経緯
――――時を遡る。
それはまだ、ユーゴ・ウッドゲイトが妖精皇国の商隊と別れ、大陸へ辿り着いたばかりの頃だった。
一先ずはエトアリア共和国を目指すために、南方から密林地帯を踏破しなければならない。
宿営した回数を数えるのも飽きるほどに過ぎたとき、ユーゴは小さな集落へ辿り着く。
運命というものがあるならば、これがそう言うものだったのだろう。
もしくは、得体の知れない者が、精緻に編み上げた謀略だったのかもしれない。
樹木が鬱蒼と生い茂る中で、焚火が訥々と燃えている。
手ごろな丸太を椅子代わりにして、赤く燃える炎の中へ小枝を放り込んだ。
ぱちり、と小さく爆ぜる音がする。
飛び回っていた羽虫が、焚火の炎に巻かれて落ちた。
揺れる炎の光が、穏やかな顔をした老人の顔を映した。
「納得されましたかな?」
日に焼けて浅黒く、深い皺を幾重にも歪ませて、老人が笑う。
肩から斜めにかけた衣服の間から、静かに輝く《魔玉》が見えた。
ただし、それだけではない。
半裸にも見える姿だが、その肌の殆どが魔晶化して半身を侵されていた。
炎を見つめていたユーゴは、彼の足元で毛布に包まって寝ているセイカを起こさないように顔を上げる。
「……いえ、俺にはとても、あなた方が滅びて良いとは思えない」
彼の瞳は真摯なもので、炎の揺らめきを映していた。
老人が苦笑いを浮かべ、頭を掻く。
裸足のまま歩いてユーゴの前に来ると、ふわりと地面に座り込んだ。
老人が口元を緩める。
「運命のようなものです。我々は納得しておりますぞ」
「それは正しいと言えますか?」
ユーゴは苦々しいものを吐き出すように言う。
頷いた老人が、暗い夜空を指差した。
「たとえば、この空は正しいと言えますでしょうか。それとも昼の方が正しい空でしょうか。我々にとっては、それと同じことです。ただ、有り様が変化するだけなのです」
「ですが、他に方法があるかもしれないですよね」
「……ああ、そうですね。運命と言ってしまったことが誤解を生んだのかもしれませんな。我々は運命を、抵抗できないものだと考えていません。言うなれば、川を流れる水のようなものだと思っています」
「押し流されれば同じではないですか」
「やり方があるのです。視点を変えてください。確かに、運命に流されている人がいれば無力ですが、運命の外にいる者に縄を投げて貰えば、助かることもあるのです。その縄を投げて下さったのが、貴方――――ユーゴ様なのですがね」
老人が顎に手をやり、炎を眺める。
その老人にしか分からない万感の思いが込められてあるだろう、溜息が吐かれた。
「我々は、そのためにあったのです。終われない日々を見つめ続けるには、永く生き過ぎました。どうか」
眼を閉じた老人が両膝に手をつき、深く頭を下げた。
ユーゴも目を閉じ、深い息を吸う。
「――――」
彼がこの集落で見た者は、この老人以外の全員が魔晶と化していた。
美しい彫像にも見える老若男女の魔族が、それぞれの形で固まっている。
時間さえも凍って感じられるこの集落で、老人が何を想って過ごしてきたのかは想像するしかない。
しかし、魔晶と化した者達の身体に、埃が積もっていなかったことを考える。
大切だったのだろう。
大切な者がいたのだろう。
それをユーゴが崩してしまうことに、何も感じずにいられはしない。
老人が頭を上げた。
好々爺の顔で笑っている。
「昔の者が言っておりました。流れる川の水は、決して同じ水ではないと。……繰り返す様に見えて、変わっていっておるのです。我々は、そうして繋いでいくのです。我々が砕けたら、この集落の奥にある遺跡が開きます。中にある物は、すべて受け取ってください」
使いようがありませんからな、と言い放ち、呵呵として膝を叩いた。
うるさそうに寝返りを打つセイカに気付いて口を押さえ、彼女を見つめるその優しげな目は、セイカを通して手の届かない思い出を見ているようでもあった。
「――――さあ、お早く。この場に長く留まれば、この可愛らしい娘さんも、魔晶と成り果てかねませんぞ」
「脅し文句としては」
「陳腐でしたかな?」
それも一興、と口角を上げて見せる老人の肩に、ユーゴの手が置かれた。
すると、浸食することを忘れていた魔晶がその時間を取り戻すように這い上がってきて、老人の全身を固めた。
その魔晶は端から崩れ落ち、砂山となり、風の中へ溶け込んで消えてしまった。
立ち上がった彼は、集落を回り続けた。
その度に、集落から魔晶が消え続けた。
すべてが無くなって、みすぼらしいが手入れされ続けた家屋だけが残り、焚火の爆ぜる音が響く。
セイカが薄ぼんやりと瞼を上げ、眼元を擦りながら言う。
「はて、誰かに呼ばれた気がしたのでござるが……師匠?」
「そうかもしれないな」
「何者かがいたのでござるか? 拙者には何の気配も匂いも感じられなかったのでござる。師匠にも気配を完全に掴ませぬとは、この廃村には幽霊でも出るのでござろうか」
「幽霊、ねぇ」
ユーゴの見ている風景は、いつの間にか、寂れてしまった村落へと変わっていた。
憮然とした表情のユーゴの前を、輝く塵が漂って、闇の中へ消える。
老人の笑い声さえ聞こえた気がしたが、それは流石に幻聴だろうと、彼は頭を振った。
「師匠、何か見えるのでござるか。幽霊であれば、教えて頂きたい」
「え? どうするんだ」
「一度、斬れるかどうか確かめてみたいのでござる」
「本気で言ってるのか……本気なんだろうなぁ」
「はあ。相手が物であれば刀で斬れるのでござろうが、斬れぬからこその幽霊でござろう」
「まあ、確かにな」
「そうであるならば、拙者に襲いかかって来ても危害を加えられぬが道理。もしも幽霊が斬りつけて来たならば、その時こそ幽霊を刀で斬れるのではないかと思ったのでござる」
「要するに、試してみたいだけか」
相変わらず物差しが『斬れるか斬れないか』であることに一抹の不安を覚えつつ、斬り合いに関してならばここまで頭が働くのだな、と思うユーゴであった。
「ここの幽霊は攻撃してこないから安心しろ」
「おお、本当に師匠には見えておられるので? 流石は師匠でござる」
「見えたというか、見せられたというか……そうだな。とりあえず、遺跡に行くか」
「この辺りに遺跡があるのでござるか」
「うん、あるんじゃないのか? 多分」
「師匠にしては、妙な物言いでござるな――――さては!」
眼を細めていたセイカが、急に立ち上がって刀を構えた。
腰に差した刀の柄に手を添え、いつもより低い姿勢で神経を集中させている。
張りつめた空気の中で、微かな糸を手繰り寄せる。
ゆっくりと顔を上げ、彼女がその先を睨んだ。
「こちらの方から、何やら妙な感じがするのでござる。やはり幽霊でござるか」
「……相変わらず、方向性さえ間違えなかったら、とんでもない才能だな」
今からでも学者になることを勧めようかと考えるユーゴであったが、それはそれで別の問題が生じることがすぐさま頭に浮かんだので、何も言わないことにした。
当の本人は、輝く瞳で彼を見ている。
「師匠には及びませぬ。師匠に言われなければ幽霊の存在に気付かぬようでは、まだまだ修行が足りぬでござるな」
「それでいいと思うんだけどな。気付かないに越したことは無い」
とある魔族の終焉を、滅びを、儚さを、見せつけられた。
しかし老人は、繋いでいくと言っていた。
それはつまり、遺跡に答えがあるのだろう。
「御謙遜なさらずとも、師匠! 幽霊さえも師匠の前では姿を現さずにはいられないのでござる」
「一度、セイカの視点で俺を見てみたいもんだな」
せめて生物であって欲しいことを願うばかりであった。
「師匠は師匠でござるが……」
「まあ、そう言うことにしておこう」
ユーゴは立ち上がって、焚火に砂をかけた。
ほぼ暗闇で、僅かな星の光しか見えない樹木の中を、通い慣れた道でも歩くように進む。
セイカも同じくついて来ていた。
彼女の場合、あまり視界は開けていないが、ユーゴの気配と衣擦れの音を頼りに、同じ歩幅を再現しているのである。
寸分たがわずユーゴが歩いた足跡を辿れば、確かに同じ場所へ行くことは可能だった。
そうして彼らが到着したのは、木板を張り付けて通行止めにしてある岩肌だった。
傍目からは、封鎖された鉱山跡にしか見えない。
「セイカ」
「承知でござる」
最初に納刀の音がした。
それから抜刀の吹き返しが始まる。
彼女に言わせれば、ぬぅんと来てびゅうんでござる、という理不尽極まりない理屈の抜刀術だった。
彼女の流派――――富嶽一刀流であれば、音貫きの太刀、と命名されたことだろう。
奥義や秘伝に分類される技を繰り出されては、ただの木板が耐えられるはずもなく、脆くも崩れ去った。
遺跡と聞いていたので長い道のりを考えていたユーゴだが、この遺跡の奥は土砂で潰されていた。
その埋まってしまった土砂の前へ、小さな木箱が置かれている。
壁の崩落に気を付けながら、彼が前に歩いた。
膝を地面について屈みこみ、木箱を手に取る。
小さいそれを開くと、中には、透明な《魔玉》が入っていた。
「何だ、これ」
彼は直接《魔玉》に触れる。
柔らかくて、ぶにょりと凹んだ。
すると、ユーゴの指先に、バチリと電流が走った。
次の瞬間、《魔玉》が喋りだす。
「あー、え? 私がここにいるということは、スペアに無事にダウンロードしたってことね? おめでとう!」
それは、遠くに聞いたことのある、ジゼルの声だった。




