心臓
風車騎士団の兵舎を背後にして、ユーゴ・ウッドゲイトは拳を構える。
正面に見据える相手が小型の亡獣――――メラノプルスとは言え、全高は兵舎の一階部分を超えていた。
蝗虫が翅を広げ、耳障りな羽音が喧しい。
ここまま突撃でもされれば、山から転がり落ちてくる大岩を受け止めるに等しい質量差だった。
彼の背後で難しい顔をするオリビアが、目を細めて言う。
「……まさか貴様、受け止める気か」
「出来ると思うか?」
振り向かずに答えるユーゴの口元は、妙に歪んでいた。
見るものが見れば、自嘲とも自棄とも思える仕草だ。
猫の髭が揺れる。
「うぬぅ、貴様に任せるのでは無かった……」
「おい、お前が交渉して失敗したんだろ?」
「まともに考えてもみるがいい、愚か者め。《クリスタルム》の者同士が交渉した方が良いという判断にケチをつける気か。貴様もそれは納得したから我に任せたのであろうが」
「あんな自信満々だったくせに、失敗するとは思わないだろ」
「我も裏切り者扱いされるとは思っておらんかったわ!」
「何やったんだよ、お前」
「何もしとらん!」
オリビアが叫ぶと、まるで無視するなとでも言わんばかりに翅音が激しくなる。
土埃が舞い、殺気じみた気配が生まれた。
逃げも引きもせず、ただ愚直に直進するという単純明快な突撃が敢行された。
「逃げる気は無い、か」
そう呟きを漏らしたユーゴは、右腕を後ろに引く。
全身が変貌しないように気を使いつつ、右腕だけに力の解放を許した。
すると、皮膚を突き破って黒い竜鱗が逆立ち、禍々しい気配を放つ。
突撃しているメラノプルスも異常に気付くが、既に選択肢など存在しない。
水晶と黒い拳が交錯し――――大音響と共に、ユーゴが吹き飛ばされた。
幸か不幸か、彼の身体は兵舎の壁に半分ほど埋まった状態となっている。
「……踏ん張るのを忘れてたな」
彼は苦笑いを浮かべ、目前に迫るメラノプルスを見た。
「――――ギィィィィ」
そして、蝗虫の顔面が砕け割れる。
輝く破片が舞い、罅割れた水晶の塊が小さな山を作った。
めり込んでいる身体を壁から引き剥がしたユーゴは、服についた埃を払う。
「意外と効いたみたい、か?」
彼がメラノプルスの残骸を眺めていると、背後からオリビアが近づいてきた。
「それが『獣の心髄』とやらか。確かに我らを破壊するに足る代物だ。しかし、そんなものがありながら、なぜ我に使わなかった?」
「俺の記憶を知ってるなら分かるんじゃないのか」
「正確には、記憶ではなく記録だ。そこにある人格までも読み取って仕舞えば、不必要に共感してしまだろうが。言うなれば、見ただけだから、経験にはなっていない。だから、そこにある感情まで知るものか」
「そんなものか。まあ、変貌したら騎士の資格が貰えなくなりそうだったからだな」
「うぬ……おい」
猫が嫌そうに見上げて、目を細めた。
呆れて溜息を吐いたかと思うと、口元を曲げて皮肉気に言う。
「言葉にするのを忘れていたが……」
「ん?」
助けられた礼でも言うのかと思った彼は、即座に、この猫はそんな性格ではないと気付く。
オリビアが見上げているのは彼自身ではなく――――空だった。
無数の黒点が次々に飛来してくる。
演習場や格納庫にも水晶の塊が落下し、土煙を挙げた。
ユーゴの前にも、数体のメラノプルスが立っていた。
苦み走った表情のオリビアが呟く。
「……この類のメラノプルスは、一匹殺すと仲間を呼ぶぞ」
「そういえば、砕ける前に鳴いてたなぁ」
うんざりした顔のユーゴは、大きく息を吐いた。
気配探知で周囲に人間が居ないことを確認し、肩を落とした。
「まあ、すぐにこの街も離れるからな。ついでか」
大きく息を吸って、背骨を意識しながら慎重に変貌範囲を調整する。
今回は右腕だけでなく、全身から黒い竜鱗が突き出る。
衣服が破け散った代わりに、皮膚という皮膚が竜鱗に覆われていた。
人相も意識して竜種側に傾け、人であったときのユーゴとは似ても似つかなくしてしまう。
黒竜の半変貌状態となった彼は、己の背中を指し示した。
「適当にバッタ退治してから、この街を離れるぞ。乗ってくか?」
「仕方あるまい、貴様の案に乗ってやろう」
猫が軽快な動きでユーゴの背中にしがみつき、四肢を広げて爪を立てた。
それを阻止しようと、凶悪な顔つきのメラノプルスが飛び上がろうとする。
彼は鉤爪の出た足で地面を蹴りつけて、間合いを詰めた。
「ふんっ! ……おぉ」
振り上げた拳を蝗虫の首に叩きつけると、最初に戦った個体と同じように全体が砕けてしまう。
彼が自分の拳を眺めていると、背中から声をかけられた。
「貴様の肉体は、我らクリスタルムにとって『毒』なのだ。正確には『獣の心髄』が、だがな。攻撃因子が水晶体の不活性化を促進し、崩壊するというわけだ。間違っても我を攻撃するなよ」
「ああ、わかった。倒すのが楽なのは良いんだが、問題は数か」
ユーゴが急に跳躍したかと思うと、今まで彼がいた場所へ二匹のメラノプルスが襲いかかってきた。
二匹の蝗虫は衝突してお互いに転げるも、すぐに立ち上がろうとする。
そこへ飛び降りて二匹に手刀を突き刺し、確実に砕いておいた。
彼は街の方を見まわし、立ち上る煙やメラノプルスの飛び上がっている姿を確認した。
「こいつら、街の中心を目指してるのか」
アリアドネの安否を気遣っていると、兵舎の向こう側から戦鎧騎が出てくる。
砕けたメラノプルスとユーゴを交互に見てから、ゆっくりと近づいてきた。
「おい、お前、何処の督戦兵だ。『サークレット』を見せろ……ん? 首輪が無いぞ。はぐれ、なのか」
彼の首元に何もないことが問題なのか、戦鎧騎が警戒を始める。
手に持つ巨大な槍を向けられて良い気はしないが、風車騎士団の団員に対して無碍な態度をとることもしなかった。
「俺のことは見なかったことにしろ。それより、メラノプルスは街の中心に向かってるから、逃げるなら今だぞ」
「……そういうわけにいくか。督戦兵の脱走は、即時処刑が鉄則だ。特に首輪もしてない魔族は、何をするかわかったもんじゃない!」
「それはいいから――――避けろっ!」
「は……ぐがっ――――」
兵舎の反対側から建物を突き破って、メラノプルスが飛び出してきた。
それに巻き込まれる形で、戦鎧騎が横から突撃を受ける。
装甲を擦り潰されて転がる戦鎧騎の上に、のしかかった蝗虫だったが、追いかけてきたユーゴに砕かれてしまった。
「…………」
捩じ切られて真っ二つになった戦鎧騎の中で、人間が耐えられるものではない。
赤く染まった操縦席に黙祷を捧げて立ち去ろうとするユーゴだったが、背中をオリビアに叩かれた。
「おい、貴様。いい機会だから、さっき言っていた奴らの『嘘』を説明してやろう」
「何だよ」
「いいから聞け。その人間の背後にあるものが、その答えだ」
「答えって言われてもだな……」
ユーゴが事切れた『騎士』から視線を外し、その操縦席の背後にあるものを見た。
それは、幾重にも重なった管の中に埋もれていた金属製の筒で、普段は操縦席で隠されているものだ。
戦鎧騎自体が捩じ切られた所為で露わになっているが、整備兵以外が目にする事はないだろう。
その金属製の筒が破れていて、その中には大きな《魔玉》が入っていた。
「これは? 《魔玉》の気配なんて感じなかったんだが」
「それはそうだ。精製されているからな。材料は言わなくてもわかるだろう。奴らは《魔玉》を利用してこの鎧を動かしている。大量の魔族を消費してな。貴様はそれを許すのか?」
「――――」
ユーゴは何も言わず、血に濡れるのも構わず、金属の筒から《魔玉》を取り上げた。
その輝きを見つめながら、言う。
「俺は、魔族全部を救えるほど強くなかった……守りたいものを失うことに耐えきれなかったんだ。それを魔王になった時に思い知ったよ」
彼が過去を思い出していると、気まずそうに猫が横を向く。
そうしている間に、大きな《魔玉》はユーゴの手の中に溶け落ちていった。
「だから俺は、守りたい者のために戦うことしか出来ないんだ。許す許さないは、まあ、他の誰かが決めるだろ」
何処の誰かもわからない《魔玉》のために祈りながら、彼は小さく息を吐く。
目前にあるのは、赤い手だけだ。
また――――誰も救われなかった。
人間も魔族も、クリスタルムの者でさえも、砕けて散っている。
「さて」
彼が顔を上げると、そこには兵舎の奥から出てきた複数の戦鎧騎が戦闘態勢となっている。
今の光景だけを見れば、半変貌した黒い魔族が戦鎧騎を捩じ切って、操縦席の人間に止めを刺したとしか思えないだろう。
誤解を解く時間はない。
弁解をさせてくれる暇もない。
「――――悪いが、推し通させてもらおう」
戦鎧騎が攻撃してくる前に、ユーゴは飛び出した。
複数の戦鎧騎と交錯し、腹部の装甲板を引きちぎり、操縦席の人間を放り出す。
そして、動力源の《魔玉》だけを奪い、黒い魔族は暴風のように立ち去るのだった。




