金策
相変わらずウィードは、旅籠の一室で暇を持て余していた。
彼がセイカと共に訪れた村で起こったことは、既にジロウへ伝えてある。
ウィードの言葉を聞くなり、ジロウが旅籠から出て行ってしまったのだった。
この国のお偉いさんを無視して勝手に動くのもどうかと考えたため、ウィードが自主的に旅籠へ留まっていた。
セイカに頼んで散歩にでも連れて行ってもらいたいところだが、彼女は薪割りの仕事を頼まれて外出している。
また温泉でも入りに行くか、と思っていると、障子の向こうから足音が聞こえた。
「ワカメはん、おとなしゅうしてはります?」
「ああ、ちょうど今、抜け出そうと思ってたところなんだ」
「……懲りんお人やなぁ」
障子が滑らかに開き、呆れた顔を見せるユウメであった。
自分の部屋であるかのように堂々と入ってきて、ウィードの隣に座った。
長い座卓の上にある御茶請けの煎餅を手に取り、勝手に食べ始める。
「あ、そやそや。ジロウ様からの伝言を持って来たんやけど」
「それは助かるな。暇だったんだ」
意味も無く葉を縦横無尽に動かしているウィードに対し、ユウメが座卓へ頬杖をついて煎餅を齧った。
「ほんなら言うけど、《古代遺跡》の探索を頼みたいらしいんやわ。どないしはります?」
「それは構わないが、準備が足りないぞ」
「準備て、何をしはりますの?」
喉が渇き始めたユウメが、勝手に部屋の水瓶から柄杓で水を掬い、喉を鳴らして水を飲む。
ウィードは座卓に葉を乗せながら言った。
「食料とかロープとか必要だろ。俺、金もってないぞ」
「なら、うちが出しますえ。そのくらいなら、必要経費で済みますやろ」
「いや、それなんだがな。俺も少しは自分の自由にできる金が欲しいんだ。まあ、売れるものといったら、俺の葉っぱくらいなものだけどな」
「――――幾らしますえ?」
即座に胸元から財布を取り出そうとするユウメだった。
彼女の口元から涎が垂れている。
「……やっぱり止めとこうか。全部むしられそうだ」
「えー、いけずやわ。セイカはんばっかりずるいんと違いますえ? うちも食べてみたいわぁ」
柄杓を抱えるように持ち、目を潤ませて見つめてくる。
それが演技にせよ、世話になっている彼女の頼みを断り続けるほど、ウィードも非情では無かった。
「それなら、少しだけだぞ。あと、セイカには内緒だからな」
「え、くれはるん? やったわー。言うてみるもんやねぇ。うんうん、わかってますえ。二人だけの秘密にしますさかい、遠慮せんとくださいなっ」
「……まったく」
ウィードは柔らかそうな上の方の葉を選び、葉先を他の葉で挟んで千切った。
ねばぁ、と透明の粘液を垂らしながら、葉の欠片がユウメの手に渡される。
「はぁー、これがワカメはんのワカメやんなぁ」
「そりゃそうだろ」
千切った葉を再生させながら、彼が頷く。
正直、自分で自分を食べようとも思わないため、自分と言う海藻がどれだけ美味だろうが興味は無い。
問題があるとすれば、あまり美味し過ぎるとそれが元で襲われそうだという懸念くらいなものだった。
「ほんなら、頂きますえ」
ユウメが両手を口元へ寄せる。
磯のような臭いがするかと思えば、そんなことは無かった。
むしろ、澄んだ清流を連想させる香りだった。
まず先に、唇へ粘液が触れた。
それは瑞々しい葛餅のようで、微かな甘みさえ感じられる。
涼やかな粘液に包まれた海藻が、驚くほど簡単に口の中へ納まった。
「ふ、ふむぅ――――」
ユウメの口内で、旨味の泡が弾けた。
粘液が口蓋を隈なく蹂躙し、溢れる唾液と渾然一体となる。
轟々と咽頭へ押し流される甘露の奔流と、鼻腔から抜ける芳醇な香りの重奏が、身体の芯を突き抜けんばかりに立ち上った。
彼女の膝が、崩れ落ちる。
美しい味というものが、そこにあった。
真に味わった者にしか許されない恍惚をその身に受け、何か人として大事なものを漏らしそうであった。
ただそれでも、彼女は大事なことを残していた。
まだ葉を噛んでいないのである。
彼女が粘液の歓喜に震えながらも、恐る恐る葉を噛みしめた。
「んんんんんぅ!」
まさに、幾重にも重ねられた旨味の洪水を思わせる食感であった。
一噛みするごとに世界が変わり、口の中を消し去れらたような感覚さえあった。
例えるなら、宇宙そのものが顕現したと言えるだろう。
全ての味が凝縮された生命が、今、舌の上で生まれ落ちた瞬間だと思える。
彼女は絶頂を迎えた。
「――――っ」
そして、すべてが喉の奥に落ちた。
沈まぬ太陽が無いように、全てのことに終わりは訪れる。
全てが嘘であったかのように、口の中には僅かな痕跡さえも残っていなかった。
辛うじて脳裏に焼き付いてるのが、美味しかった、という言葉のみだ。
ユウメの瞳から、涙が一粒だけ、落ちた。
それが喜びから生まれたものなのか、哀しみからうまれたものなのか、本人でさえ分からなかった。
ただ、始まりと終わりを強引に見せられた後の、爽快感と物悲しさを抱えていた。
「……大丈夫か?」
ウィードが言う。
傍から見ていれば尋常ではない状態だった。
瞳孔が開いてんじゃないか、と疑わずにはいられないほどであった。
「あ、はは、腰が抜けて立てまへんえ。それに、膝が笑ろうてますわ。何やのん、これ。ほんまに食べ物なん?」
「どうだろうなぁ。詳しくはわからん。慰めにならないかもしれんが、今まで食べた奴は二人しかいないけど、どっちも腹は壊してないぞ。生きてるし」
「ほんまに慰めと違いますえ。……まあ、ええ経験さして貰いはりましたわ。まさか葉の欠片ぽっちでユウメさんがいかされるとは、夢にも思って見いしまへんでした。うちの完敗やわ。どうします? やりはるんなら今のうちやえ?」
「何もしないから。それより、こんなんじゃ売り物にもならないなぁ」
ウィードが葉を組むと、笑みを浮かべるユウメであった。
「そんなん、売り方次第ですえ。それこそお菓子に混ぜて販売すれば、立派な媚薬――――」
「俺の葉をいかがわしいものに仕立てるのは止めろ。唯でさえ、見た目が怪しいんだからな」
「今さらですえ。まあ、粘液を薄うして寒天餅にするのは、ええ考えやと思いますけど。それやったら、うちでも作れますよって」
「そんなことしてていいのかなぁ」
「先立つものがないと困りますえ? その辺はジロウ様も目くじら立てやしまへん。うちも商売柄、あんまり顔出して商売できひんから、そこは馴染みの御茶屋に卸す感じでやりますえ」
「まあ、そうだな」
一文無しで魔王国へ帰れるわけも無いことは確かだった。
セイカに協力してもらうにせよ、彼女の船賃くらいは絶対に必要となる。
ウィードも何もせずに金を貰う訳ではないので、気が咎めることもない。
「それじゃあ、任せていいか。売り上げは折半にしてくれ」
「うちが取り過ぎのような気がしはりますけど……まあ、良い様にさせてもらいますえ」
「ああ、頼む。粘液はどれくらい必要だ?」
「そうやねぇ。取り急ぎなら、そこの水瓶に入るだけ入れて貰ろうたらええよ。中に入っとる水で、ちょうどええくらいになりはるやろ」
「わかった」
ウィードは水瓶に近寄り、開口部の縁に葉を乗せた。
葉から粘液が染み出し、蜂蜜の如く水瓶へ落ちていく。
ウィードの体格からは考えられない程の粘液を絞り出し、水瓶が擦り切れ一杯になった。
「どうやって運ぶんだ?」
「それはまあ、頼みますえ?」
震える脚がようやく使い物になったのか、立ち上がるユウメだった。
彼も暇を持て余す身なので、水瓶を軽く持ち上げて、厨房へ向かおうとする彼女の後を追う。
廊下を進み、竈のある炊事場へ入って行った。
少し広まった土間へ水瓶を置き、邪魔にならない場所へ座った。
着物を腕まくりしたユウメが、鍋や大きな御椀を持ち出してくる。
竈に火を入れて準備を整え、そうしている間に材料を用意していた。
寒天や片栗粉を揃えながら、高価な砂糖の入った瓶も並べる。
「ふぅん。そうか」
料理をする光景があまりウィードの故郷と変わりないことが、彼には不思議だった。
妙な懐かしさを覚えて、感慨に浸る。
無性に家族に会いたくなってしまったが、葉で茎を支えながらその感情を味わうことにする。
ユウメが段取りよく料理をこなすことについては意外だった。
その感情が伝わったのか、彼女が妙な笑みを浮かべた。
「これでもうちは、旅籠の女将ですえ。板前もおりますけど、料理が出来んわけでもないんよ」
「うん、すまん」
「え――――」
驚いた顔をするユウメだった。
あまりの驚き様に、ウィードも困惑する。
「どうしたんだ」
「いややわぁ。一瞬だけやけど、うち、ワカメはんが人間の姿に見えはりましたわ」
「へぇ、珍しいこともあるもんだ」
ウィードにとっては人間の姿の方が普通なので、驚くこともなかった。
戻るものなら戻ってくれ、と思っても、己の身体が海藻であることは気配だけでわかっていた。
段々と料理が出来上がっていく。
甘い香りに釣られたのか、一仕事を終えたセイカが炊事場にふらりと現れた。
「これは師匠、飯場で会うのは珍しいでござるな」
「そうだな。食材と間違えられても困るからな」
「はっはっは、これは異なことを仰られるのでござるな。師匠に包丁を入れられる者が、この周辺にいる訳はないでござろう」
「誰かさんには斬られたけどな」
ウィードが葉を向けると、ユウメが顔を逸らした。
「と、ところで、ユウメ殿は何をしておられるのでござるか? 夕飯には早すぎると思われるのですが」
「お菓子作りだな。つまみ食いするなよ」
「ど、努力致しまする」
彼女がウィードの隣に、当たり前のように座った。
二人でユウメの作業を眺め続ける。
ぽつりと、彼が呟いた。
「まだ寒天餅とやらを食べたことは無いが、きっと美味しいんだろうなぁ」
「甘味はどれも美味しいでござるよ」
口元を綻ばせるセイカであった。
そんな彼女を見ると、年相応の少女と違いは無かった。
誰にもわからないように、小さく息を吐くウィードであった。
今度、御茶屋に連れて行ってやろうと思ったのだった。




