境地
異国の風が、殊更にエルフの剣士を浮き彫りにさせていた。
カウレテの街の外れ――――防塁の上に立つ監視塔の屋上で、セイカが遠くを見つめている。
砂の多い地帯で、砂漠化している個所も少なくない。
流した涙もすぐに乾いてしまい、今ではどうしてあそこまで泣けたのか不思議なくらいだった。
「…………」
彼女は視線を、自分の手に落とした。
その手で斬り裂いた鎧の感触が、微かに残っている。
以前に戦った守護者『ムニン』――――と似た鎧武者であったが、強度も反射速度も数段落ちる格下で、彼女自身は戦ったとすら思えていない。
装甲を素手で斬れると思ったから、斬っただけだ。
感情のままに、邪魔だから排除したのだ。
「ふむ……」
怯える人間たちの表情が、今になって脳裏をよぎる。
一人たりとも人間など斬ってはいないが、それはただ、斬る理由が無かったからだ。
果たして己が欲しかったものは、これだったのだろうかと、自問してしまう。
「そういえば、師匠は『感情で剣を振るうな』と言っていたでござるなぁ」
初めは意味が分からなかった。
しかし、今では理解できそうな気がしている。
これまでの結果に後悔などしていないし、人間が復讐に来たら応戦するつもりである。
それでも、この状況を望んでい居たかと言えば、素直に望んでいないと答えられた。
彼女自身、刀を振るうことのみに意識を置いていたが、その意味と結果を考え始めてしまうと、どうにも答えが出ない。
刀がなくとも、鎧は斬ることが出来た。
――――ならば、刀を持つ意味はあるのだろうか。
果たして、剣の高みの境地に辿り着いたとして、だからどうしたというのだろう。
少しだけユーゴに自慢したい気持ちが無いわけでもないセイカだったが、裏を返せばその程度のものだ。
彼女がはっきりと自覚しているのは、ムニンとの戦いが楽しかったことだ。
今から思えば、あれほど充実した戦いは無かった。
ユーゴと一緒に居られる時間には到底及ぶことは無いが、それ以外に関しては一歩抜き出ている。
ただ真に、斬ることだけを考えられた。
意味や理由や結果など、どうでもよかった。
それが決して正しいことであるとは思えないし、ユーゴが褒めることも無いのは理解している。
そうであるからこそ、己の求めるものが分からない。
底の抜けた柄杓で海の水を掬うような、果ての無い徒労にも似た感情が這い上がる。
セイカは目を瞑り、小さく息を吐き出した。
背後に向かって声を飛ばす。
「そこな御仁、何用でござるか」
「おお、流石は剣士様であらせられる。気配で分かりましたか」
顔に皴の刻まれた老人が、快活に笑う。
ぼろ布を纏い、日焼けした浅黒い肌が特徴的だった。
彼が薄紙に包まれたライ麦パンを持って、彼女の隣に座り込む。
スライスされてはいるが、既に時が経ち堅くなってしまったパンを差し出してきた。
「食べませんか」
「…………ぐぅ」
彼女が何かを言う前に、腹が返事をした。
確かに泣いて暴れまわって、腹が減ったのは事実だった。
「かたじけないが、拙者、返すものは何も持ち合わせてござらぬ」
「はははっ、見返りなど必要ありはしません」
皴を深くした老人が差し出したパンを、彼女は受け取った。
特に悩みもせず、パンに齧りつく。
それを見て、老人が目を見開いた。
「……剣士様、少しは悩まれた方がよろしいのでは? 毒などを入れる輩もおりましょう」
「毒、でござるか。それなら見た瞬間にわかるでござる」
「流石は剣士様ですな、毒にお詳しいので?」
「ん? 違うのでござる。拙者が見ていたのは、お主の眼でござる」
何の迷いもなくそう言い切られた老人が、乾いた笑いと共に肩を落とす。
そこから姿勢を正して、セイカの瞳を見返した。
「大変失礼を致しました」
「うん? 何がでござるか。パンを貰って謝られても困るのでござる。もぐもぐ」
咀嚼しながら答える彼女に、いささかの遠慮も見当たらない。
毒気を抜かれた老人の頬が緩んだ。
「いえね、実は、斬り殺される覚悟で参りました」
「ふぅん、でござる」
セイカが、どうでもいいことのように言い放つ。
事実、どうでもよかった。
姿勢を正し続けている老人が、深く頭を下げる。
「この度は不詳の息子が、ご面倒をお掛けしました」
「はあ、でござる」
そう言われても、と首を傾げるのが関の山なセイカにとって、興味は残りのライ麦パンにしか向けられていない。
老人の言葉が続けられる。
「剣士様の御心を乱す原因を作った騎士――――マクスウェルの親にございます」
「ほぅ」
「既に引退した身ではありますが、今でも騎士団には懇意にしているものがおりましてな。そやつから話を聞いた次第でございます」
「…………」
どうでもいい話をどうでもいい相手から聞かされて、若干眠そうな顔を見せるセイカであった。
これには老人も苦笑いを浮かべるが、次には表情を真剣なものにした。
「剣士様の感情を御鎮めするために、この老人にできることなら何でもご用意いたします。ですから何卒、穏便なご配慮をお願い申し上げます」
「そうでござるか。では、何もいらぬでござる」
「…………そこまで剣士様の御怒りは深いものであると?」
「怒り? 拙者が? ならば逆に問いたいのでござるが、お主には怒っているように見えているのでござるか」
彼女は最初から、怒りなどという感情を抱いてはいない。
悲しいのだ。
哀しいのだ。
会いたい人に、会えないことが。
セイカの顔は、物憂げに微笑みを湛えている。
老人が、自信をもって言い放った。
「他人の心などわかりません。表情などいくらでも変えることが出来るでしょう」
「ふむ、道理でござる」
静かに頷いて納得するセイカと、穏やかに口元を緩める老人だった。
老人が笑い、皴が一段と増えて見えた。
「ですから、信じるしか無いのです。他人を信じたらいずれ裏切られます。なので、自分が選んだ自分を信じるのです。期待は外れることもあるでしょうが、なに、最後に胸を張ることだけは許してやれるのです」
「裏切り――――」
その言葉に、胸を突き刺された気分のセイカであった。
会えない悲しみを。
触れられない寂しさを。
ユーゴにばかり押し付けていやしなかったか、と。
彼女の信じる師匠は、決して裏切らない。
その師匠を信じられなかったのは、修行が足りない己の弱さが原因だ。
セイカは脳裏に師匠の顔を思い浮かべる。
おそらく彼女が「刀とは何ぞや」と聞くと、こう返ってくるだろう。
「……え? ああ、うん。鉄だろ」
まさに真理。
身も蓋も無いが、物質名で答えられればその通りとしか言いようがない。
しかし。
しかし、だ。
鉄とは、熱されて、叩かれ、形を変えてゆくもの。
刀にもなれば、釘にも鍬にもなる。
同じ鉄でも、形が変われば名が変わり、役割が変わる。
つまりは――――何をするかは自由であるということだ。
故の、『鉄』。
刀という役割を持った、『鉄』。
感情で熱し、意志で叩いて形を変えた、その姿こそが『刀』になるのだ。
意味だの役割だの結果だの、その時々で変わるものに拘る必要はない。
元々それが、ただの鉄だったことに変わりは無いのだから。
「ああ、流石は師匠でござる……」
セイカは感涙で咽び泣いた。
心地よい涙であった。
拙者は拙者であって良い。
師匠こそが真理。
いやむしろ――――世界。
「あの、剣士様。どうして涙を流されるのですか?」
不安そうな顔をする老人だった。
無理もない。
彼は師匠を知らないのだから。
「うむ、良き出会いであったのでござる。故に、拙者も許して欲しい。見苦しい様を晒してしまったのでござる」
セイカが正座になり、頭を下げた。
その動きは『刀』を振り下ろす様にも似て、見るものからすれば威風となる。
そして、顔を上げた彼女の表情は、自信に満ち溢れていた。
「どれ。拙者、師匠に会いに行くでござるよ。元々、それが目的であったのでござる」
そう言った彼女の微笑みに、空から影が差した。
見上げた空は、一面の黒。
異音を響かせて、宙に浮かぶ船の姿があったのだった。




