氷青
血煙が舞い、怒号の絶えることが無い街――――コロセウム。
面倒事を詰め込んで煮立たせたら出来上がったような悪所に、氷青の瞳を持つ母子が歩いている。
傍から見れば、買い物途中の母子が迷い込んだ風に見えなくも無い。
ただ、コロセウムに限ってそれは有りえなかった。
相手が誰であろうと、戦わずには入れもしないし出ることも出来ない。
単なる魔族の母子であれば、剣呑な雰囲気を感じ取って逃げ出していることだろう。
それでもこの街を闊歩していると言うのだから、彼女らとて面倒事の一つと考えて良かった。
「まったく、ティルアにも困ったものです。自分だけで何とかしようなど片腹痛いですね」
「はい、僕らは家族ですから」
「ええ、その通りです。……しかし、あなたはついて来なくても良かったと思いますが」
若干の非難めいた視線を向ける母親に、首を横に振る子供だった。
「いえ、一度この眼で、コロセウムなる場所を見たかったのです」
「そうですか。それにしても、先程の相手は骨がありませんでしたね」
「いえ、骨はありましたよ。母上がへし折っただけだと思います」
氷青の瞳を細くした女性――――シアン・コルネリウスが、その表情をわずかに緩めた。
まだ小さな我が子の頭を撫でる。
生き写しのようにそっくりな顔をした少年が、嬉しさと恥ずかしさを混ぜた表情を見せた。
「なんですか、母上」
「実際の骨のことを言っているわけではありません。気骨と言う意味です。骨が折れても立ち向かってくる気持ちが見たかったのです。……この街も、安寧の日々でぬるくなりましたね」
「はぁ、そういうものですか」
難しい顔を見せる少年――――ヨアネム・コルネリウスが嘆息を漏らす。
彼が思い出したのは、今までの特訓の日々だった。
この気真面目な母親が、息子を立派に育てるための教育を疎かにするはずが無い。
座学も勿論そうだが、魔族として強者であるための修行は壮絶を極めた。
期待に応えたい一心で努力を続け、それなりに実力もついたと感じている。
そんなときに、魔族の坩堝とも言える場所へ行ける機会が訪れたのだから、好奇心が勝るのは子供の常だった。
これまで滅多に願い事を申し出ない息子の嘆願に、母親も渋々とこれを認めたのだった。
そこで、妙な顔で見つめてくる母親に気付いた。
「何かありましたか?」
「そうですね。やはりあなたは、父に似ていると思いました」
「……誰に会っても母上似だと言われますが」
「それは嬉しいことですね」
微笑むシアンの表情は、心からの気持ちを表していた。
そんな対応をされると、困惑するのはヨアネムだ。
「前から聞いて見たかったのですが、僕の父上は本当に人間だったのですか? 魔族では無く?」
「ええ。少なくとも、私と初めて出会った頃はそうでした。それからは……果たして魔族だったのかどうか、私もわかりません」
「……母上でも、そうなんですね」
どういう表情を浮かべて良いか分からず、苦笑いを選ぶヨアネムだった。
もう一人の母親や、異母兄弟に話を聞かされるごとに、その男の異様さが増していった。
――――国を救った大英雄。
単純にそう思えれば良かったのだが、彼の中では上手く消化出来ず、得体の知れない存在として心の底にへばり付いていた。
物心つく前には、もういなかった存在への気持ちなど、棚上げするより他ない。
面倒見の良い姉――――フィーナの強い反対によって禁止されたシアンの教育法のことも聞いていた。
いっその事、崇めるか憎むかでもすれば納得できたのでしょうか、と首を捻るヨアネムだった。
そうしている内に、髭だらけの魔族がこちらに向かってきた。
あまりコロセウム以外のことに興味が無いのか、元魔王の顔も知らないらしい。
「おうおう、お前ら、俺の縄張りに入って来るとはいい度胸だなぁ!」
鍛え上げられた魔族の腕が、シアンに伸びる。
それでも彼女が動くことは無く、腕組みをしたまま呟いた。
「手本は先ほど見せましたね。……ヨアネム、制圧しなさい」
「はい、母上」
彼が小石に躓くように体勢を崩したかと思うと、その姿が掻き消えた。
髭だらけの魔族が伸ばしていた手に、少年の手が絡み付く。
「つうぅぅぁ!」
親指を逆関節に押し込まれ、絶叫が上がる。
その隙を見逃さず、相手の懐に入り込んで、顔面に掌を叩きつけた。
視界を失って後退する無防備な髭だらけの魔族に対し、側頭部へ蹴りを叩き込む。
「があっ」
堪らず後方へ倒れ込む魔族だった。
口から怒りの声が漏れているが、目が利かないのと脳震盪で上手く立てないでいる。
もう追撃は必要ないと、彼が気構えを解いた。
その瞬間に、シアンの声が漏れた。
「はあ、まだまだですね。あらゆる意味で、相手に『心』を残してはいけません。今の場合では、意識を奪うか対抗心を無くさせるかしないと、手痛い反撃を受けますよ。相手を侮るのもいい加減にしなさい」
「……申し訳ありません、母上」
もう一度、気持ちを戦闘状態に持って行こうとする彼の眼に、完全変貌を始めた髭だらけの魔族が見えた。
筋骨は鋼の如く強靭で、禍々しい殺気を放っている。
変貌前であれば簡単に倒せた相手だが、それは完全に戦闘状態では無かったからだ。
不意打ちならば、実力差はかなり補える。
ただし、純粋な力勝負となれば、まだ少年のヨアネムには分が悪い。
「こぉのっ、クソガキがあぁぁぁぁぁ!」
魔族の怒りの声が、彼の虚を突いた。
一度解いた心構えを入れ直す前に怒号を浴びたため、少しだけ身が竦んでしまったのだ。
彼が出来たのは、突進してくる魔族の攻撃に対し、腕を交差させて防御することだけだった。
蹴り飛ばされ、地面を転がる。
攻撃の勢いを殺せず、自分の腕が顔に当たって、口の中を切っていた。
既に両腕は、この戦いが終わるまで使い物にならないだろう。
油断したと思っても後の祭りだ。
ここから形勢逆転するのは難しい。
しかし、気骨まで奪われた訳では無い。
ヨアネムは横目で、自分の母親の顔を盗み見た。
彼女の瞳が、驚愕に彩られている。
「――――?」
彼が急いで正面を向くと、口を開けた魔族が目の前に立っていた。
その魔族の腹部から、ゆっくり銀色の刃が生えてくる。
いきなり腹から出てきた銀色の刃を掴んだ魔族が、血を吐きながら背後を振り返ろうとした。
そこで、銀色の刃が横薙ぎにされ、魔族がはらわたを撒き散らしながら崩れ落ちた。
血しぶきが地面を染め、茶色の外套を目深に被った姿が露わになる。
「――――」
銀色の槍を肩に担いだ者は、単なる旅人の見た目と変わらない。
ただし、頭から外套を被っている所為で隠れている口元から、寒々しいほどの殺気が溢れ出していた。
呪詛を垂れ流すようなその濃厚な敵意が、ヨアネムに向けられた。
先程の魔族とは比べものにならない悪意に、彼の心は縛り付けられる。
それを庇うように現れたのは、シアンだった。
彼女が背中を見せながら言う。
「これを相手にするには、あなたにはまだ早いですね。私は負けるかもしれませんが、その時はエルザを頼りなさい。いいですね」
「は、母上っ」
「はい。あなたは良い子です。きっと強くなります。腕前だけでなく、心も」
微笑んだシアンが、口元を引き締めた。
外套を被った見た目と底知れぬ強さから、相手はユステンから報告を受けた者に間違いないだろう。
少なくとも、魔王クラス。
実際に相対してみれば、魔王でも五本の指には入る強者だった。
ティルアが見つけるより先に出会ってしまったか、もしくは、既にティルアが殺されてしまったか。
「まあ、私もあなたを無傷で済ませるほど、可愛げはありませんけどね」
即座に半変貌状態となったシアンが、己の爪を確認する。
彼女の一族に代々備わっている能力として、爪に猛毒が隠されていた。
相手に掠り傷でも負わせれば、そこから生物の神経を溶かす猛毒を送り込むことが出来る。
彼女が外套の者を睨みつけた。
「ところで、あなたは一体何者ですか」
「――――あじぇら」
「……何ですか?」
「あげるぶらばばばげらぐらばぼじょあげじがぶらぶげあびぎばばぐげら」
外套の者が、銀の槍を構え直す。
先程まで溢れ出ていた殺気が、細く、鋭くなり、空を斬り裂く刃と同時に襲い掛かってきた。
魔族を殺すための銀光が煌く――――。




