プロローグ 『赤き月の夜』
たった一つの目的のため 何も見ない日々は楽だった
たった一つの願いのため 何も顧みない日々は楽だった
たった一つの現在のため 何も願わない日々は楽だった
あなたと出会って 苦しい日々があることを知った
あなたと歩んで 悩ましい日々があることを知った
あなたと話して 悲しい日々があることを知った
あなたと語る過去があることは 一人で何も見ない日々より 優しく
あなたと歩む現在があることは 一人で何も顧みない日々より 甘く
あなたと望む明日があることは 一人で何も願わない日々より 嬉しかった
そして そう思う私の存在が 何よりも悲しかった
それが たった一つの願いの果てに 叶わぬことと知っていたから
私は化け物 世界を憂鬱なる運命に貶める 罪深き天使だから
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赤き月の光が、燃え盛る村の中に降り注ぐ。
劫火になめ尽くされる村の中。おびただしい数の血肉がそこら中にぶちまけられていた。
首から上のない死体。体の中身が漏れ出てしまった死体。もはや人の形を成さない死体。地面に赤黒い染みしか残せなかった死体。死屍累々とした鮮血の悲劇の舞台で、少年がたった一人声にならない悲鳴を上げる。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
親しく言葉を交わしてくれた村の大人たち。
毎日笑いながら遊んでくれた同い年の友達。
顔を合わせぬことなどなかった父と母。
そして、言い合ってばかりだったけどいないことなど考えられなかった幼馴染。
みんなみんな死んだ。今まで俺の身近にいた人々すべてが、この日このときすべて失われた。
どうして?
なぜ?
そんな疑問に答えてくれるものなどいない。そもそれをした者に理由を問うても無駄だろう。その虐殺を行った犯人は、今まさに空の彼方へと消えた。黒き龍は、燃え盛る村だけ残して夜の闇へと消えていった。理性無き魔物である黒き龍にその所業を問いただしてもただただ空しいばかりだ。
すべてが黒龍のもとに葬り去られ、あとに残されたのは少年たった一人。自分だけだ。
死体と瓦礫だらけの炎の海で、少年は掠れた潰れてしまった声になっても悲しい咆哮を上げ続けることしかできなかった。どうにもならない現実に絶望し泣き叫ぶ彼の腕には、一人の少女の亡骸が抱かれている。少女の体はだらりとしており、力なく揺れ動く腕からは一切の生気が感じられない。完全に息絶えてしまっている。外傷もなにも全くない。まるで中身の砂だけを抜き取られた砂時計。時を止め永遠の美しさを約束された人形のような――死体だった。
「どうして……!なんで……!俺はただみんなを守りたかっただけなのに!
……こんなこと……望んじゃいなかったのに!!」
目の前の物言わぬ人形に縋りつき懺悔するその姿は、傍から見ていてあまりに痛々しい。胸を突くような痛みの光景の中心で、なおも少年は嘆き苦しむ。
もし世界に神がいるのだとすれば、こんな現実はあんまりだ。
大切な村も、人も、思い出も――すべて奪っていった。それを黙ってみていられない人間なんていないのに、それすらも許されない。胸を締め付けるような痛みに吐き気がする。こんなに苦しいならいっそ俺も殺されてしまう方がよっぽど良かった。あの黒龍の咢に食いちぎられるのでもいい。前足の爪でえぐり殺されるのでもいい。踏み殺されたってかまわない。こんな……こんな残酷で辛い気持ちを味わうのなら生き残りたくなんかなかった。自分だけ生き残って生きていきたくなんかなかった。――みんなと一緒に消えてしまいたかった。
「君は……」
胸の底からどろどろとした気持ちの悪い負感情を溢れさせ、世も運命も自分すらも恨まずにはいられないその少年の慟哭に、小さく静かに声を漏らす人物。
それは白と黒の魔女だった。雪のように白い髪と肌。目鼻立ちは綺麗に整っており、まるで雪の精のような美しさを湛えている。しかし、それを黒いだぼっとした魔女服で台無しにしている美しい女性だった。
少年のその姿に眉を顰め、静かに尋ねる彼女の声音はいたわしげで優しい。けれど、少年の眼光は険を孕んだ厳しい視線で。すべてに対して憎悪を露わにすることしかできない。その少年の右目は今も微弱に赤い輝きを放っている。
「君は……!?」
その赤い輝きを見て、魔女もこの惨劇に合点がいったように声を上げる。なぜ、こんなにも悲痛な叫びをあげて嘆き悲しむ少年がここにいるのか。どうして、彼だけがこの村で唯一の生き残りになったのか。すべてその赤い瞳が十分すぎるほどに説明してくれていた。
「そうか……」
少年の射貫くような視線は変わらない。
すべてを奪った竜を憎み、過酷な運命を課した世界を恨む。そんな暗澹とした瞳の奥で、ゆらゆらと揺れる深い後悔と自責。それは竜よりも世界よりも、それ以上に自分を恨んでいるような瞳。あまりに弱く脆い姿で自分を責め続けるその姿に胸を穿つような痛みが襲う。だから、深く抱きしめて一人じゃないよと語り掛けるような気持ちで、魔女は怯える少年に話しかける。
「悪竜が憎い?」
少年はその質問に、迷う素振りすら見せず首を縦に振る。
当たり前だ。自分を犠牲にしてでも、必ず竜に復讐を果たす。憎くて恨めしくてたまらない。大切なものを根こそぎ奪っていった龍を許すことは一生できない。復讐を果たすことができるなら、すべてを擲つこともできる。今この時、俺が不甲斐なくて守ることができず、拾いきることができずに奪ってしまった命の数だけ、十字架を背負う。
そんな胸の内を声にすることもできず、少年は嗚咽交じりに小さく頷きを返す。魔女はそれに優しく微笑み返して。
「なら、この日この時をあたしも忘れないでおくんだよ。
君が背負いきれない思いを。君を拒絶する世界を。君が望む理想を。あたしは君のそばにいてずっと背負っていくんだよ。いつか悪竜に復讐を果たす同志として。あたしの願いを叶える仲間として」
女はこちらへと微笑を向けたまま手を差し出す。
正直突然すぎて意味が分からない。どうして急にこの女からそんな話が出るのかさっぱりわからない。分からないことだらけで言い返したいのに声は出ない。だけど、目の前に差し出されたこの手は縋りつくのに十分なほど暖かくて――だから俺は、差し伸ばされた手の白く滑らかな指先を、力なく腕を伸ばして軽く掴んでしまった。すると、思いのほか力強く引っ張りあげられた。驚いてぱっと顔を上げると、曇りない黒い瞳で覗き込まれる。
「あたしの名はアンラ。君の望みを果たすため。あたしの願いを叶えるため。あたしは必ず君とともにいるんだよ。それを今ここで――うん、赤き月に誓うんだよ」
あたりを見渡して、見上げた夜空に輝く赤い月に気付いてアンラは俺に誓う。語り掛ける声音はひどく優しげだった。慰めるわけでもなく同情するでもなく、ただすぐそばでともにあろうという誓い。それに救い上げられるように、俺はその言葉に対して誓いを返す。
「今日この日、俺はすべてを失った。家族も友達も父も母も全員奪い、奪われた。だから、俺は赤き月を忘れない。今日この日をずっと忘れないために。大切なものをもう二度と失くさないために。大事なものをもう奪わないために。俺も赤き月に誓う」
赤き月が二人を睥睨するように夜空に浮かぶ。
燃え盛る村の中、確かな誓いを結んだ二人。それが果たされる日もまた、赤き月が見届けよう。
――赤き月の夜
黒き龍がすべてを奪い去っていった
その日 すべてを失った一匹の「化け物」が産声を上げた
――誓いをかわした人がいた
復讐を遂げる誓い 大切なものを守る誓いを
だから 月をよく見て目に焼き付けた
自らが交わした誓いを胸に
大切なものをもう奪わないために
大事なものをもう二度と失くさないように