無刀
遠く高い青空に落ちた、一点の黒い影。
理屈や常識など遥か彼方に置いてきた様子で、船が空を飛んでいた。
それを見上げるセイカの眼には、幼い子供が見せる輝きがあった。
「ほほぅ。これはまた、斬り甲斐のありそうなものではござらぬか」
「また、ご冗談を……あの、剣士様?」
老人が微笑みを浮かべた後に、彼女の表情が変わらないことを知って冷や汗を流す。
騎士団に属していた老人が、空飛ぶ船を知らない訳がない。
アルベル連邦の最高権力者が乗る船――――アーク。
実際に斬れるかどうか以前に、王に向かって白刃を晒すのは処罰の対象だ。
剣が届かないからといって、石を投げるのも不敬罪になる。
他種族のエルフがそんなことをすれば、世論は一直線に過激な方へと傾くだろう。
説明の必要があると感じた老人が、小声で言う。
「あまり大きな声では申せませんが、あれは王の船です。武器を向けてはなりません」
「むぅん?」
セイカは腕組みをして、首を捻った。
王とは誰だろう、というレベルで悩んでいた。
興味があることには天井知らずに発揮される才能も、興味が無ければこの程度のものだった。
ユーゴが傍にいて説明してやればまだしも、今の彼女に理解力を期待すべきでは無い。
ヴァレリア王国から出立する前にジゼルから聞かされていた注意事項など、物の見事に頭から抜け落ちている。
そして今まさに、駄目な方へ向かって、彼女の思考回路に火花が散った。
「王でござるか。それは――――師匠を連れ去った者に近い人物でござろう」
「それは誤解です、剣士様。無謀な考えはおよし下され。伏して、伏してお願いいたします!」
頭を下げることで彼女の溜飲が下がるなら、幾らでも下げる腹づもりの老人だった。
例え、話の分かる純粋な心根のエルフであろうと、己が騎士団から引退していようと、王を攻撃する者を許すことは出来ない。
殺し合いとは悲惨なものだ。
一度始めれば怨嗟に終わりはなく、命果てるまで続いていく。
そうまでして守らなければならないものが――――王だ。
譲れないものはある。
ただし、それは何も老人だけに限ったことではない。
「あぁ、困ったでござるなぁ」
彼女にとっての師匠――――いや、世界そのものを奪っておいて、悠々と頭上を飛ぶとは、良い度胸をしている。
感情で剣を振るおうとは、彼女も考えていない。
そもそも、誰も殺そうとは思っていない。
ただ、師匠の居場所を聞きたいだけだ。
「挨拶くらいなら、良いでござろう?」
「あ、挨拶ですか。まあ、手を振るくらいなら構わないでしょう」
老人が安堵で息を吐き出した。
空を飛ぶ船に向かって手を振る程度なら、そこらの小僧でもやっていることだ。
危険など無い。
その確信は、セイカの技量を大いに見誤っていた。
そして、弟子の師匠を思う気持ちを、小さく見積もり過ぎていた。
刀があれば、聖域の扉を斬り裂き、木造船を斬り分かち、守護兵を岩盤ごと縦に斬り割った女である。
刀が無かろうと、安心すべきではない。
刀とは、役割だ。
斬るべきものを斬るために存在する『鉄』だ。
富嶽一刀流の奥伝は――――刀を必要としない。
武術に表と裏があるのなら、その理解では表で止まっている。
富嶽一刀流開祖が、才能の有り余る孫娘を野に放ったのは、真の意味で奧伝を見つけさせるためであった。
表は教えられても、裏は己で気付くしかない。
修得と会得は、別物である。
下地は開祖によって、完全に整えられていた。
ならば、今ここでセイカが奥伝を完全に我が物として、不思議ではなかった。
「……師匠、会いたいでござるよ」
セイカの言葉が、風に乗って流される。
刀の役割とは、斬るということ。
では、刀を持つ『手』の役割とは一体、何であろう。
刀で物を斬るには、手で刀を持たなければならない。
刀と手を繋いでやらねばならない。
セイカはユーゴと、手が繋ぎたかった。
ただそれを、伝えただけ。
小さく差し出した彼女の手が、その名残を見せている。
『それ』は意志を持って大気を伝わり、空を飛ぶ船――――アークへと辿り着く。
「あ、なっ!」
老人の両目が完全に開かれた。
安定した航行をしていたアークが、急に傾いたのだ。
老人がセイカとアークを見比べても、何ら違和感が見つからない。
小さく手を差し出したセイカの手が異様と言えば異様だが、そんなものでアークが墜ちるなら、まだ人差し指を向けて銃の真似事でもしていた方が納得できる。
そもそも、こんな娘が空飛ぶ船を墜とすなど、誰が考えられようか。
驚愕する老人の前へ、小さな影が差し込んだ。
「はい、セイカちゃん。そこまで」
何処からともなく飛び込んできたのは――――ジゼルであった。
防塁の上にある監視塔へ、急いで飛び込んできたのだろう。
その表情は、普段より真面目なものだ。
「それ以上は、駄目よ。ユーゴの行方が聞けなくなるわ」
「ああ、これは大師匠。何か用事でござるか?」
すべて気付いていたように、セイカが驚きもせず振り向く。
溜息を吐き、腰に手を当てたジゼルが言う。
「そうね。この国のトップと話をするから、誘いにきたのよ。おまけも一杯ついてきてるから、少し窮屈だけどね」
黒髪の美女が監視塔の下を示した。
そこには、一角獣騎士団の面々が完全装備で待機している。
その中の一人、エミールが監視塔へ上ってくるなり、傾いて飛ぶアークを見て激を飛ばした。
「総員、何があっても王を守れ! 戦鎧騎はアークの着陸地点を予測して急行しろ!」
「あら、大丈夫よ」
やあねぇ、と手を曲げて言うジゼルだった。
王の一大事に、暢気なことを言う他国の者への配慮を忘れるエミールであった。
「何が大丈夫だ! 知ったようなことを言うな!」
「あなたこそ、知ったように言うじゃないの。あなたがアークの何を知っているというの? 私の船が、あれくらいで沈むと思わないでね」
セイカに投げかけた言葉とは違い、激しく温度差のある口調だった。
しかし、エミールが気にかけたことはそこではない。
「……何者だ、貴様」
本当にこの女を王へ会わせてよいものか、心の底から疑念が沸き上がる。
余りに得体が知れなさすぎる。
騎士団長自らが監視役になっても、この女の心情を見抜くことが出来なかった。
黒髪の美女が前髪で目を隠し――――嗤う。
「あなたが人でなくなれば……わかるかもしれないわね。それより――――」
言葉の続きが気になり、エミールが生唾を飲み込んだ。
彼の右手が指さされる。
「それ、返してくれない?」
「え?」
彼がそう言って開いた右手の中には、粉々に砕けた海藻があった。
きらり、と目を光らせたセイカの表情が、ゆっくりと萎んでいく。
「お、おぉぉぉぉぅ、何ということでござるかぁっ」
彼女が膝から崩れ落ちた。
セイカの嗚咽は、風に乗って遥か彼方まで届いたのであった。




