瓢箪
夕暮れ時が過ぎ、空が今にも暗く染まりそうな頃だった。
旅籠の自室に、キシマの姿は見当たらない。
夕餉までには戻ると言っていたはずなので、約束の時間はもう間もない。
こうなれば悪い予想が膨らむのは仕方がないことで、ミウミが落ち着かずにいた。
「よし」
ミウミを安心させる様に、ウィードは立ち上がった。
「遅い様だから、俺が迎えに行ってこよう」
「あ、ならば拙者も同行するでござる」
腰を上げたセイカを、葉で遮った。
彼はミウミを一瞥して、頷いた。
セイカが首を捻る。
「はあ、ミウミ殿も連れて行くのでござるか?」
「いや、連れて行くわけないだろ。面倒見ていてくれ、って意味だったんだが」
「ああ、なるほど。任せるでござる」
素直過ぎて目配せすら通用しないが、戦力としては頼りになると思いたいウィードであった。
「ごめんね。お爺ちゃんのこと、お願いします」
ミウミが居住まいを正して、頭を下げる。
彼女の肩が震えていた。
村人全員が消えてしまい、キシマまでいなくなってしまえば、本当に天涯孤独となってしまうのだ。
ウィードは少しだけ、人間だった頃の故郷のことを思い出した。
親代わりだった老夫婦の姿が脳裏に過る。
自分の過去は変えられないが、ミウミの未来を助けることは出来る。
「……心配しなくていい。ちょっと、やる気が出てきたからな」
彼が一歩踏み出すと、セイカの全身が総毛立った。
思わず腰の刀に手をかけていた程である。
「ん? 何やってんだ」
それに気づいたウィードが尋ねると、セイカが何事もなかったことに気づいた。
ウィードから一瞬だけ漏れ出した闘気に当てられたのだった。
「いえ、申し訳ござりませぬ。行ってらっしゃいませ」
何故かセイカまで真面目になり、深々と頭を下げた。
彼女が顔を上げると、懐から白い襷を取り出して、着物の袖を巻きつけた。
討ち入りでもしかねない格好で、意気揚々と立ち上がる。
「さて、拙者は庭に篝火を焚いておくでござる。あと、長槍が無いか、女将に聞いてくるでござる」
「いや待て。何を勘違いしてるか知らないが、俺はキシマさんを探しに行くだけだ。だからその、戦争でも始めるような恰好は必要ないからな。いつも通りにしてろ」
「おお、なんと。師匠にとって、戦争とは普段通りということでござるか。つまりは、常在戦場の心得でござるな? 確かに戦場だからといって特別に気張れば、いずれは疲れてしまうと言うもの。常に戦場の如くあれば、戦うも休むも自在という訳でござるか」
「ああ、もうそれでいいから。座ってろ」
説得するのが面倒になってきたウィードだった。
セイカが鼻息を荒くして、わくわくしながら正座するのを見届けた彼は、障子を開いた。
すると、廊下の奥から女将――――ユウメが歩いてくるのが見えた。
「あら、どないしはったん? 今からお出かけは、ちょっと遅いですやろ。夕餉の支度もしますさかいに」
「悪いな。キシマさんが帰って来てないんだ。迎えに行ってくる」
「ワカメはんが行きはるん? うちのもん、出させよか」
ユウメが腕を腰帯に添えながら、首を傾げる。
彼女の声音には、否定的なものが含まれていた。
ウィードは不自然なものを感じたが、結局は飲み込んだ。
どちらにせよ、探しに行くことを諦めるつもりは無かった。
「俺が行くよ。夜は危ないし、それに何より、俺がミウミに頼まれたんだ」
「ふぅん、良い顔しはるんやね」
あまり愛想の良くなかった顔が、急に緩んだ。
葉を見て『良い顔』などと適当なことを言う割には、魅力的な笑顔だった。
「えらい男前なこと言いよって、セイカはんが泣きますえ?」
「いや、あれは部屋で嬉しそうに正座してるぞ」
「……どういう修行してはるん?」
「さあな。本人に聞いてみるといい。それで、俺は行っていいのか?」
ウィードが葉を拗らせながら言った。
断られても出て行くつもりだった彼に、わざとらしく困った顔を見せる女将だった。
「どうぞ、行かはったらよろしいよ。でも、うちの旅籠から魔物が出たって、有名になるやろね。それに、あんたらカラハギはんを敵に回してるんやってねえ? そんなら、うちらも重罪やわ。どないしましょ?」
暗に『大人しくしておけ』と言われていた。
キシマが彼女にどこまで事情を話しているのか分からないウィードだが、脅しめいた言葉が気にかかった。
「ふん。そこまで知っているのに、どうして俺たちを泊めたんだ」
「野暮なこと聞いたらあかんえ。ええ女には、秘密が多いんよ」
ユウメが流し目をしながら、人差し指を立てる。
男なら鼻の下を伸ばしたくなるほど魅力的だが、残念ながらウィードに鼻は無かった。
そして彼の鋭敏な感覚が、ユウメへの違和感を覚えていた。
少し迷ったが、忠告しておく。
「秘密、か。まあ、暴かれたくない秘密なら注意するといい。腰帯に短刀を仕込むよりは、鉄扇か鉄笛がいいんじゃないか? あと、君の身体は戦士のものだ。生半可な修練で、それだけの身体にはならないだろう。まあ、元冒険者ってところかな」
「――――あんた、何者なん?」
ユウメの視線に、僅かな殺気が混じった。
図星を突かれて、いかな歴戦の冒険者でも落ち着いていられなかったのだろう。
腰帯に添えられていた彼女の手が動いた。
「……まったく、温泉に忍び込んだのも、うちが冒険者かどうかを確認するためやったんやね。ほんま、抜け目ないわぁ」
「すまん、誤解だ。それと、臨戦態勢になったセイカの近くで、少しでも殺気を漏らさない方がいい」
ウィードの言葉が終わるや否や、障子を蹴破ってセイカが現れた。
「うおりゃあー! 殿中でござる! ……ん? あれ、女将でござるか」
「え?」
突然の事態に動きを止めてしまうユウメだった。
それを執り成すように、ウィードが葉を上げて言う。
「ああ、悪いな。俺が女将の尻を触ったから怒られたんだ。気にするな」
「そうでござるか。それは失礼つかまつりました。ではごゆっくり」
セイカが蹴破った障子を片付けもせず、部屋に戻って行った。
その部屋の中からミウミの声がする。
「な、何があったの?」
「いやあ、師匠が女将の尻を触って怒られたそうでござる。……はて、拙者は尻を触られたことは無いでござるがなぁ。どうしてでござろう」
「やっぱり! あれはエロい魔物なのよ。優しい振りして安心させた所で、いやらしいことをするつもりなのよ!」
「それはどうかと。師匠が何かするつもりなら、とっくに皆殺しでござる」
「命を奪われるより非道なことをするのよ!」
ミウミの被害妄想が過熱し、それに首を捻るセイカとの喧騒が飛び交っていた。
片眉を曲げるユウメが、呆れて言う。
「えらい信用されてますなぁ、ワカメはん」
「あいつら……」
無論、ユウメの言葉が皮肉なのは知っていたが、反論の余地が無かった。
微妙な空気が流れた後で、ウィードは根を動かした。
「とにかく、キシマさんを迎えに行ってくる。見つからないようにするさ」
「――――その必要はない」
女将の背後から、ゆらりと素浪人が現れた。
鞘に入ったままの刀を肩に担ぎ、口に若枝を咥えている。
無精ひげを生やし、腰には酒の入っているであろう瓢箪を下げ、いかにも風来坊といった様相だが、醸し出す雰囲気は優雅なものだった。
「ジロウ様、何で出て来はるん!」
ユウメが慌てて素浪人――――ジロウを庇う位置に立った。
それを邪魔くさそうに手で押しのけ、どっかと廊下に座り込んだ。
「さて、ウィードとやら。まずは一献」
ジロウが擦り切れた着物の懐から、竹の猪口を二つ取り出し、それぞれに瓢箪から酒を注いだ。
そのうち一つを手に取って、ウィードに押し付けてくる。
「余の酒が飲めんのか……確か、飲食出来る魔物と聞いていたが?」
「素浪人にしては、偉そうだな」
ウィードは根を下ろして胡坐をかき、竹の猪口を受け取った。
若芽の辺りに流し込み、猪口を返す。
「ほぅ、良い飲みっぷりよ。余の威光を受けておきながらその態度、相当に場馴れしておるな? 王族にでも飼われていたか」
ジロウが無精ひげを撫でながら、好奇の眼を細めた。
含み笑いを漏らしつつ、自分の猪口で酒を煽り、瓢箪を床に置く。
「そなた、作法は気にする方か?」
「海藻の身で作法が守れるとも思えないけどな」
戦場を転々としていた時期もあるウィードにとって、多少の不作法など気にならない。
ジロウも堅苦しいのは嫌いなのか、膝を立てて頬を歪める。
「言うではないか。食えない奴め」
「食べれはりますで?」
澄ました顔で口を挟むユウメに、ジロウが横を向いた。
釈明じみた言葉を紡ぐ。
「そなたの意見を無視したのは他でもない。余がこの魔物を気に入ったからだ。それとも、余に手をついて謝れとでも?」
「そんな滅相もありまへん。ただ、ジロウ様が出はるほどのことでもないかと」
「素性を言い当てられて粗相のあった、そなたの尻拭いだ」
嗤うジロウと口を曲げるユウメの間に、ウィードが葉を挟んだ。
「別に君たちが誰であろうとどうでもいいが、キシマさんは無事なんだな」
「そう急かずとも、こちらで保護している。むしろ感謝して欲しいくらいだぞ」
「保護、だと」
根を浮かしかけたウィードだったが、ユウメが背後に回り込んだ。
ジロウが片目を瞑って言う。
「そうとも。噂の辻斬りに襲われている所を、余の部下が助けたのだ。おかげで優秀な忍びが手傷を負った。その責任、どうしてくれる」
有無を言わせぬ迫力があった。
幾多の重責を担い、それでも成すべきことを成す者の言葉だった。
ただし、ウィードも元魔王である。
「感謝するよ。その怪我をした者は、ここへ連れて来るといい。出来る限りの治療は約束する。――――それはそれとして、君が部下を使って、俺たちを監視していた事への釈明を聞かせてくれるつもりはあるか?」
彼は無造作に、床へ置かれている瓢箪を取り上げ、酒を煽る。
返杯とばかりに、その瓢箪をジロウへ投げ渡した。
瓢箪を片手で受けたジロウも、笑って瓢箪に口を付けた。
「よかろう。ああ、無論、聞かせてやるとも。どちらにせよ、そなたらは関係者だ。今さら逃げられんし、逃がすつもりもないからな。こんな面白――――もとい、興味深い魔物を放っておくことが出来るかよ。なあ、ユウメ」
問いかけられた女将が、顔に手を当てて落ち込んでいた。
そして腰に手を当て、溜息を吐く。
「はあ、もう好きにしはったらええです」
「ははは、余は最初から好きにしておるわ」
快活なジロウの笑い声が響く。
何事かと、障子の蹴破られた部屋から顔だけ覗かせている二人がいた。
ウィードは瓢箪を奪って酒を煽りつつ、事態の変化を嘆く。
「……面倒なことになったもんだ」
彼の愚痴を心底理解したのは、海藻の背後で口を尖らせるユウメただ一人だった。
日は山陰に落ち、夜の帳が下りる。
ウィードの心情など関係なく、夜空に星が輝き始めた。




