1章1 『お使いすらまともにできなかった』
「出ていけぇっ!!」
白い雪が村の屋根を染め上げたその一角。そこまで栄えているわけではない田舎の小村。その村の長い通りに開かれる市で、野太い男の怒声が響き渡る。その声のあまりの大きさに、通りを過ぎ行く人までもが奇異なものでも見るような視線を投げかける。その視線の先では、顔を赤くして睨み付ける店主と怒りの矛先を向けられる一人の青年が手を左右にあわただしく振って店主を落ち着かせようとしている。
「いや、だからこれは俺の買い物じゃないからそんなに目くじら立てなくてもいいって言ってるだろう」
「お前みたいな輩にやるようなものは一つもねえ!お前に買い物頼むようなイカレタ野郎にはもっとだ!!」
「そんなこと言うなよ。この村の同じ住人だろうあの子は?」
「……『魔人』を宿に泊めるなんて何考えてやがんだ!殺されたいのかよ」
そんな口論があたりに響き渡る。大柄で色黒の店主は、忌々しいものでも見るような目つきで青年を睨み付けたままだ。青年はしかし、そんな視線を意に介さずに店主と交渉をしている。背の高い彼は赤い外套を身にまとい、その面を隠すようにフードを目深にかぶっている。そんな二人に対し、周囲の人間は訝しげに目を向けながら立ち去っていく。
「とにかく、これは宿の人に頼まれた品なんだ。俺はともかく、同じ村の住人としてあの気の優しい姉ちゃんに迷惑はかけないでくれ」
「……何度言われようと」
何度怒声を張り上げようと食い下がる青年に店主は低い声で応じる。その声はもうただの怒声ではなかった。
「『魔人』にやるようなものはねえ……とっとと失せろ!」
憎悪と怨嗟に満ち満ちた声。しかし、握りしめた手は少し震えている。恐怖をかみ殺して、それでもなお店主は青年の願いに応じない。その店主の醸す負感情に、青年はもう何も言い返せない。フードの奥で、空しく言葉をかみ殺す。
「お前ら『魔人』は化け物だ。今すぐにこの村からでていってもらいたい。お願いだ」
「――――」
店主の言葉は、いつしか懇願に代わっていた。今ある平穏さえ守られれば。その願いをただただ痛切に口にする。その姿を前に青年は、言葉もなく背を向けるしかなかった。フードの奥の表情は見えない。それでも足早に店の前を去るしかなかった。
村の中でも最も人通りの多い商店の中、幽鬼のように赤い外套が雪道を歩む。道を行く村人はその青年を歯牙にもかけずに避けて進もうとするが、フードの奥に隠れた顔を見ると恐怖に顔を歪ませて走り去っていく。おかげで帰りは人通りの方がよけて帰りやすかった。それなのに、行きよりも少し長い時間をかけて帰路につく。帰り着いた宿の先、ドアを開けて中に入ると青年は力なくその場に頽れて――
「おつかいすらまともにできなかった……」
そんな絶望感に苛まされるのだった。
「ずいぶん悲しんでるように見えるのに、言葉だけ聞くと子供のおつかい程度に聞こえる不思議なんだよ」
呆れた声で背の低い女性が青年に応じる。彼女の名前はアンラだ。新雪のように美しい白髪を無造作に長く伸ばした女性で、肌も白磁のように美しい白で儚い雰囲気を漂わせている。しかし服装は真っ黒でだぼっとした魔女服を身に纏っており、彼女がもとから持っている白い美貌をだぼっとした野暮ったい黒い服が台無しにしている。白と黒のコントラストを上手く生かせていないアンラは、ソファにぐでっと横になりながら青年になおも言葉を続ける。
「これで何回目なんだよデュオン。新しい村に着くたび住人と関わろうとするけど、君はどえむか何かなの?」
「そんなわけないだろ!誰も好き好んであんなひどいこと言われたかないよ!」
声を荒げて青年――デュオンは彼女の言葉を否定する。すると、そんな彼の声に気付いたのか宿の奥の部屋からぱたぱたと誰かが駆け寄ってくる音が響いてくる。それに気付いたデュオンは赤い外套を脱いでその人物を迎える。
「あ、デュオンさんおかえりなさい。頼んだものは買えましたか?」
「申し訳ないですエレナさん――この通りです」
デュオンは力なく両の手の平を上げて何も買えなかったことを示す。それを目にしてエレナはありゃりゃと手の平を額に当てる。
「やっぱり……駄目でした?」
「駄目でした……」
それを前にデュオンもエレナも悲し気に目を伏せる。ソファに腰掛けるアンラはため息をついて物申す。
「言っておくけど、エレナ君みたいな奇特な人はそんなにいないんだよ。『魔人』を前に、その赤い瞳を前に友好的に接してくれる人がいたなんて、あたしとしては目から鱗だったんだよ」
「そうですか?」
「ああ。アンラの言ったことはその通りですよ。俺だってエレナさんの俺への態度には驚きました。だからこそ、この村ではそんな人がまだいるんじゃないかって期待したんですけど……甘かったみたいだ」
首をかしげて疑問を露わにするエレナに対し、デュオンは薄く笑って応じる。彼女はあまり疑問に思っていないようだが、この世界でデュオンにそんな表情を見せてくれる人はほぼいないに等しい。だからこそデュオンは、彼女のそんな毒気のない無垢な反応に感謝を捧げずにはいられない。もっとも、そこのソファで横になっているアンラは別の方向で感謝をしていそうだが。
「本当、エレナ君がいてくれて助かったんだよ。何か月かぶりにふかふかのベッドで安らかに眠れるし、シャワーで汗も流せるなんて……エレナ君は天使なんだよ」
「いえいえ。私は宿屋の主人なんですよ?
泊まりたいって人がいたらその日一日安心して眠ってもらう場所を提供するのが仕事です!そんな当たり前のことをしただけなんですから、そんなかしこまらないでください」
彼女のその言葉を聞いて、デュオンもアンラも笑みを浮かべずにはいられない。そんな当たり前のことを、当たり前にしてもらえないことの毎日だったのだから。
「本当、感謝してもしきれない――ありがとうエレナさん」
「もう!だからそんな感謝しなくてもいいって言ってるのに……。そんなことより、デュオンさんが買ってこれなかった食材もどうにかしないといけませんね。急いで買ってきますので、二人はこのままくつろいでいてくださいね!」
デュオン達二人の態度にあわあわと手を振って困惑する彼女だが、すぐさま次の仕事を確認すると、部屋の奥から防寒具を取り出して慌ただしくドアから出て行ってしまった。おつかいすら満足できなかったことに身につまされる思いを感じながら、デュオンはアンラが寝転ぶソファの反対側の椅子に腰かける。
「今回はエレナ君の心の広さに助けられたんだよ。今後もこんなことがあるとは限らないから、彼女との縁は大切にしていきたいんだよ」
「そんな打算的な……」
「デュオン、君は少し優しすぎるんだよ……今まで君は不当な差別を受けてきたんだよ。エレナ君みたいな人は、きっとそう多くない。利用できるものの少ない私たちは、それに縋ってでも生きなきゃならないんだよ」
「……」
「それが、私たちがあの日誓ったことを成し遂げるための最短の道のりなんだよ」
「分かってる」
今でも覚えている。赤い月の夜。黒い竜。たくさんの死体。忘れられるわけがない。忘れるものか。いつか必ず竜に復讐する。そのための――アンラとの誓いだ。ソファで寝転がってだらけるアンラからは、そういった覇気は一切見られないが、あの日の誓いがあったからこそここにデュオンは立っていられる。
「必ず、《悪竜》には復讐する。そのための旅なんだから」
「まぁ、あの日以来《悪竜》が竜の巣に引きこもっちゃって、今どこにいるのか全く分からなくなっているんだけどね」
「そのための旅だろ?あの日からもう二年くらい経っちまったけど、いまだに音沙汰がないってことは被害もないってことなんだからいいことだろ?」
すでにあの日から二年の月日が経っている。ソファに腰掛けるデュオンは、この二年間の日々に少し思いをはせる。長いようで短い二年。今までほとんど故郷の村から出たこともなかったデュオンにしてみれば、外の世界は新鮮なことだらけだった。彼が特に驚いたことは、雪が存在しない地域があったということだ。彼女との旅で雪に閉ざされた故郷を出た彼は、何度もそんな光景を目にしてきた。緑の木々が生い茂る場所。砂だらけの熱い場所。いまだに見たことはないが、海という広大な水たまりも存在するらしい。そんな旅も、何も楽しく新鮮なことだけではなかった。
「確かに《悪竜》事態の被害はないかもしれなんだよ。でも、あいつが生み出す魔物の被害はいまだに継続中なんだよ」
「確かにな。ここまでの道中もなかなか魔物が多かったし、危険なことには変わりないか」
「一匹でも多く魔物を倒さないと、《悪竜》が起こした悲劇を本当に止めるなんてことできないんだよ」
アンラとの旅の主な目的は《悪竜》への復讐だ。だけど、それだけのために旅をしていたわけでもない。《悪竜》が生み出すものの一つに、魔物がある。それはこの世界の危険の一つだ。ただ人を殺すことにのみ関心を抱くもの。それが魔物だ。それを倒して回るのもデュオン達の目的の一つだ。
「まぁ、俺がそれをしたところで何も変わらないのは分かってるんだけどさ」
そのデュオンのつぶやきはひどく無力感に満ち溢れていた。二年間の旅の成果。それは、彼の胸に鈍く鋭く傷を残している。アンラはそれを見つめていながら、何も言うことなく寝転がっている。デュオンは右手で右の眼を覆う。まるでその部分をむしり取ってやりたいとでも言いたげに。赤く輝く瞳は、今は何も言わずそこでその存在を眠らせている。
「ちょっとまた外に出る。エレナさんを手伝えるかもしれないし」
「分かったんだよ。あまり村人を刺激しないようにするんだよ」
それだけをアンラに伝えるとデュオンは立ち上がって再度赤い外套を身に纏う。アンラは特に何を言うでもなく、それだけを伝えてデュオンを見送る。デュオンがドアを開けその背中が半ばまで見えなくなったところで、アンラは小さくささやくように、デュオンには聞こえない程度に呟くのだった。
「あんまり、悲劇の主人公気取らない方がいいと思うんだよ」
アンラの声は、デュオンには届かない。その言葉を伝えられるほど、彼女はデュオンに辛辣になれなかった。なぜなのか。それはもう彼女の中でも答えが分かっていた。
「あたしも人のこと言えないんだよ……」
ひどく悲しげに瞳を伏せて、アンラはその背中を見送った。