王の帰還
ユーゴウッド・ゲイトは、少し疲れた表情を浮かべていた。
手元にあった銀の水差しから、直接口を付けて水を飲み干す。
「ぷはぁ」
「……行儀が悪いぞ、ユーゴ」
目を細めたティルアが言う。
ユーゴは苦笑いを浮かべた。
「すまん。旅をしていると、どうもこういう癖が抜けないな」
銀の水差しを元の位置に戻し、腰かけていたベッドから立ち上がった。
彼は衣服を身に付けておらず、その身体には傷跡しかなかった。
右手と両足は、鈍く光沢のする義手義足となっており、左手の指にも欠損がある。左胸には大きな裂傷痕が残されていた。
そして、未だ傷の治りきっていない脇腹には、血の滲んだ包帯が巻かれていた。
「ユーゴ、もう充分に救ったのではないか?」
ティルアが、聞き分けのない子供を諭すような、優しい声音で言った。
そして、ベッドに顔をうずめた。
ユーゴはそれを見て笑った。
「どうかな? 俺はまだ戦えるはずなんだけど」
「……そうか」
彼女も乾いた笑いを浮かべた。
もう何度も、何年も繰り返した言葉であった。
結果が分かりきっていても、お互いに言葉にすることをやめなかった。
話題を変えたくて、ティルアが言う。
「それにしてもユーゴ。あれは卑怯だ。あんなにされたら、私とて腰が立たなくなるというものだ」
彼女はキングサイズの豪奢な装飾が施されたベッドの上で、身を捩った。
薄いシーツの上からでも形の分かる艶やかな腰の辺りが、小刻みに震えていた。
「お前の底なしの体力に、真正面から戦う訳ないだろ」
そう言って、ユーゴは右手の義手を動かして見せる。
「まったく、私と触れ合える数少ない生身で頑張れば良いものを」
「おい、どこに話しかけてんだよ」
「ユーゴに決まっているではないか。さあ、元気を出せ。まだ朝になったばかりだ」
股間に向かって話しかけるティルアであった。
「だから、もう朝だって。俺も寝ずに頑張っただろうが。まだシアンにも会えてないんだぞ」
「ああ、そうだったな。元魔王のくせに、魔王城で追い返された奴がいたな」
「まあ、何年も放りっぱなしなら仕方ないけど、シアンに会えなかったのは辛い」
「そうだぞ。仕方ないのだ。姉上だって忙しいのだ。もう一日くらいいいのではないか」
「後でな」
「そう言って三年くらい戻ってこなかった男を私は知っているぞ」
「……まあ、なんだ、すまん」
「悪いと思うのならば、こちらへ来るのだ」
シーツを蹴り飛ばしたティルアが、ベッドの上に座り込んだ。
真っ白な肌が朝日に輝いて眩しく、長い金髪が彼女の身体を流れていた。
「ああ……」
渋々とユーゴはベッドに上がり、彼女の正面に座る。
するとティルアが四つん這いになってユーゴに近寄り、彼の下腹部に頭を埋める。
「――――痛っ」
そう言うものの、ユーゴは身じろぎひとつしなかった。
包帯が破られ、脇腹の傷を舐められていた。
彼女が満足するまで傷を舐め終わるのを待っていた。
そしてようやくティルアが頭を上げた後で、ユーゴは言う。
「魔族の習慣か何かか? それにしては初めて見たけど」
「さあ? まあ取りあえずユーゴの血が舐めたくなっただけだが」
「俺を食うつもりか」
「さて、な。また私を三年も放置するようであれば、食べてもいいかな、とは思っている」
「無茶苦茶だな」
そう言いつつも、嫌な顔をしないユーゴであった。
口の周りを血で汚しながら、花が咲くように笑うティルアが、ベッドに後ろ向きに倒れ込んだ。
「さて、もう今日は立てないし、寝ることにするぞ。そろそろ姉上にユーゴを返さないと怒られそうだしな」
「ん? ちょっと待て。もしかして俺が魔王城に入れなかったのって、お前の所為か?」
「そうでもないぞ。今回は順番を譲ってもらっただけだ。……時間は少し過ぎたかもしれないけどな」
「どれくらいだ」
冷や汗を額に浮かべたユーゴは、急いで足元に散らばっている服を拾い上げた。
ズボンに袖を通しかけて、慌てて脱いだ。
それを面白そうに見つめながら、ティルアが言った。
「姉上の頭に角が一本生えるくらいは覚悟する時間だな」
「え――――」
ユーゴの額から汗ではなく血の気が引いた。
服を着ながら走りだそうとすると、彼の背中に声が掛かった。
「あ」
「何だよ」
急いでいるのに立ち止まったユーゴだった。
ティルアが嬉しそうに顔をほころばせた。
「いま、ユーゴが漏れた」
「下半身関係を全部俺で喩えるのは止めろ。具体的な表現も駄目だ。わかったな」
「うん、そうではくてはな。ようやくユーゴが帰って来たと実感したぞ。お帰り、ユーゴ」
「ん、ああ。ただいま」
毒気を抜かれたユーゴは、それ以上何も言えずに、ティルアの寝室から出ていくのだった。