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1章12「赤き瞳の化け物」


 赤い光が煌々と地上に降り注ぐ満月の夜だった。


「なんなんだよ……これ」


 目の前に広がるのは降り注ぐ血の雨と阿鼻叫喚の地獄絵図だ。

誰もかれもが悲鳴を上げて逃げまどい、その端から順にただの肉塊へと変わり果てていく。


 暴虐。殺戮。惨劇。

 理性のないただ純粋な暴力による惨たらしい結果が、次々と現実となって降りかかる。

血煙をあげ、首が飛び、腸が飛び出し、脳漿が飛び散る。

言葉にして伝えることができないほど人を辱めるその殺し方。

こんなことが人間の手によってできようはずもない。


「いったい……何が起きてんだよ」


 目の前には丸ごと一つの山かと思えるような巨大な体。

黒々とした鱗に覆われたその体表は蛇のようでありながら、しっかりと太い凶悪な手足が生えている。

この世においてその生物を表す言葉は一つしかないだろう。それはまさしく龍だった。

その手足がハエを振り払うように軽く振るわれるたび、人の命が刈り取られていく。まるで人間が地面の蟻を手遊みに潰してしているかのようだ。

それは一方的な虐殺だった。戦いにすらならない。

呆然とその光景を見ることしかできない少年は、ぼそぼそと現実逃避の言葉を漏らすことしかできなかった。

少年にとっての故郷が、瓦礫と死体の山へと変貌していく。

ともに笑いあった大切な家族が。友人が。村人が。

一人残らず殺しつくされていく。

勇敢にも龍に立ち向かったものは早々にひき潰されて死んだ。

その光景を近くで見ていて、動けずへたり込んでしまった人はその首がなくなった。

悲鳴を上げて逃げまどうことができた人は、しかしすぐさま巨大な手足の下敷きとなった。

今も龍は逃げまどう人を追いかけ、戯れるように村人を殺していく。


「かあ……さん?とう……さん?」


 少年の近くには、首から上のない父親の死体。そして、肩口から爪で抉られたような傷を負う母親が横たわっていた。


「……なさい」


 まだ息がある母親。しかし、その声はすでにひゅうひゅうと風が抜けたような音を立てて弱弱しい。

今まさに命の灯が消え去ろうとしている。しかし、少年は首を横に振る。


「いや……いやだよ、母さん」


「お…がい……げて」


 言葉も切れ切れで何を言っているのかわからない。

母は必死に少年に何かを訴えかけるが、何を言おうとしているのかまるで分らない。

今まさに消えゆこうとしている母の命を前に、少年は膝から頽れる。

救いはないのか。これだけの惨劇を前に、何の抗うすべもないのか。

少年の目の前に横たわる真っ暗な絶望は刻一刻と少年の身にも迫っている。

黒い鱗の龍は、新たな遊び道具でも求めるように周囲に目を向ける。

そして、その瞳が真っすぐと少年のほうへと向けられた。


「あ……」


 その瞬間、龍が笑ったように見えた。新しいおもちゃでも見つけて心を弾ませるように。

そして、少年の心からは一切の雑音が消えた。すべてが黒く黒く塗りつぶされたような絶望。

もう立てない。逃げることも抗うこともできない。このまま母と同じように、父と同じように。まるで人の形を成さない肉塊へとなり下がるだろう。

そう思うと、笑いがこみ上げてきた。どうせ死ぬのだ。もう助からないのだ。

限度を超えた恐怖と絶望で少年の喉からは渇いた笑いがこみ上げる。

もう助からない。救いはない。死ぬ道しかない。希望はない。絶望しかない。何もない。


 ――そう思って最後を迎えられれば、いくらかマシだった。

少年へと目を移した龍の視線が、不意に別の場所へと向けられた。

そこにいたのは少年と同い年くらいの少女だ。少年と同じく龍に怯えて縮こまって動けないでいた少女だった。


「……シータ?」


龍の視線から逃れた少年の口から出たのは、その少女の名だった。シータと呼ばれた少女は目尻から涙を流して震えていた。龍は何の気まぐれだろうか、少年よりも怯えて蹲る少女の方へとかま首をもたげ、腕を振るおうとする。それを目の当たりにした瞬間、少年の中に形容しがたい何か熱いどろどろとしたものが溢れた。


「嫌だ…‥やめろ!やめろよ!」


少年の声が燃え盛る村の中に響く。しかし、龍にもシータにもその声は届かない。少年の心はその時点でもう壊れていたのかもしれない。もう正常な判断力なんて機能していなかったのかもしれない。だけど、その時少年はこう叫んだのだ。


「俺の大事なものをこれ以上奪うな!大事なもんは、全部全部俺が守るんだ!!」


少年は獣のような咆哮を上げる。


「父さんも母さんも死んだ。何も守れなかった!けど、もう失いたくない!俺からシータまで奪おうとするんなら俺はお前を殺してやる!呪ってでも殺してやる!!」


叫びを上げ、顔を上へ向けると血のように赤い月がこちらを覗いていた。


(赤い月をよくみておきなさい……。)


不意にそんな声が頭の中に響いた。女性の声だ。ひどくこちらを慈しむような声で、囁くようにこちらへと語りかける。その声が頭に響く間、まるで時が止まったかのように周りの景色が変わらない。だから、少年はその声に耳を傾け続けた。


(その目に焼き付けておくんだ)


今度も女性の声だ。けれど、前とは別の男勝りな自信に満ちた声だ。女性にしては低く、けれど前と同じく優しげな声音でこちらに語りかける。


(それが、あなたの罪となり、刃となる)


再び声の質が変わる。最初の声とも二つ目の声とも違う。艶かしい雰囲気を伴った声でひどく蠱惑的な声だ。怪しげではあるが、それでもこちらを慮るような優しさだけは変わらない。


(――もう大事なものを失くさないように。)


(――お前が望む世界を手にするために)


(――守る意思を貫くために)


3人の女性がこちらへと順に語りかける。その声は、この語りかけが終わりを迎えようとしていることを暗に告げていた。


(赤い月をよく見ておきなさい。あなたがこの日を忘れないために、私たちが罪となり刃となりましょう。)


 その最後の言葉が、ゆっくりと少年の胸に落ちていく。自身の目に、燃え盛る炎と夥しい血肉に彩られた村と怪しく輝く赤き月の光景を焼き付けて。

 その瞬間、少年の右目が怪しく輝きだす。両目とも綺麗な灰色の瞳をしていたにもかかわらず、その右目は怪しい赤い色を放っていた。その変化に少年は気づかない。内から沸き上がる力の奔流に逆らわず、本能の赴くまま竜へと飛びかかる。その眼にはもうシータも村人も映っていない。ただあるのは目の前の悪竜に対する憎悪だけ。

 竜もその変化に気づいてシータに振り上げていた腕を止める。そして、今までにない速さで長い首をこちらへと向ける。その目が向かってくる少年を捉えた。いつの間にかその手には禍々しい黒い槍が握られていた。


「うああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」


 雄たけびを上げた少年に、竜もまた咆哮を返す。聞いたものが震えあがってへたり込むほどのその咆哮に、しかし少年は臆することなく竜へと向かう。竜もそれに不快感を示したのか、その口腔を開いて少年を噛み砕こうとする。赤く赤く輝く瞳は、少年に何かを訴えかけるようにその輝きの度合いを変えていく。そのたびに少年が身にまとう黒き気配が増していく。

 そして、少年の槍と竜の咢がぶつかった瞬間。黒き槍はその瘴気を竜に向けて伸ばしていく。対して竜の咢は少年を噛み砕くことなく空を切った。激突の瞬間、竜の鼻先へと移動した少年は、そのまま槍を鼻面へと突き立てる。これだけなら竜も怯むことはなかっただろう。だが、少年の顔に浮かんでいたのは憎悪に支配された狂笑だった。次の瞬間には、少年の周囲に数え切れないほどの黒き槍が浮かんでいた。その数は数えることすら億劫になるほどの量だ。その一つ一つに先ほどと同じく黒い瘴気がまとわりついている。鼻面に突き刺さった槍は、その黒い瘴気を竜に向けて放ち続けている。

 竜はこれに臆することもなく再び少年を食いちぎろうとするのだが、しかしそれは叶わなかった。果てしない槍の雨が竜に降り注ぐ。それだけなら竜も恐れなかった。しかし、黒い瘴気は竜から活力をどんどん奪っていく。それはまるで命を穿っているかのようだ。

たまらず竜は翼を使って飛び上がる。その間も少年の攻撃は続く。黒い瘴気が次々に竜へと襲い掛かるが、しかし空を飛ぶ竜は高く高く舞い上がるとそのまま夜空の向こうへと消えてしまった。あとに残されたのは、赤く輝く右目を持った少年一人。その輝きも、竜が去ったことで収まり始めていた。


「……ははは」


 それから少年に沸き上がってきたのは渇いた笑みだった。竜を退けて救った命。その数は多くない。自分が力に目覚めて黒い槍を振るった頃には、生きている人数より死んだ人数の方がずっと多い時だった。


「もっと早くに……助けてくれればいいのに」


 出る言葉は恨み言ばかり。言わずにはいられなかった。父も母も殺された。それを黙ってみているしかなかった。仲の良かった村人たちも無残に死んだ。それを茫然と眺めていることしかできなかった。そうして手を差し伸べてくれた誰かを責めて、不甲斐ない自分を責めていなければこの場を乗り切れそうになかった。

 そうしてひとしきり自分を責めた少年は、ハッと周囲を振り返る。少年が助けた命は確かにあるはずだ。救えずに死んでしまった人は多い。けれど、確かに救った命はあるはずなのだ。あたりを見回すと、茫然と立ち尽くす村人や座り込むシータの姿が見えた。その目はこちらを見つめて固まっている。


「……シータ」


 何がなんでも助けようとした命。失くしたくないと思った大切な絆。その確かな存在を目にして思わず涙が溢れそうになる。逸る気持ちを抑えられずに少年はシータの許へと駆け寄ろうとする。しかし、


「ひっ……!?」


 シータの口から漏れ出たのは、なおも怯えを秘めた声だった。しかも、それは少年を見つめていながら漏れ出た言葉だった。


「……え?」


 なんで?どうして?何に怯えて?

少年は混乱に陥る。どうしてそんなに怯えた表情でこちらを見るのか。どうしてその手にはガラス片が握られているのか。どうしてその怯えきった弱弱しい殺意をこちらへと向けるのか。そして、どうして助けたはずのシータからそれを向けられるのか。


「な、なんで……」


「近寄らないで!化け物!!」


「……っ!!」


化け物?

少年はシータからのその言葉にたじろぐ。燃え盛る炎の村の中。少年に向けられたガラス片の刃。そこに映し出されたのは、少年の右目に宿る赤き瞳。それを見て少年ははじめて自分の変化に気づく。この訳の分からない力の正体も。そして、自分がどんな存在に変化してしまったのかさえも。


「そんな……俺はみんなを守りたくて!」


「ひぃっ……!」


 少年が声を荒げるだけで、少女は恐れおののいて腰を抜かす。少女から見て、今の状況は先ほどと何も変わりはない。少年と龍の存在は、少女にとって同じく恐怖の対象でしかなかった。それは、他の生き残った数人も同じだった。少年が助けを求めるように目を向けるも、同じように悲鳴を上げるだけ。少年はその様子から、自分がもう救いようのないほど「化け物」なのだと分かって。


「ただ……俺はみんなを守りたかっただけなんだ!!」


 そう叫び続けることしかできなかった。龍に向かった時とは異なるものとの対峙。孤独との対峙。「化け物」はそう叫び続けることで必死に孤独と抗っていた。しかし、所詮は「化け物」の遠吠えだった。その言葉が誰に響くこともない。抗って抗い続けて。しかし、運命は無情に「化け物」を切り裂いていく。


 どさり、と重いものが倒れる音が周囲から連続して響く。


どさり。どさり。どさり。どさり。


 それは何か重要なものが次々と零れ落ちていくような音だった。

零れ零れて飲み込まれて。次々と音は炎の中に消えていく。


「何なんだ……?」


「化け物……あなたのせいだ」


「え?」


 目の前の少女――シータが怯えたような弱弱しい声で、怨嗟を込めた低い言葉でこちらへと語りかける。どこまでも暗く淀んだ瞳に見据えられ、少年は腰を抜かす。


「化け物のあなたが私たちを殺すんだ。助けた?笑わせないで。あなたは誰よりも。何よりも人の命を奪う『化け物」じゃない」


 怯え切っているのに、狂ったように擦れた声で笑うシータは、その瞳の暗い光をこちらへと向けて――


「そうでしょう。赤き瞳の化け物。『魔人』だったあなたは、ずっと私を騙していたんでしょう。あなたは誰も救うことのできない化け物でしかない」


 ゆらゆらと揺れる姿は炎のようで。弱弱しい人の姿でありながら、少女はすでに幽鬼となり果てていた。そして、その少女の姿からも不意に力が抜ける。どさり、と大切な何かが零れだして炎に飲み込まれる。


「あなたが呪うように。わたしもあなたを呪うわ。――デュオン」


 その言葉を最後に、少女は息絶える。外傷も何もないのに。命だけがそこから刈り取られていた。その命が新たな時を刻むことは二度とない。その悲劇を前に少年――デュオンは


「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 悲痛な叫びをあげる。

そしてこれが、この世に一匹の「化け物」が生まれた、その瞬間だった。

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