蜘蛛
ユーゴの目に映る景色が、大きく揺れた。
どれだけ謁見の間から離れても安心とはいかないが、ようやく一息つける場所まで逃げてきたのだと思われる。
周囲は水晶の木々が立ち並ぶ森に囲まれていて、硬質な葉擦れの音が響いていた。
掴まれていた襟首から手が離され、ユーゴは自然と座り込む。
息も乱していない割には、青い顔をしたオリビアが呟いた。
「――――何故、我なのだ……」
「どうかしたのか」
体調を気遣うつもりで言った彼の言葉は、鋭利な視線の返答によって遮られた。
何か言いたげな口元を飲み込み、嫌そうに笑う。
「どうしたもこうしたもあるか。これで我も反逆者だ。責任を取ってもらおうか」
「ああ、助けてくれて感謝する。ありがとう」
素直に礼を告げるユーゴの態度を見て、彼女が唖然とした。
釈然としない様子で腕を組む。
「うぬぅ、そこは普段の軽口で返せばいいだろう。調子が出ぬ」
「いや、礼ぐらい言うだろ。それで、大丈夫なのか?」
ユーゴは本気で心配そうな顔をしていた。
オリビアの女王への崇拝は本物だった。
だからこそ、その女王を裏切ってユーゴに味方する理由がわからない。
彼女が気まずそうに視線を逸らし、俯いたまま口を開く。
「大丈夫だ。これは『愛』だからな」
「……はあ?」
思わず大きな声で聞き返すユーゴであった。
言われた彼女も慌てて手を横に振る。
「か、勘違いするなよ貴様! 我が貴様を愛しているのではない。………女王が貴様への『愛』ごと、権能を切り離されたのだ。そのおかげで、こちらは良い迷惑なのだからな!」
「そうか、すまん」
彼は眉根を歪めて、虚空を見つめる。
「しかし、『愛』って言われてもな。俺は女王にそこまで愛されるようなことをした覚えは無いんだがなぁ」
「馬鹿か貴様。『愛』に条件があると本気で思っているのか。『愛』に条件を付ければ契約だ。『愛』に報酬を求めれば労働だ。だからこそ女王は、受け取るも受け取らぬも自由だと仰ったのではないか」
「だったら、望まないものを押し付けるのが『愛』か」
目を閉じた彼の脳裏には、やはり家族がいた。
少し困った顔で笑うシアンや、真顔で妙なことを始めるティルア、笑顔を見せてくれるようになったフィーナ、大人びた溜息が似合うヨアネム。
自分が偽者であろうと何であろうと、それを護ることに変わりはない。
共に過ごした実感は、欠けた記憶のみだ。
しかし、何もない彼には、それこそが命を費やす価値がある。
――――否、それしかない。
若干の怒りすら見せるユーゴであったが、それを見たオリビアが鼻で息を抜く。
「ふん、いつ女王が争いを否定したのだ。嫌なら戦えばいい。我が『愛』ごと切り離された理由も、それで理解できただろう。……我は貴様の味方をするために存在している。それが女王の『愛』でなくて何と言う」
そう言われて、彼は口を曲げた。
万感の思いを込めて、今の心情を吐き出す。
「……はぁ、随分と面倒なんだな」
「『愛』が面倒で無かったことなど、古今東西どこにもありはしない。我でさえ困っている」
「よく言うよ」
「貴様の『愛』とやらを諦めさえすれば、世は全て事も無し、であろう。我も女王の元に戻れて万々歳だ」
「無理だとわかってて言ってるだろ。そう言うのは悪趣味って言うんだ」
「ふん、『愛』に善悪などつかない。我は『愛』のことについて語っている。よってこれは、ただの趣味だ」
「余計に悪いだろ。そんなことを趣味にするな」
呆れた表情で告げるユーゴに、彼女が薄ら笑いを浮かべる。
どちらからともなく、堪えられなかった笑い声が洩れた。
だが、それも束の間だった。
水晶の森が、総毛立つように怖気を振るう。
木陰から見える王城の背後から、鋭利な足脚が幾重にも突き出される。
地響きを鳴らして、その本体が姿を現した。
蠢く頭部には八つの眼が配置されており、胴体には装甲とも言うべき外骨格が備えられている。
硬質の胴体から延びた腹部が蛇腹の様相を呈し、生々しく動いていた。
これこそが、《クリスタルム》を最強と言わしめる最高戦力である。
その巨大な物体を睨みつけ、オリビアが呟く。
「もう立ち直ったのか、奴にしては早すぎる」
「奴って、ハリィか?」
「そうだ。永遠蜘蛛――――アラクニドは、奴の管轄だ。深手を負わせたはずだが……」
ユーゴとオリビアの二人が見つめる中、アラクニドがこちらに見向きもせずに、八本の足を進めていく。
方向は泉の外界で、その先に何があるかは、聞かされなくても理解できた。
彼は立ち上がって、アラクニドを睨む。
「あの蜘蛛を止めるには、どうすればいい?」
「物理的に破壊するのが一つの手だ。ハリィを消滅させても、別の奴が後を引き継ぐだけだしな。時間の無駄だ。それ以外では……女王と同じ権能を持つことしかない」
蜘蛛を睨みつけていた彼の視線が、オリビアに向けられた。
「出来るのか」
「馬鹿も休憩を挟んでから言え。演算処理能力で格段に劣る我が勝てるわけなかろう。箒で星を落とすようなものだ」
「……うん。つまり、演算処理能力が女王より勝れば、オリビアでも永遠蜘蛛を止められるって訳だ」
「我の話を聞いていたか?」
「もちろん。頼りにしてるよ」
「都合のいいことをぬかすな」
ふい、と彼女が首を横に向けたところで、ユーゴは視線を永遠蜘蛛に戻す。
あれの向かう先に、家族がいる。
まずは足止め、と考えたところで、馴染みのある殺気を受けた。
それは、ニヤニヤと道化じみた笑顔を張り付かせた男だった。
複数生えた手の一本が欠けているが、その強さに疑う余地は無い。
「あれぇ、ユーゴくん。駄目じゃないか。さあ、女王様の元へ戻るんだ。今なら僕が一緒に謝ってあげるからさぁ」
「エドガーか」
「そうだよぉ」
銀色の手甲が、水晶の輝きを反射して光る。
ユーゴは首を回しながら言う。
「謝る気は無い。推し通る」
「そう言ってくれると、思ってたんだよねぇ」
狂気の笑みが相貌を崩し、悪意と殺気が混然となして吹き上がる。
彼も笑う。
互いに譲れぬものがある以上、強者のみが権利を得る。
緊迫した空気の中、遠くに動くアラクニドが、雄叫びを上げるのであった。




