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騎士になりました  作者: 比呂
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良母


 魔王城から程なく離れた平地に、日当たりの良い屋敷があった。


 元は魔王軍の将兵が使っていた場所だったが、今では官位を離れた魔族が住み着いている。

 将軍クラスの保養地を用意するという提案を、無下に蹴ってまで手に入れた小さな屋敷だった。


 有体に言えば、不便であった。


 毎日の水汲みに、洗濯、買い物は街まで離れている等の雑事は面倒というより他ない。

 ただし、今までそんなことを何一つとして世話することが出来なかった身としては、程々に充実していた。


 小さな屋敷の庭に、縄を張って物干し場が造られている。


 恐ろしく顔立ちの整った金髪の女性が、前掛けを風に揺らせる。

 細すぎる紐のような下着を乾し、腰に手を当てて笑う魔族の竜種だった。


「ふむ。これでよし、と」


 ひらひらと風に揺れる紐パンは、彼女がエトアリア共和国の裏路地まで赴いて買ってきた物だ。


 自身が『姉』と思っている他種族の女魔族に進呈しようとすると断られたので、今まで手元で保管しておいた。

 しかし、何故か今日に限って心が妙に落ち着かず、洗濯して乾すことにしたのだった。


 これで洗濯物も干し終え、籐の籠を下げて屋敷に入る。

 そのまま台所に入り、お湯を沸かし始めた。


 何度も自分の不注意で吹き飛ばしてしまった台所は、継ぎ接ぎだらけで異様だった。

 壁が無くなるたびに、親子で修繕したことは良い思い出である。


 今では台所を失うことなく、調理が出来る。

 そのことを褒めて貰いたい相手はいるが、考えても仕方のないことだ。


 食べさせたい料理もある。

 きっと、不味くても文句を言いながらすべて食べてくれることだろう。


 眼の裏に浮かぶ光景があまりに愛おし過ぎて、立ち尽くしていることに気付くのが遅れる程だった。


「……駄目だな。今日は良い茶葉にするぞ」


 苦笑しながら首を横に振り、戸棚の奥底に隠されている紅茶を取り出した。

 無論、彼女のものでは無い。


 これは娘が秘蔵している高級茶葉で、狼種の魔族をこきつかって手に入れた極上品だ。

 それを無造作にカップへ掴みいれ、用意しておいた湯を入れた。


 紅茶を嗜むものからすれば言語道断の行いであるが、竜種の中でも最強種である光竜――――ティルア・アイブリンガーに口を挟める者は、この国に多くない。


「――――ん?」


 さて飲もうか、とカップを持ちあげた所で、琥珀色の水面に一本の茶葉が浮いていることに気付いた。

 このように一本だけが残っているのは非常に稀なことだ。


「まあいいか」


 彼女は一息ですべてを飲み干した。

 味や香りを楽しんでいる風では無いし、空になったカップの底からは未だに湯気が立ち上る。


 しかし、光の砲撃を口から吐き出す彼女にとって、熱湯如きで火傷をするような弱さなど皆無である。

 更には、鋭利な牙で、口の中に残る茶葉を噛み砕く。


 鼻腔から爽やかな香りが抜けていくが、そもそも紅茶の楽しみ方を間違っていた。


 窓から入って来る涼やかな風に、金糸の如き髪が流れる。

 物憂げな瞳が情感を増し、元来の美しさを引き立てている。

 この姿を見れば、どんな美女も及ばないと言えるだろう。


 ――――彼女が口さえ動かさなければ。


「それにしても、香りだけで味は葉っぱだぞ、これ。何が良いのだろうな?」


 腕組みして首を傾げるティルアであった。

 娘が聞いたら泣いて歯を食いしばる言い草だ。


 とにかくお茶を飲んで一息入れた彼女は、昼食の準備に取り掛かることにする。

 それが終われば、夕食の準備。

 そして日が暮れて、一日が終わる。


 繰り返す日々の生活だが、いつしか慣れてしまった。

 喜びも悲しみも、希望も絶望も、時間と共に風化してしまう。


 その中で、愛する男が残したように、私も何かを残せるだろうか、と自問した。


「良き母か。……やはり、難しいな」


 紅茶の件は別にして、良き母であることを今更のように思い浮かべた。

 歩きながら、考える。


 屋敷に戸締りなどせず、青空の元へ出た。

 余程の豪胆な物好きか余所者でも無ければ、光竜親子の巣に侵入しようとしないからだ。


 足元の芝を踏みしめ、青い匂いが舞い上がる。

 その小さな庭の端に、墓石があった。


 石の下には、愛する者の一部――――鉄片が埋められているに過ぎない。

 他に国費で立てられた巨大で立派な墓もあるのだが、そこには彼が魔王だった時分の礼服しか納められていなかった。


 そのどちらも御飾りのようで祈る気にはなれないが、話しかけることだけは止められない。


「ユーゴなら、どう言うかな?」


 返答は、無い。

 風の音が耳朶を通り過ぎるだけだ。


 彼女は苦笑して、ああそう言えばいつもユーゴは苦笑いばかりだったな、と小さく呟いた。

 そして、今日の昼食は尊敬する姉と一緒に食べると決めた。


 料理は自慢の一品である、山鳥のシチューだ。

 ほろほろと崩れる肉と野菜に、滋味の強い鳥の出汁が舌を唸らせる。

 濃厚なとろみが口内に広がり、飲み込むのが惜しい程だ。


「ふむ」


 それには、まず山に入って、山鳥を仕留める所から始めなければならない。

 具材を煮込むことまで考えると、狩りに時間を費やすことは出来なかった。


 今から完全変貌して狩場のある山頂上空を旋回し、山鳥を発見次第、最大限に絞った閃光砲で仕留めるのが最速だろう。


 そうと決まれば、と前掛けを勢いよく外した――――ところで、見覚えのある狼種が完全変貌状態でこちらに走り込んできている。


 娘の同輩にして友人だったが、ここ最近は娘との会話に出てこないので名前を忘れていた。


「あれは、ユス……ユスゲ? いや、違うぞ。もっとこう、丸いような名前だった」

「――――これは、アイブリンガー様っ!」


 傍から見れば巨大な狼が、慌てて急停止しておすわりの体勢となった。

 ティルアは腕組みして鷹揚に頷く。


「何事だぞ、ユスペン」

「え、あの、ヒルト家のユステンです」


 上目遣いで恐る恐る発言する巨狼だったが、すぐに尻尾を下げた。

 片眉を上げたティルアが相当に怖かったらしい。


 彼女からすれば、名前を間違えたことを誤魔化したいだけの仕草だった。


「だからどうしたのだ」

「あ、すいません。ユスペンです」

「気にするな。私はこれから狩りに出るぞ。ではな」

「待って下さい! 少しお時間を!」

「ほう、この私の狩りを邪魔すると言うのだな」


 彼女が不敵に笑う。

 軍籍を退いたとはいえ、未だにティルアの軍部への影響力は広く深い。


 彼女の声掛けで、命知らずの荒くれ竜種が即座に集結することになるだろう。

 そもそも、本人がその気になれば一瞬で大地を沸騰させることが出来るのだから、逆らえる訳が無い。


 しかしユステンも、国難と己の命を秤にかけるほど弱卒では無かった。


「申し訳ありません、御手をお貸しください。王族に匹敵する猛者が、我がヴァレリア王国に侵入するかもしれません。既にエトアリア共和国には侵入され、消息は不明です」

「ふむ――――」


 ティルアは考えをめぐらせた。


 エトアリア共和国で起きている事件を鑑みるに、アルベル連邦の手が伸びている可能性は否定できない。

 しかし、ヴァレリア王国まで手を伸ばすならば、話は違ってくる。


 それは明らかな、不可侵条約違反――――つまりは宣戦布告と同義となる。

 そうでなくても、王族に匹敵する猛者をエトアリア共和国へ送り込むことは敵対行動とさえ認識できる。


「そうだな。まずは私が出るのが良いだろう。いきなり姉上やフィーナを動かして軍部の動きを伝えられては、敵がアルベル連邦だった場合、戦争の引き金となりかねないからな。ただし、姉上に報告だけは頼むぞ」

「了解いたしました!」

「うむ。……ところでユステン」

「は、はい」

「私の娘にやった紅茶を、もう一度手に入れてくれぬか」

「は、はい?」

「約束だぞ」

「え、あれは、今の季節では……」

「約束だ」

「……はい」


 首がしな垂れるように頷いた巨狼を見て、ティルアは大きく頷いた。


 敵が魔王に匹敵するならば、この青年には荷が重い。

 娘の友人であれば、尚更に矢面へ立たせたくないこともある。


 軍人だったなら私情を挟むことに罪悪感を覚えたかも知れないが、今の彼女は私人だった。

 何かを思い出したように、小さな墓石を一瞥する。


 微笑みを残して、ティルアは歩き出したのだった。




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