召還
彼の耳には、何の音も届いていない。
ただ、口の中に入るべきシチューのことだけを考えていた。
ユーゴは万感の思いを胸に溜め、シチューを口に運ぼうとして空振りする。
「…………?」
スプーンを受けるための口は尖らせたまま、手の中に何も無いことに気付いた。
現状を把握出来ずに首を捻る。
そんな彼に、震える声が届いた。
「あ、の。不躾なお願いで申し訳ないですが、助けて貰えませんでしょうか」
「――――は?」
彼が声のする方を向くと、そこには出会って二回目の女性がいた。
アリアドネ・レオ――――アルベル連邦の国家元首の娘である。
そんな彼女が衣服を剥ぎ取られて下着姿にされ、両手を短剣で縫い付けられていた。
益々もって理解し難い状況に陥るユーゴだった。
彼は釈然としない様子で、素直に疑問を口にする。
「俺は、嫁の手料理を食べようとしていたはずなんだが……」
「すいません……」
冷や汗を流しながら、アリアドネが頭だけ下げる。
未だにスプーンを持っているような恰好のユーゴは、自分がベッドの縁に座っていることに思い至った。
そんな彼の前に、見慣れない軽鎧を着こんだ男の影が差す。
「お嬢様。『糸』で呼び出したにしては、何の変哲も無い男ですな。グラウコス様からは、お嬢様以外の者に生死を問われてはおりません」
「ええ、あのお兄様ならば、そう言うでしょう。長年私に仕えてくれたことには感謝します、ランヒ。今日限りを以って、貴方の執事長としての役職を解任いたします」
彼女が、不器用な笑顔を見せて言った。
ランヒと呼ばれた初老の男が、白い髭を撓ませる。
「失礼ながら、お嬢様にその権限はありません。そして、吾輩も本来の役職は違うものです」
「わかっています。それでも、私の心の中では区切りを付けなければいけないのですよ。そして、退職金代わりに餞別を言い渡します。私とそこの彼を、今すぐ見逃しなさい」
「……申し訳ありません、吾輩の姿を見られたことは、簡単に見過ごせませんので――――」
初老の執事が、スプーンを持つ形になったユーゴの手を切り落とそうと、白刃を振るった。
鋭い刃が突き立てられ――――壁に穴を空ける。
肉に食い込むはずだった短剣が、静かに柄を震わせていた。
「――――ぐぅ」
ランヒの右手が、砕けていた。
急いでユーゴから距離を取り、眼を細める。
「その反応速度、もしや『騎士』か……」
「いや、うん。ちょっと失礼すぎるだろ。俺は少し怒ってるもんでね。刃物を向けてくる相手にまで、手加減する余裕は無いぞ」
ベッドから立ち上がり、首を回して見せた。
それなりに苦労して自分の国へ帰ったつもりだった。
珍しい方の嫁の手料理も食べられるはずだった。
もう少し家族と一緒にいられると期待していた。
――――それがどうしたことだ。
いきなり他人の御家騒動に巻き込まれて、腕を切り落とされそうになったのである。
朝食さえも口に出来ていない。
自然と態度が悪くなるのも無理は無いだろう。
「あと、良く分からんが、この状況で俺が助けを求められたんだから、どっちに味方するか分かってくれるよな、執事さん」
ユーゴは口元を曲げて笑う。
恰好を付けているつもりだが、彼の瞳が少々曇っているのに加え、異様に分厚い存在感によって悪役のオーラが漲っていた。
ユーゴがゆっくり手を挙げると、アリアドネの掌を壁に繋ぎとめていた短剣が砕け散る。
彼女がその場に崩れ落ちた。
再度、彼は笑う。
完全に悪役の顔だった。
「次は――――」
お前だ、と言おうとしたが、彼の腕は振り下されなかった。
執事が全力で逃走を計ったからだ。
振り上げた手の下げ方を見失った彼は、取りあえず後頭部を掻く。
ついでに、アリアドネの手を治しておいた。
彼女が呆然として呟く。
「これが話に聞いていた、あの……」
「よし、それじゃあ俺は帰る」
話の流れをぶった切って、部屋から出ようとするユーゴだった。
その足を掴み、首を振るアリアドネである。
「あ、いえ、待ってください。お話がありますのです」
「俺にはあんまり無い」
「そこを何とか」
「くどい」
「せめて服を着てください」
「…………うん?」
ユーゴは下を見た。
見慣れたものが見えた。
今まで素っ裸でいたことに、驚きを禁じ得ない。
執事も何か言えよ、と彼は心の中で逆恨みした。
今まで素っ裸で恰好を付けていたことが、たまらなく恥ずかしい。
「何が、俺は怒ってるもんでね、だよ」
そんなことを言っている間にも、股間はブラブラしていたということだ。
娘に見せたくない姿で言えば、ぶっちぎりの第一位であろう。
「いやもう、ほんと家に帰りたい……」
顔を両手で覆うユーゴであった。
しかし、彼の悲運はそこで終わらなかった。
彼らの居る部屋――――つまりはアリアドネの寝室に、慌てた表情のメイドが入って来たのだ。
「お嬢様っ、先程から激しい物音が聞こえましたが、メイド長が居られないので失礼しま……す?」
メイドが見た光景は、彼女の想像を少しだけ超えていた。
裸で顔を覆い、立ち尽くす男。
その男の足を掴み、下着姿で下から見上げるお嬢様。
部屋の中は乱れている。
壁には短剣が突き刺さり、他にも壁に穴が開いていた。
「さ、流石はお嬢様でございます。片付けは後で行いますので、御存分にプレイなさってくださいませ」
頭を下げたメイドが、そそくさと部屋の前から逃げ出した。
顔を覆っていたユーゴは肩を震わせる。
「また見られた……」
「それならば股間を隠せばよかったのではありませんか」
「そこまで冷静になれなかったんだから、仕方ないじゃないか」
「そう焦らずとも、ご立派ですよ」
「いや見るなよ」
ユーゴは急いでベッドに近づき、ベッドのシーツを剥ぎ取った。
そして自分の身体を隠そうとして、アリアドネが下着姿であることを思い出した。
シーツを破いて腰巻だけ作ると、残りは彼女の肩から被せた。
きょとん、としたアリアドネが言う。
「あの、お返しに見せます。脱ぎます」
「いらん。それよりヴァレリア王国に帰してくれ」
「申し訳ありません、私の『糸』は一方通行なのです。助けて頂いた恩人に告げるのも心苦しいのですが、御帰国されるのは難しいかと……」
「なら、歩いて帰るさ……む」
彼は歩き出そうとして、アリアドネの手が足から離れないことに気付いた。
このままでは彼女を引き摺って歩かなければならなくなる。
その姿を先程のメイドに見られたなら、決して只では済まない。
渋々といった表情で、ユーゴは言う。
「放してくれないか」
「放せません。貴方――――ユーゴ様は、アルベル連邦を甘く見ておいででしょう。身分証の無い者が、このアルベル連邦特区――――『トランキアル霊廟街』を抜けることは皆無です」
「飛んで逃げるよ」
「お忘れですか。ここはアルベル連邦の支配下です。特に《魔族》は厳重に管理されています。そんなものが空を飛ぼうものなら、全力で叩き落とされます。ランヒに顔を見られているので、指名手配もされるでしょう。そうすれば最悪の場合、ヴァレリア王国の斥候だと思われて、不可侵条約が完全破棄されます」
「むぅ」
ユーゴは唸った。
今の彼に役職は無いが、他国から見れば重鎮の中の重鎮だ。
自身の影響力を考えなければいけないし、彼の一存で不可侵条約を破棄させるわけにはいかない。
溜息を吐いた彼に、アリアドネが意を決した表情で告げる。
「私と結婚してください」
「――――は?」
彼は己の耳を疑い、そして次に、彼女の頭を疑うのだった。




