導索
ユーゴは、永遠蜘蛛――――アラクニドの進行方向に向かって走っていた。
葉枝の切れ間から覗く空を見てみれば、白い船体が浮かんでいるのが見える。
以前に殺されかけたことがあるので、忘れようとしても忘れられない異物だ。
いつまた光の柱が落ちてくるかと思うと不安にもなる。
しかし、彼の背後を走るオリビアが、別のことを指摘してきた。
「おい、気をつけろ。何かいるぞ」
「ああ、知ってる」
白い船体が浮かんでいるのであれば、こちらを向いて不器用な笑顔で立っている女性がいても不思議ではない。
アレク・レオの娘――――アリアドネが叫ぶ。
「こちらに来てください!」
「……わかった」
彼は頷いてから振り返り、背後に居るオリビアへ目線だけで合図を送った。
アルベル連邦が罠を仕掛けるには好都合な場面だが、アリアドネの必死さを見る限りは罠ではなさそうである。
彼女に走り寄ったユーゴは、息も切らせずに言う。
「良く俺がわかったな」
「はい。一度、『糸』を使った方を違えることはございません。それにしても、ご無事で何よりでした」
安堵の息を漏らすアリアドネの言葉に、嘘は無い。
だからこそ、オリビアが口を挟んできた。
「貴様の父親がやったことだろうが。我も巻き添えを食らうところだったぞ!」
「……えっと、この方は新しい現地妻様でしょうか? 流石はユーゴ様ですね。クリスタルムの女性をも手籠めにするとは……」
感慨深そうに頷く彼女だった。
英雄色を好む、という言葉を好意的に受け止めているのだろうが、勘違いされる方はたまったものではない。
「いや、勘違いするな。こいつは俺の部屋に居た猫だよ」
「何とも可愛らしい子猫ちゃんですね。無論、奥様方には内密にしますから、心配いりません」
「こんな姿だが、元はスミロドンだからな――――ん? ちょっと待て。今、何て言った?」
決して聞き逃せない言葉を聞いたユーゴは、アリアドネの両肩を掴んだ。
「シアンとティルアがアルベル連邦側にいるのか」
「はい、正式な謁見というわけではありませんでしたが、今後のこともあり、お話させて頂きました。お二人とも、お美しい方でしたね。そういえば、そちらの方にも面影が似ていますね」
口元を手で隠してぎこちない笑みを見せる彼女であった。
対するユーゴは、心情を隠さない。
「今は、似てるとかどうでもいいんだ。二人は捕らえられているのか?」
「そのようなことはありません。現在、ヴァレリア王国とアルベル連邦は協力関係です。ジゼル様が仲介役となって、この《クリスタルム》攻略戦に限り、共闘体制を整える条約を結んでいます」
「そうか」
彼は短く呟き、横を向いた。
どういう条約を結んだのか定かではないが、人類以外を敵視しているアルベル連邦に方針転換させたのはジゼルの政治力だろう。
それに、シアンが一緒にいたのであれば、条約締結のために無理難題を持ちかけられていても反論してくれているはずだ。
ユーゴが難しい顔をして考え込んでいると、アリアドネから声をかけられた。
「そのことで、ジゼル様からお話があるそうなので、お迎えに上がりました」
「どうせろくでもない話なんだろうが、まあ、俺からも話はある。……で、何処に行けばいいんだ?」
「はい、ですから、私の『糸』を使います」
「今度は素っ裸にならなくてもいいんだよな?」
『糸』で呼び出された過去の経験を思い出すと、避けては通れない条件だ。
いきなり国家首脳やジゼルの前に裸で現れるわけにもいかないのだ。
彼女が首を捻り、言った。
「服を脱がせる能力は無かったと思いますが……大丈夫です。そのようなことで動じる方々ではありませんよ」
「見られること前提なのか。それは俺が気にする」
「ですが、『糸』以外であの船――――『アーク』に搭乗するためには、余程の困難があると思われます」
「……そうだよな」
ユーゴが完全変貌して空を飛んだとて、服の問題は解決しない。
むしろ、反乱した敵と間違えられて撃ち落される可能性もあるし、協力関係を反故にするための間違った意志を伝える羽目になるかもしれない。
観念した彼は、苦いものを飲み込むように言った。
「頼む」
「わかりました。では、そちらの現地妻様も――――」
胸元から取り出した糸玉を持ちつつ、話しかけたアリアドネだった。
それを興味深そうに見つめていたオリビアが、偉そうに鼻で息を抜く。
「ふん、我にポイントの設定なぞ必要ない。その装置で『道』を繋げたならば、自力で何とかする」
「何とか、出来るのですか」
怒りの表情で驚く彼女の表情に、警戒を現すオリビアだった。
「悪いか。我はユーゴほど貴様を信用していない。我だけ『狭間』へ置いて行かれるのも面倒だ。そんな顔で脅しても無駄だぞ。我の実力であれば、貴様を消し炭にするのは容易いことだ」
今にも喉の奥から唸り声を上げそうな人型スミロドンである。
彼女の表情は不器用なだけだから、とユーゴが説明しようとしたところ、アリアドネが丁寧に頷いていた。
「流石はクリスタルムの方ですね。この魔導具のことも熟知なさっているのであれば、何も言うことはございません」
「当然だ。元々、その技術は我々のものだ。どうせ女王から奪った情報を元に構築したのだろう。その原動力についても知っているのだがな」
「ご慧眼、恐れ入ります。では、お時間もございませんので――――」
糸玉が、ユーゴの胸に押し付けられた。
周囲の色が淡くなり、消えていく光景が目に入る。
その中で、アリアドネが頭を下げた。
声すらも薄れゆく中で、微かではあるが、はっきりと彼女の声が届く。
「――――次があるとするならば、また、会いましょう」
「あ、おい」
ユーゴの声は届かない。
白く染まる世界で、聞こえるはずのない足音を聞いた。
姿も何も見えないはずなのに、耳元で声がする。
「……うぬ、これも『愛』か」
遠くなる意識の中で、オリビアの憐れむ声が聞こえた。
――――光が周りから集まってくる。
それが次第に色を帯び、形となり、物として認識するまで、そう時間は必要としなかった。
ユーゴは椅子の並ぶ講堂のような場所へ立っていた。
彼の背後には、腕を組んでふんぞり返っているオリビアの姿もある。
それに一安心して、誰かに声をかけようとしたところ、一人の男が立ち上がって短銃を構えた。
「動くな」
その言葉に殺意は込められていないが、動けば撃たれることに間違いは無い。
味方を巻き込もうと、被害を出そうと、撃つという決心が読み取れる。
その銃口は、間違いなくオリビアへ向けられていた。
彼女が偉そうなことを言い出す前に、ユーゴは口を開いた。
「俺は話をしに来ただけなんだけどな」
「そうか、なら、さっさと話せ」
銀髪の男が、銃口を微動ともさせずに応える。
彼の隣に座っていた黒髪の女性――――ジゼルが不満げな顔をして腰を浮かせた。
「で、その『端末』を連れてきたのは、どうしてかな。お姉さん、事と次第によっては怒るからね」
その場に居る全員からの視線が、ユーゴに集中する。
彼は視線の中に嫁二人のものが混じっていないことに気付き、安堵した。
「久しぶりかな、ジゼル」
「そうでもないわよ、私たちにとってはね。でも、心配していたのは本当だわ。後でシアンとティルアにも会わせてあげるけど……それにしても、こんなのまで連れてこなくても良かったわよねぇ」
ジゼルの声で、今度はオリビアへ視線が集中する。
敵国の中枢へ、いきなり現れたのだから警戒されるのも当然だろうが、普段の飄々としたジゼルが普段に無いほど敵意を見せていた。
ただ一人、敵意の集中する中で、オリビアが不敵に笑う。
「ふん、我はユーゴの味方をするだけだ。貴様らと慣れ合うつもりも無い」
「動くな、と言ったぞ」
「……うぬぅ?」
銀髪の男――――アレク・レオが容赦なく銃爪を引いた。
銃口が黒く輝き、破滅を呼ぶ本流が生み出され、オリビアを深く包み込んでいくのだった。




