王の帰還3
魔王の執務室の前で、ユーゴは一人で立っていた。
分厚い木製のドアから、嫌な雰囲気が漏れ出してきている。
先程まで一緒にいたカールなど、「やはり息子が気になりますので失礼します」と言って即座に逃げ出していた。
「これは……流石に」
腕の一本くらいは持って行かれる覚悟を決めたユーゴであった。
ドアをノックして、返事を待つ。
しかし、反応が無い。
「……入るぞ」
臨戦態勢で、重いドアを押し開いた。
決して華美ではないが、それなりの造りをした部屋があった。
壁際の本棚はいつも通りだった。
執務机には誰もいない。
応接ソファに美女――――シアン・コルネリウスが座っていた。
深緑の軍服を着こなし、タイトスカートから伸びた白い足を交差させている。
からん、と氷がグラスを叩く音がする。
テーブルの上には、同量の金と取引される代物の高級ブランデーがあった。
それと空のグラスが二つ、テーブルに並べられている。
ユーゴは顔に手を当てながら天井を仰いだ。
火棒を飲み込むように嚥下した後で、言った。
「すまない、シアン」
「……久しぶりに会って、最初に言う言葉がそれですか」
シアンはこちらを振り向かなかった。
高級ブランデーを手に取った彼女が、琥珀色の液体をグラスに注いだ。
そして、音も立てずに一気に煽った。
テーブルに空のグラスが置かれる。
「やり直しです」
「お、おう」
ユーゴは一旦、執務室の外に出た。
もう一度、部屋に入りなおしてから言う。
「ただいま、シアン」
「言葉が足りません。もう一度」
「……愛してるよ、シアン」
「はい。許してあげますから、今すぐ私の隣に座って下さい」
ユーゴは無言でソファまで近づき、顔を伏せているシアンを気遣いながら腰を下ろした。
懐かしい匂いがしたことに気づいた。
グラスにブランデーが注がれる。
彼女にそれを勧められれば、断る理由は無い。
手に取ったグラスを傾けると、鼻腔の奥に芳醇な香りが広がる。
穏やかな温かみが、喉を浸透しながら落ちて消えた。
息を吸うと、先ほどの豊潤さがそよ風のように抜ける。
「確かに、美味い」
「そうですか」
そ、とシアンが手を伸ばしてきた。
ユーゴの首筋に両手が回され、身体を預けてくる。
「……ティルアの匂いがします」
「さっきまで一緒にいたからなぁ」
「知っています」
「そりゃそうか――――っ」
彼の首筋に、シアンの牙が突き立った。
皮膚に穴が開いて、熱い血が流れる。
だが、血よりも熱い舌が傷口に這わされた。
「よく血が流れる日だな」
そのうち本当に食われかねないな、とユーゴは心の中で呟いた。
シアンも彼の心の中を察して言う。
「そう思うのなら自重して下さい。ユーゴが食べて止まるなら――――私、食べますよ」
「ん、ああ。それも悪くは無いが、止めておこう」
首に彼女をぶら下げたまま、もう一度、手の中のグラスに口を付けた。
すると、間髪を入れずにシアンが顔を近づけてきた。
唇を重ねると、ブランデー以外の熱いものが混ざり合った。
どちらともなく顔を離し、飲み込んだ。
シアンが氷青の瞳を蒼く燃やしていた。
「ここで、というのも良いですが、今日は止めておきましょう」
「……え」
「おあずけです。それに、長旅の後でティルアの相手をして、疲れているでしょう?」
「そ、そんなことは無いぞ? 俺、平気だから」
「私は待ちくたびれました」
少女のような微笑を浮かべられる。
首に回されていた手が離れ、彼女がソファから立ち上がって、一歩離れた。
その仕草が、何より心に堪えたユーゴだった。
もう自分を呪うしかない状況である。
今度はユーゴが顔を伏せてソファで座っていると、上から声をかけられた。
「しばらくは、この国に居られるのでしょう?」
「というか、まあ、今のところ何の予定もないな。どこかで戦争でも起きれば別だが」
ため息交じりに言うユーゴだった。
それを見て、我が意を得たり、とシアンが腕組みをして言った。
「では、『そういうこと』をする機会もあるでしょう。……あと、ユーゴにお願いがあるのです」
「水臭いな。何でも言ってくれよ」
「それでは――――騎士になっていただけませんか」
「はあ?」
シアンの思ってもいなかった言葉に、ユーゴは面喰った。
何がどうなっているのか彼が聞き出そうとする前に、シアンが口を開く。
「あの娘の、フィーナの為なのです。あとついでにですが、周辺国も巻き込まれかねません」
「フィーナ? あいつに何かあったのか」
半身を乗り出すユーゴを、シアンが視線で抑えた。
ユーゴは渋々と、ソファに深く座りなおす。
「説明しますから、落ち着いてください」
「頼む。……そういえば説明で思い出したが、シアンの育児法っておかしくないか」
「え? 普通だと思いますが。私もそうやって育てられましたし」
「父親を殺す、とか言ってたぞ」
「はい、そうです。私も言っていた覚えがあります」
「本気か」
「ええ、それでも思春期を過ぎれば、大抵は解決しますけれど」
「思春期? 魔族の思春期っていつのこと――――」
「殺しますよ」
「ごほん。あー、つまり、何とかはなるんだな」
「そうですね。それに関しても、これからユーゴにどうにかして貰います」
「どうにか、って言われてもな」
「ユーゴ、どうか娘を救ってあげてください」
彼の顔を覗き込むようにして、シアンが言った。
その言葉を彼女からお願いされて、断ったことなど一度も無かった。
そして、これからも断ることは無いと、ユーゴは誓ったのだった。