う彼女は皿の乗った盆を片手に長い金糸のような髪をくりくりといじっている。恥じ入るような仕草のエレナに訝し気に応じるデュオン。エレナはそれに気付いて慌てて言葉を紡ぐ。


「いえ、あの……あれだけ大口叩いておきながら、お夕飯がこれだけになってしまったので……申し訳ないなぁと思いまして」


「夕飯の買い物ができなかったのは俺のせいじゃないですか。むしろ謝るのは俺の方です。あなたを危険に晒すこともしてしまいましたし、もう少し遅かったらあなたの方がけがでは済まないことになっていた。――本当にすみません」


「あ、謝らないでください!あそこから助けてくれたのもデュオンさんなんですから、感謝こそすれ責めるようなことはしないです!」


 頭を下げるデュオンにあわあわと手を振ろうとして、両手が皿の乗った盆で塞がっていることにもっとあわあわするエレナ。気の優しい彼女は、今日の出来事を受けてもデュオンを「化け物」としては扱わなかった。そのことにホッとする自分がいる。彼女を危険に晒しておきながら、そんな風に安堵をする自分に嫌気がでそうだった。


「それでも、あなたを危険に晒したのは俺だ。それは変わらない。あなたに危険が及ぶのなら、俺は今すぐにでもここを出ていく。だから」


「ま、待ってください!出てかないでください!お願いします!!」


 彼女が部屋を訪れる直前の底なしのような深みに再び嵌っていくデュオンだったのだが、出ていくと言葉を紡いだ瞬間大慌てでエレナはデュオンを引き留める。どこまでも自分を卑下し尽くす彼に対し、エレナは縋りついてまで彼を引き留めようとする。


「そんなに悪く思っているのなら、少し私とお話ししてほしい!……です」


「え?」


 エレナは顔を赤らめてそうデュオンにそうお願いすると、自分が彼に抱き着いている状態になっていることに気付いて慌てて離れる。デュオンは、彼女が言った願いに疑問しか浮かべることができない。


「何で……俺なんかと?」


 普段恐れられることしかされていないデュオンには、エレナの気持ちを量ることなどできなかった。エレナの方はといえば、自分がしてしまったことに対して顔を赤らめて「はしたなかった……」と呟き自分の行動を後悔するしかなかった。

 彼女が落ち着きを取り戻すのを待ちながらも、デュオンは先ほどの彼女の言葉の意味を考え続けていた。


「あの……もう大丈夫です」


「そうですか……それで、なんで俺と話なんか」


 彼にとってはそこが疑問でならない。しかし、エレナの方はその疑問の方こそ分からないと言いたげに眉をへの字にする。


「うーん……助けてもらった人――というよりお友達になりたい人とお話がしたいって不自然ですか?」


「いや、でも俺『魔人』ですよ?」


「そんなの理由になりません!むしろ私にとっては仲良くしたい相手です!」


「どうして?」


 エレナの考えていることが何一つ分からない。デュオンは困惑した表情でエレナの顔を見ることしかできなかった。そんな彼に、エレナは邪気のない無垢な笑顔を向ける。


「そういうことも込みで、あなたとお話がしたいんです」


 デュオンはその言葉を受けて、まぶしいものでも見たように目を細めた。輝かしいまでの彼女の笑顔を前に、デュオンの口は知らずうちに言葉を発する。もしかしたら彼自身、この言葉を待ち望んでいた。暖かなものが胸に広がっていく。彼女の言葉に、幾度デュオンは救われたのだろうか。


「俺も、話したいです」


「はい!」


「ただ――」


 声を震わせ喜びを露わにして応じるエレナ。自然と笑みがこぼれ出るデュオンだったが、エレナを彼の個室に通す前に、言っておかなければならないことがあった。


「その前にめちゃくちゃに放り出されたサンドイッチ……片づけましょうか。一緒に」


「あ」


 忘れ去られたサンドイッチ。デュオンに縋りついた際にエレナの手から放り出されたそれは、デュオンの個室の前で無残な姿となって広がっていた。


***************************************


 彼女自身で広げたサンドイッチの残骸だったが、もとの量がそう多くはなかったため片づけ自体はすぐに終えられた。問題はあれが夕飯として出せるほぼすべての料理だったということだ。もともと人の少ない田舎のこの宿屋では、たまに訪れる旅人に対して部屋を貸し出す程度。そのため、備蓄自体は彼女一人分を少し多めにした程度らしい。特に今回は買い出しを頼んでいた点からも察せる通り、買い足そうとしていた日だったらしく、それができなかったことからほとんど食料がないそうだ。

 一階のソファに埋まっていたアンラはデュオンよりも前にサンドイッチを受け取っていたらしく、デュオンのサンドイッチが無残な姿となった時点で彼女の胃袋へと収められていたようだ。


「それは……災難だったんだよ。せめてもの救いとしてあたしたちの荷物の中にある数少ない食料を食べるといいんだよ。……木の実しかないけど」


 ……食糧難はデュオン達も同様だったようだ。そういえばアンラが寝ながらいつも食べている好物のよくわからない木の実も、今日の昼にはつまんでいなかった。

 ともあれアンラから受け取ったわずかばかりの胡桃を手に部屋へと戻ったデュオン。しばらく待っていると、控えめなノックが響き、エレナが申し訳なさげな顔をしてドアから顔を覗かせた。


「すごく申し訳ないです……まさか貴重なお夕飯を放り投げてしまうなんて」


「いや、あの時はしょうがなかったんじゃないですか?俺もエレナさんも普通じゃなかったですし」


「でも、宿屋の一人娘にして現主人の私としては一生の不覚です……」


 しゅんとした表情を浮かべるエレナは手に持った自分のサンドイッチを備え付けの簡易テーブルにいつもよりもしっかりと場所を確認して置いた。大丈夫?大丈夫?と二度見三度見してからやっと息を吐く。そして、デュオンの前に小さな丸椅子を持ってきて簡易テーブルを二人で囲む。


「どうぞ……私の分のサンドイッチです。台無しにした分、デュオンさんが食べちゃってください」


「え、でも、エレナさんの夕飯はどうなんです?」


「私は、今回の不祥事をもちまして一回ごはん抜きの苦行を断行したい所存でございます!」


 妙に格式ばった言葉遣いが全然似合わないし、使い慣れてない感がすごい。

しかしまぁ、こうして厚意を示してくれているのだからそれを無下にするのも悪いだろう。デュオンはそう考えて、テーブルの上の大きめのサンドイッチに手を伸ばす。


「……ごくり」


「……」


 ものすごい見てる。ものすごい恨めしげな眼でデュオン手中にあるサンドイッチを見ている。


「…………ズビッ」


「……エレナさん?」


「ハッ……!?何でもないですよ?どうぞ遠慮なく、|無慈悲≪・・・≫に食べてしまってください!」


「……」


 満面の笑みでデュオンの追及を躱そうとするが、涎が口の端から漏れている。しかも無慈悲の部分で、遠回しにデュオンの良心をえぐっている。なぜその部分を強調するのか!何となくではなく、普通に心が痛い。


「……グギゅルるうゥ~」


「……」


「ん!んっん~!鳴ってませんよぉ!」


 お腹の音すら主張が激しい!もはや獣の唸り声だ。本人は何とかごまかそうとしているが全くできてない。むしろわざと鳴らしているのでは疑いたくなるほどだ。それでもすました顔で顔をそむけるエレナ。しかし、目だけは常にデュオンの手に持つサンドイッチから片時も離れない。


「じゃあ、一思いに食べます」


「う……そ、そうです!一思いに私を見捨ててください」


 良心の呵責に耐えられない。けれど、デュオンは自身のうちにあるこらえがたい不可解な欲求に身を任せて、そのままサンドイッチを口に運んでいく。タマゴを間に挟んだシンプルなサンドイッチだが、見れば見るほど食欲がそそられる。今はエレナのことを一切忘れ、一息に食べてしまおう。

 そんなデュオンの内心を知らず、もはや涙目で唇をかみ、悔し気に悲し気にサンドイッチの行く末を見守るエレナ。まるで捨てられた子犬のように、その姿は哀れだった。


「あ……あぁ……」


「……半分に割って二人で食べましょうエレナさん」


 デュオンの内に秘めたエス気質も、そのこの世の終わりのような表情を前に敗れ去る。完敗だった。彼女の一挙手一投足すべてが哀れに思えてならなかった。なにより、サンドイッチ一つでここまで我欲をあらわにするその姿勢に感服しさえしていた。

 こうして、デュオンに慈悲の手を差し伸べられたエレナは、それでも残ったプライドを総動員して――


「あい!」


 サンドイッチを目にも止まらぬ速さで二つに割り、素早く口に放り込んだのだった。まるで餌を前に待ての命令を解かれた獰猛な犬のように。建前すら忘れ去ったエレナもまた、サンドイッチという食欲を前に完敗したのだった。


 そうして半分に割った小さなサンドイッチをちょっとずつ摘まみながら、二人は向かい合っていろんな話をした。そのほとんどはデュオンが旅をした2年間の話が中心で、村から出たことのないエレナはそれを目を輝かせて聞いていた。世界地図すらまともに知らないエレナに、デュオンは手元にある地図を開いて場所を示しながら、エレナに今までの旅の話を続ける。


 雪の話。山の話。海の話。湖の話。草原の話。砂の海の話。


「まぁ、今話したことって、実は俺が本当に旅したわけじゃないんです」


「?どういうことなんですか?」


「いつも行先はアンラが決めていたので、俺自身が行ったことのある場所って少ないんです。今言った話のほとんどはアンラが言ったことそのままですよ。唯一、雪山だけは本当に俺の話です」


「じゃあ、雪山で魔物に襲われて、遭難しかけたっていうのは本当の話なんですね!」


「ええ。あの時はマジで死ぬかと思いました」


 そんな他愛もない話を続けて、デュオンの方から与えられる話題も尽きたところで、デュオンは覚悟を決めてずっと彼女に抱き続けてきた疑問を口にした。それは、2年間の旅の話からわざと抜いた部分の話で、今まで自分がされて当たり前だった扱いとは異なる答えを与えてくれた彼女にしか聞けないことだった。デュオンはその赤い瞳に彼女の姿を映して、何かに怯えるように疑問を言葉に変える。


「どうして俺なんかと仲良くしたいなんて思うんですか?俺は『魔人』……化け物ですよ」


 そんな不安げな姿を前に、エレナはむしろそれこそ分からないとでも言いたげに首をかしげる。その反応事態が、デュオンにとっては理解できない。自分が今まで受けてきた視線や態度に、そんな優しくて温かいものは一つもなかった。


「私としては、『魔人』だからって理由で冷たく接しなきゃいけない方がわかりません。それに、私としてはあんまりデュオンさんに自分を化け物だって責めてほしくないんです。それは、デュオンさんが本当は優しい人だっていうのもありますし、もっと言うと私の憧れが穢された気分になるんです」


「憧れ?」


 唐突にエレナの口から出てきた憧れの二文字。『魔人』と憧れの間には天と地ほどの差がある。共存しないその二つの単語に、デュオンは首をかしげることしかできない。エレナは目を細めて、不安に瞳を揺らすデュオンを、特にその右目の赤い瞳を愛おし気に見つめていた。


「こういうとあれですけど、私だって最初からこんな風に『魔人』に優しくしようなんて考えていませんでしたよ?」


「……でも、それが普通のはずです。むしろ『魔人』に優しくしようって思える人の方が異常者になってしまう」


「そんな悲しいこと、言わないでほしいです。『魔人』も、化け物じゃなくて立派な人なんですから」


 エレナの済んだ青空のような色の瞳は、一切の曇りなくデュオンを優しく見つめている。そんな優しい言葉を、視線をくれるエレナにデュオンは心から救われる。胸の奥からこみ上げるような多幸感に、叫びだしたいような嬉しさに包まれる。

だからこそ、デュオンの心の奥のそのまた底の方から、黒く、鋭く、冷たい言葉が木霊する。その言葉の呪縛は、デュオンを幸福感から引きはがし、つらい現実を自覚させるのだ。そんな心の内を見透かされないよう、デュオンはエレナから顔をそらす。

エレナの方も、何かには気づいていたようだが深く追及するようなことはしなかった。聞かれても、答えるつもりはあまりなかったが。


「私にとって、始まりはずっと昔――まだお母さんとお父さんも生きていて、三人で仲良く宿屋をしていた頃の話です」


 訥々とゆっくりと口からこぼれ出たようなエレナの声。デュオンはそれに黙って耳を傾ける。この話はエレナにとってとても大切な思い出で、ともすれば今の彼女を形作る最も大切な部分だと分かったから。膝に落とされた手の平は愛おしいものでも撫でるように、その手のひらを見つめる瞳は強い強い憧れの光を湛えていた。


「当時の私は、まだ幼くてかなりやんちゃな女の子だったんです。時々親の目を盗んで村の外へ出ちゃうような、困った子供だったんですよ。それがばれたりしたときは、泣いてもお母さんは許してくれなくて。お父さんも黙ってたんですけど、目は本当に怒ってました」


「それは当たり前ですよ。村から出るってことは、魔物も普通にいるじゃないですか。心配して当たり前です」


 村の外を出るということは、村を守っている結界外に出るということだ。低レベルの魔物であれば嫌がって寄せ付けない結界は、この世界で暮らしていくうえで必須なものだ。村人はこの結界からできるだけ外に出ないようにして生活をしている。生きていくうえでどうしても結界の外に出なくてはならないときは、魔物と戦うことができる傭兵を雇うか行商人がもつ簡易結界付きの馬車が必要になる。それでも魔物の被害は絶えないのだ。当時のエレナの両親の心を思えば、その心痛は考えるまでもない。


「今はそれも分かっているんですけど、やんちゃで子供な私にとってはよくわからないことの一つに過ぎなかったんです。どれだけ怒られても、やっぱりまた外に出ちゃいましたしね」


「恐れ知らずだったんですね……」


「はい。そうだったんです。お母さんにもお父さんにもそれで迷惑をかけたけれど、やっぱりこの行動がなければあの人たちに会えなかったんだって思うと後悔はしていないんです」


 苦笑して前髪をいじっているあたり、やはり少しは恥じているのだろう。それでも、顔を赤くしながら晴れやかにそう言ってのけるあたり、本当に彼女にとって運命的な出会いだったのだろう。


「その人に会った時も、私は一人で村を出ちゃったんです。この村の近く、道を逸れたところに少し開けた広場みたいなところがあるんです。そこは村の広場よりも日当たりがよくて、お昼寝するには最高の場所だったんですよ」


「……」


 村の外で、しかも昼寝をするという発想は、普通の人ならば浮かびもしない危険な行為だ。やるとすれば自殺願望者くらいのものだろう。それを幼い女の子がやっているのだから、もう少しエレナの両親はきつく叱ってやらなければいけないだろう。デュオンは、幼いころのエレナのあまりの豪胆さに驚きを隠せていなかったのだが、その運命の人物の登場が近いのか、鼻息荒くエレナは熱弁を振るっている。


「お昼寝しようとその場所に向かっていたら、大変なことについに魔物に囲まれてしまったんですよ。さすがの私も、お母さんごめんなさいって百回謝りました。先立つ不孝をお許しくださいと考えました。ですけど――颯爽と現れた黒髪の男の人が私を助けてくれたんです」


 黒髪の――と言ったあたりからもう目の輝きが、日光のようになっておりひどくまぶしい。ともすれば恋慕とも言い換えられるような執着ぶりだが、ようは彼女の危機を救ってくれた人物がいたということらしかった。


「大丈夫か?――て、こっちを振り返ってくれたあの人の顔は一生忘れません。だから、デュオンさんにも自分を卑下しないでもらいたいんです」


「……どういうことですか?」


 唐突に自分に話が戻って、デュオンは何も飲み込めないままそう返す。エレナは当時の彼女にとっての英雄に想いを馳せながら、満面の輝くような笑顔でこう続けた。


「黒髪黒目のその男の人の右目は、真っ赤な呪いの瞳でした」


「……」


 なんとなく、予想はついていた。彼女を助けてくれた人物。それが『魔人』であれば、彼女もまた『魔人』に対して偏見を持つことはなかったかもしれない。それでも、村の人たちに楯突いてまで『魔人』側に着こうとは思わないだろう。でもそれが――強い恋慕の情であったのならまた別だったのだ。彼女はあの時からずっとその『魔人』を思い慕っていたのだろう。彼女の窮地を救ってくれた英雄として。幼心にずっとその胸に抱き続けていた。だから、ここまで頑なに『魔人』を味方してくれる。デュオンは、エレナの話を聞いてそう確信していた。


「私を救ってくれたのは、ソールという名前の『魔人』だったんです。あの日、彼に出会っていなければ、今の私はいません。それは命という意味でも、今のこの宿屋の主人としてもです」


「『魔人』は化け物だって、当時のエレナさんは、両親から聞かされていなかったんですか?」


 そう尋ねると、「またそうやって暗い話にするんですから」と頬を膨らませて不満を露わにする。それでも、デュオンにとっては外せないことだった。それだけ、『魔人』という存在が世界に与えた影響は大きい。エレナはデュオンのその質問に、不服ながらも簡潔に答える。そこは主題じゃないとでも言いたげに少し棘を含ませて。


「聞かされていますよ。『魔人』は世界を滅ぼしたとか、国一つを平気で潰し、顔色一つ変えずに村を壊し、笑いながら人を殺すとか。まぁそんな恐ろしい話を聞かされました。子供に聞かせるにしては少し生々しすぎるものを」


 そう言ってのける彼女は、少し悲しそうだ。自分の両親でさえ、そんな偏見を持って『魔人』を語っていたのだから。


「じゃあ、どうして『魔人』にそこまで優しくしようって思えたんですか?そのソールって『魔人』に助けられたからですか?それなら――」


「それだけじゃありませんよ」


 短く、端的にデュオンの言葉を否定する。それだけではないと否定する。しかし、その言葉には少し切なさのようなものも含まれていた。


「たぶん、私の話ぶりからも分かることでしょうけど、幼いながらもそのソールってひとに私は恋をしていました。年の差はやっぱりありましたけど、それでも当時のソールさんは今のデュオンさんと同い年くらいなので頑張れば何とかって思ってました。

とにかく胸がドキドキして、体が熱くなって――今でも思い出すと少しドキドキします。けれど、そんな恋心はものの数分で終わってしまったんですから、儚いですよね」


「え……どういうことですか?」


「ソールさんは、もう結婚してたんです。デュオンさんと同い年くらいですよ?早すぎると思いませんか?かっこよかったから当然なのかもしれないですけど。

森でわたしを助けてくれた後、村まで送り届けてくれた彼でしたけど、そこには彼の奥さんがいたんですから。わたしもびっくりしてしまって」


「そんな……まさか!?」


 ありえない。あり得るはずがない。『魔人』と……結婚?

そんなことを考える人がいるはずがない。ありえない。まさかこの世界で『魔人』の恐ろしさを知らない人がいるわけがない。自分の名前と親の名前の次に憶えてもおかしくないことのはずなのだ。それなのに――


「まさかそのソールって人はその人を騙しているんじゃ」


「デュオンさん、いくら何でも私が怒りますよ!憧れのソールさんをそんな風に貶めるのは許しません。それに、ルナさん――あ、奥さんの名前ですけど、彼女とソールさんの姿を一度でも見たら、そんなことは頭の片隅にも浮かびやしませんよ。それで私も敗北を確信したんですから。幼心に短い恋の争いでした。泣く暇すら与えられませんでしたもん」


 語るその横顔は清々しいほどに吹っ切れた笑顔だった。ともすれば今まさにその恋の駆け引きをしていたのではと思えるほどに、情感に溢れた表情を浮かべていた。思わずデュオンもその胸の内を直接掴まれたような痛みを覚えるほどだ。


「ルナさんは、九尾族っていう狐の一族で青い髪と尻尾が綺麗な可愛い人でした。そのソールさんとルナさんの夫婦を見ていると、私、『魔人』だってこんなに優しく人を愛せるんだって。『魔人』だって知っていても、その人をこんなにも一途に愛せるんだって知って。ソールさんとルナさんに憧れたんです。

いつか私もこんな風に人に優しくありたいって。いつか私もこんな風に一途に人を愛せるようになりたいって。そう、二人と約束したんです」


 拳を握りしめ、かつてそこに手を重ねた二人のことを思い浮かべて、エレナはデュオンを見つめる。その瞳には、強い決意の光が宿っていた。何物にも動かされない、絶対的な強い思い。どんな言葉にも屈しない、昔日の約束。それが、これまでの彼女の日々を物語っていた。


「その時、私のお母さんもお父さんも、二人を宿には泊めてくれませんでした。私が、魔物からこの人たちが救ってくれたんだって言っても信じてもらえなくて、一方的にソールさんを貶して、ルナさんを異常者扱いして、そんなお母さんたちを前にして私は悲しかったんです」


 幼子にとって最も信頼する両親が見せる、彼女の憧れを黒く黒く塗りつぶすような罵声は深く彼女を傷つけただろう。


「だから、二人が村を後にするとき言ったんです。今度は私が二人を宿に泊めるんだって。二人がまた村にやってきたとき、笑って迎えられるように。私は、『魔人』でも笑顔になれるような、『魔人』でも好きになってくれるような場所を作るんだって」


 それでも、彼女は折れなかった。彼女の中の『憧れ』は一切色褪せることなくその胸に息衝き、今でも彼女の心に火をくべている。彼女の信念は何一つ変わらず、こうして現実になっている。


「それだけは、ずっと変わりません。だから、お母さんとお父さんが二人とも死んで、たった一人で宿を継いで、寂しくて悲しくて苦しくても、私は諦められませんでした。

私にとって、お母さんは一人。お父さんも一人。支えをすべて失って絶望したけど、それでもあの時、ソールさんとルナさんっていう『憧れ』がいたから。二人との約束があったから。こうして今も私は宿屋の主人でいられるんです」


 すでにその彼女の語った約束は半分叶えられている。なぜならデュオンは彼女に心から救われた。2年間の旅路で彼女のような人には会ったことがないのだから。このエレナの宿屋の戸を開いたとき、デュオンの目を見て優しく笑ってくれた彼女をデュオンは忘れない。

忘れられなかった。忘れたくないと思った。

――だから、強く守りたいと望む。それが彼にとって何よりの「呪い」の言葉だとしても。


「――ありがとう」


 胸のうちで溢れる気持ちは、幾ばくか。そのすべてを言葉に変えて、エレナに伝えたいのに、どうにも言葉にならない。喉につっかえて苦しいほどの感謝なんてあるのだろうか。伝えきれないことが苦しいなんて、知らなかった。


「ありがとう――」


 そう何度も感謝の言葉を伝えることしかできなかった。エレナは、デュオンのその悲鳴のような感謝の言葉に驚いてぎょっとしていたが、やがて膝の上で重ねられていた両手を胸に抱き、口端を上げて、涙を浮かべて言うのだ。


「私も、憧れを叶えてくださってありがとう、ですよ」


 一滴の涙が頬を伝って、お互いに感謝するばかりだった。

蝋燭の明かりで照らされた部屋の中、夜も更けた一室で二人の感謝の声はずっと聞こえていた。その声を聴いていたのは、一階で寝息を立てていた振りをする白くて黒い魔女だけだった。


切りどころが早かったのでちょっと長めになってしまいました。

次回から話が動きます……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ