望郷
それはまだ、ヴァレリア王国からユーゴが姿を消して、さほど時を経ていない頃のことだった。
ティルアの家にある小さな庭で振舞われていた、朝食の様子が一変していた。
国政会議と思われても仕方がない者たちが、一部を除いて氷のように固まってしまっている。
しかし、それも仕方がないことだ。
永遠に失われたかと思っていた元魔王が帰還して喜んでいたら、また消えてしまったのだ。
大騒ぎする余裕もなく、何かの冗談だと思われても仕方がない。
ただ、凍り付いてしまった雰囲気も、いつかは溶けてしまう。
その場で誰よりも早く立ち上がったのは、現魔王――――エルザであった。
「直ちに周辺警戒を行います。緊急時だ、フィンレイとバートンは飛び上がって空中警戒しろ。ユステンは城に戻って軍令部へ報告、警戒態勢を――――」
「あー、意味ないと思うわよ? どうせアルベル連邦に行ってるんだろうし」
落ち着いた様子のジゼルが、再び山鳥のシチューを口に運んだ。
特に食事の感想を言うでもなく、スプーンを動かす。
現在、ヴァレリア王国に対する最高権限を持つのは、魔王であるエルザだ。
ジゼルの言葉を突っ撥ねても構わないが、先代魔王シアンと元竜将軍ティルアの様子も気になるところだった。
エルザが落ち着きを取り戻して言う。
「何か知っておられるのですか」
「知ってるわよ、色々と。でも、今はまだ教えられないわね。もう少し強くなったら教えてあげる。あとこれだけは言っておくけど、ユーゴの身の安全は保障するわ。……ところでティルアちゃん、胡椒ちょうだい?」
「ふむ、大姉様。用意するので待っていて欲しい」
頷いたティルアが、自宅へ戻っていった。
その背中に向けて、ジゼルの顔が引きつる。
「大姉様って、大婆様みたいな感じがしない? ねえ、ねえってば」
「ジゼル様、落ち着いてください」
氷青の瞳をした蜥蜴種の魔族が立ち上がった。
息子であるヨアネムの頭を優しく撫でてから、ジゼルの隣にやってくる。
「我々はユーゴが無事であれば、それで良いのです」
「あら、そう? でも、あなたって、そんなに物分かりが良い子だったかしら」
口を小さくして訝しむ元魔王妃だった。
ジゼルの記憶には、魔王軍参謀副長まで上り詰めた頃のシアン・コルネリウスの印象が強い。
良く言って粘り強い、悪く言えば粘着質で性質の悪い暗殺者のような性格だった彼女であれば、薄暗い顔を見せて復讐の機会を淡々と狙っているはずだと首を捻る。
旦那が出来て子供が生まれれば魔族も変わるのねぇ、と言外の溜息を吐いた直後だった。
朗らかな声でシアンが言う。
「これで安心して、準備が整えられそうです」
「ん? 準備って何かしら」
「少し、アルベル連邦へ行ってこようかと思います」
「それ全然『少し』って距離じゃないわよね」
あ、変わったのは表情だけか、と思い直すジゼルであった。
不可侵条約を結んでいるとはいえ、アルベル連邦が敵性国家であることに変わりはない。
事前通告無しに元魔王がアルベル連邦へ押しかければ、政治的に不穏な事態は免れないだろう。
それを理解していないシアンでは無かろうが、理解した上で行動を起こそうとしているのであれば猶更に始末が悪い。
シアンが微笑む。
「戦争をするのではありません。特使として外交に赴くだけです。前々から案件の上がっていた、戦闘中行方不明者捜索について協議の提案を行います。魔族は寿命が長く生命力も高いので、生存の可能性を考えています。奴隷として使役されているなら、即時解放を求めるでしょう」
「そうねぇ。でもそれって、かなり難しいわよ? 魔族憎しで団結してる国家を訪問して、財産である奴隷を奪っていくって話だもの。あっちからすれば強盗よ」
「理解しています。ですので、現在、迫害されないためにエトアリア共和国で保護しているアルベル連邦の捕虜の子孫を、交換条件とします」
「自国の捕虜を今まで放っておいた連中よ? 交渉できると思う?」
ジゼルは目の前に置かれているシチューの水面にスプーンを差し込み、器用に人参をより分けた。
苦笑いを浮かべたシアンが、短く息を吐く。
「交渉も目的の一つですが、今回は相手の出方を見るのが最重要となっています。エトアリア共和国で人族がテロを起こす背景に、アルベル連邦が関わっている可能性があります」
「証拠はあるの?」
「諜報機関にエトアリア商業組合を内偵させたところ、アルベル連邦側の諜報員が流入しているとの報告がありました。多くを知らされていないスリーパーですが、証明できれば条約違反に持ち込めます」
「証明できれば、の話よね」
「はい。ですが現在、不可侵条約のために外交ルートが閉じており、正式な抗議すらままなりません。そのために、元魔王である私が事前通告して赴きます。恐らく断られることでしょうが、強行します。その上で粗雑に扱われるのであれば、それもまたアルベル連邦の答えです」
「そのついでに、ユーゴを探すのね」
目を細めたジゼルの一言に、元魔王が微笑みを返した。
「否定いたしません。たまには私も休暇が欲しいですから」
「自分の休暇を旦那のために、ねぇ」
「そういえば、ゼルヴァーレン閣下も――――」
シアンが数代前の魔王の名前を出したところで、言葉を遮った。
元王妃の顔は笑顔だが笑っていない。
「それ、私も行くわ。セイカちゃんも行くわよねー……ん?」
彼女が頭を巡らせて見た先には、下を向いて手先を見つめるセイカの姿があった。
思わずジゼルが訊ねる。
「何やってるの?」
「師匠の気配が空を飛んでいたので掴んだのでござるが、これは何でござろうか」
ずいっ、と差し出されたのは、光る糸――――『アリアドネの糸』の破片だった。
常人であれば感知すら不可能で、その存在を知るジゼルですら痕跡を見つけるのが精一杯であった。
感覚や反射神経がずば抜けて高い魔族たちですら、ユーゴが消えたようにしか見えていない。
その『アリアドネの糸』を僅かとはいえ摘み取っているのは、驚嘆を通り越して、セイカの存在自体が不条理と言えよう。
ジゼルが乾いた声で言う。
「あー、確かにそれはユーゴを連れ去った魔導具の破片ね。でもね、セイカちゃん。あんまり無茶しちゃ駄目よ。ユーゴは自己治癒できるから心配ないだろうけど、下手に移動中の『糸』をちぎったりしたら、本人もちぎれちゃうから」
「はあ、そうなのでござるな?」
全く理解していない様子で頷くセイカだった。
彼女の所為で、ユーゴが到着したときに裸であったのだが、今はそれを誰も知る由がない。
「というわけよ? セイカちゃんが持ってる破片が何よりの証拠になるわ。ユーゴを探し出すのに大きな利点よ」
ジゼルがくるり、と向きを変え、シアンを見た。
満面たる笑みではあるが、有無を言わさぬ強制力がある。
「それは構いませんが、命の保証は出来ませんよ」
「平気平気、私が面倒みるから心配いらないわ」
ジゼルはそう言いながら、笑顔の下で冷静に戦力を判断している。
ただの殺し合いであれば話は別だが、一対一の白兵戦闘でセイカの技量を超えられるものがこの場に誰もいないことはわかっていた。
それより問題なのは、予測できない突発的な行動についてだ。
しかし、それについても、彼女に言うことを聞かせる秘策がジゼルにはある。
「ふう、問題はそれくらい?」
「大姉様、胡椒を持ってきたぞ」
似合わないエプロンを揺らしながら、ティルアが帰ってきた。
胡椒の入った瓶が渡される。
「ありがとー」
「私も同行するぞ」
「まあ、そう言うと思ってたわ。でも、あっちで指を咥えてる自分の娘はどうするの?」
「ふむ、どうもしないぞ? 交渉次第によっては最悪の事態だからな。エルザとフィーナは留守番してもらう」
彼女の言葉に、項垂れてしまうフィーナ達であった。
最初から分かっていたことでも、改めて言葉にされると落ち込むのだろう。
小さな溜息を吐き、シアンが腰に手を当てて言った。
その顔は母親のものだった。
「大人しく帰りを待っていなさい。ユーゴも私たちも、必ず帰ってきますから」
――――その約束は時を経て、誰の心にも残るものとなるのだった。




