「誕生」1
『――さあ、“Sの時間”の始まりだ――』
ぴよぴよと鳴きながら、ヒヨコが寄ってくる。
大きなヒヨコだ。体長は一メートルくらいはあるだろうか。こんなアメイジングなヒヨコは見たことがない。
ヒヨコはまだ生まれたばかりらしく、すぐ近くに内側が粘液で濡れた卵の殻があった。こちらも、驚くべきでかさである。
ヒヨコが、摺り寄ってくる。愛らしくて可愛いが、孵化したばかりなので当然粘液まみれだ。
おまけに、最初は可愛いと思っていたが、このピーチクパーチクうるさい鳴き声には、軽い苛立ちさえ覚える。
少し罪悪感を覚えたが、走ってその場を離れた。
ところが、ヒヨコは付いてきた。
鳥類の刷り込みで、親だと誤認されてしまったようだ。これでは、あの粘液と鬱陶しいさえずりから逃れることが出来ない。
立ち止まる。どうしようか。
いくら突き放しても、このヒヨコは無邪気にうるさくついてくる。こちらがどんなに迷惑でも、ヒヨコにとっては自分が楽しいのだからこちらも楽しいはずなのだ、というわけのわからない根拠で来るはずだ。
――消してしまうか。
幸いにして、道具もあることだし。
頬擦りしてくるヒヨコを軽く押さえて、首のあたりをナイフで切りつける。
一撃で殺してしまわないよう、一応は手加減してやる。
「楽しかったか?」
痙攣しだしたヒヨコに語りかける。このじゃじゃ馬に、きちんとわからせてやらなければ。
「俺は迷惑だ」
頭にナイフを突き刺す。
死体となっても、ヒヨコはまだ足をパタパタ動かしていた。
この死体をどうやって始末しよう。細かく切り刻んで、近所の野良猫たちにでも提供しようか。いや、それはもったいない。切り刻んで、灰になるまでじっくり燃焼して、ガーデニングの肥料にでもしてしまうのがいいだろうか。
……場面が変わった。
猫が必死になって木の枝にしがみついている。
猫の真下には、濃塩酸のプールがあった。落ちたら、一貫の終わりだろう。
どうにかできないものだろうか。
首を傾げようとしたところで、ライフル銃を持っていることに気がついた。これだ。
銃刀法違反の日本で育って、ライフルなんて物を使うのはこれが初めてのはずだったが、何故か使い方は理解していた。
構え、照準器を覗きこむ。
健気にぶら下がっている猫の胴体を真ん中に捉える。
――待て。
もしこのまま撃ったとして、弾丸は猫の胴を抉って少なからずの出血を許してしまうのではないか。塩酸の海が待っている以上、この心配は無用だと思うが、万全は期しておきたい。万が一、溶解しきる前に引き上げられて弾痕が確認されたら、動物愛護団体が訴えに来るかもしれない。
ではどこを撃てばよいのだろうか。
当然として、枝を撃つのは禁止だ。そんなことで落としてしまっては、銃撃して落としたと言ってるようなものだからだ。
しばし考え、見つかった。
この方法なら、誰にも疑われず、かつ銃撃したと思われるリスクも低い。
再びライフルを構える。狙いは、猫の胴体ぎりぎりの部分。発砲しても、かすめるだけで肉も皮膚も抉らず、木に当たることもなく彼方へ飛んで行くように微調整する。
生唾を飲み込み、トリガーを引き絞った。
高らかな銃声が響き渡る。
その銃声と、ほぼ同時に胴体をかすめた熱い弾丸の感触に、猫が跳び上がった。枝から落ちて、濃塩酸の中へ真っ逆さまへ落ちた。
じゃばじゃばと、猫は塩酸の中で暴れていた。
じきに動かなくなるだろうが、このまま暴れる様を見ているのも忍びない。高揚感を抑えつけ、止めを刺そうとライフルを構える。「塩酸で苦しそうな猫を見ていられなかった」という口実もできたし、撃つのに邪魔はない。
しかし、弾は一発しか込められてなかったようだ。引き金を引いても、カチリという乾いた音が鳴るだけだ。
弾を込め直そうとして――こちらに向けられる殺気に気付いた。
瞬時に殺気が出た方向に、ライフルを構える。
照準器を覗きこむ。
レンズによって拡大された殺気の主は、こちらと同じようにライフルを構えていた。駄目だ、これでは撃たれる。
慌てて、ライフルに弾丸を込める。撃たれる前に撃ち殺してみせるという自信が、何故かあった。
自分でも驚くほどの手際で装填を終え、ライフルを構え直し、未だライフルを構えたまま動かない相手に向けて、引き金を引いた。
そこで、何故か目の前が暗くなった。
「こら、しゅんちゃん、ダメじゃない。こんなにオネショして。ママ怒るわよ!」
母――恭子の叱責に、しゅんぺいはその愛らしい表情をくしゃくしゃに歪めた。
「ダメよ、泣いたって。しゅんちゃんはいけないことしたんだから」
恭子は、人差指を立てて顔を険しくする。
「おいおい恭子、別にいいじゃないか。シュンだってやりたくてやってるわけじゃないんだし」
父の将一が、見かねたように声をかけてくる。
「あなた。あなたがそうやって甘やかすから、俊平もなかなかオネショが直らないんじゃない。幼稚園でこの子がなんて呼ばれてるか知ってるでしょう? 「濡れ濡れシュンペー」だって」
「ははは、濡れ濡れか。そりゃまた随分なあだ名を付けられたもんだ」
「笑い事じゃありません!! 私もう恥ずかしくて恥ずかしくて」
「まあまあ、子供はそれくらいヤンチャじゃないと。オネショなんて、シュンが目一杯子供してるって証拠じゃないか。大丈夫、何があってもシュンは僕らの子だ。不良になったりはしないさ」
「……あなた」
恭子は、涙を拭った。
将一は、そんな恭子を抱きしめた。
「…………?」
しゅんぺいは、2人の様子を首を傾げて見ていた。
笑った。愛くるしい、天使のような笑顔だった。
――しゅんぺいは思う。
子を思う母と父。優しい2人。眩しい家庭。
こんな現実が、本当にあったらよかったのに。
……仮想の世界が、だんだんと暗くなっていく。
待ってくれ。
まだ、ここにいたい。
仮初めだったとしても、まだ、この温もりを感じていたい。
世界が、暗黒と化す。
「……夢か」
沼宮俊平は、はっと目を覚ました。
自室のベッドで寝ていたのだ。
二度三度、瞬きをする。
随分と奇妙な夢だった。
ヒヨコを殺す夢と、猫を殺す夢と、最後のあれは自分が漕がれていた願望だろうか。
周囲を見回す。
早朝の沼宮家は、シンと静まり返っていた。
時計を確認すると、午前の六時五分前であった。
恭子の怒鳴り声で起こされたくないと思ううちに、いつの間にかこんなにも朝早く起きることが出来るようになったのだ。
「……さて」
ベッドから降りて、クローゼットを開ける。
学校の制服に着替えると、昨日新しく買った小説を読んで時間を潰すことにした。
恭子の絶叫が響くのが大体七時ごろ。
実に一時間以上は時間がある。
これを不幸と見るべきか、それとももしかして幸と見なすべきなのか。
「どっちにしても、変わらないかな」
溜め息を漏らした。
この早起きにはいろいろな感情があるが、ひとつ、いいことがあった。騒々しくなるまでの時間を、心置きなく読書に割けるのである。暇な時間があまり持てず、もともとそんなに早くもない俊平自身の読書スピードも相まって、本を読み進められない現状にとっては、ちょっとした利点だった。
今呼んでいるのは、上下巻構成の小説で、ちょうど三十ページ目を読んだところだった。ライトノベルと比べて読む速度がさらに遅くなってしまうというのが、俊平の一般小説への見解だった。
それにしても、面白い小説だと思う。精神的に異常な青年を主人公にしたサイコ・ホラー小説だが、なかなかに話に引き込まれてしまう。マンション生活時代、お隣だった年上の青年に久しぶりに再会して、読書の話で勧められて購入したのだが、これは“当たり”だったようだ。
俊平のページをめくる指は、いつになく踊っていた。
ちょうど、第一章を読み終わった頃。
「こぉのヤロオオぉぉおおお!!」
女性のものだとわかるくらいには高いが、ドスの利いた野太い怒鳴り声が階下から響いてきた。
本を閉じ、溜め息をひとつ吐いてから、俊平はさして平然とした様子で、時計を見た。
午前六時五十四分。いつもよりかは、少しだけ早起きしたらしい。
「あああああああ!!」
確実に近所迷惑になるであろう音量は、心なしか床を振動させているように感じた。
いつもより、少し機嫌が悪いらしい。
「うっせーよ。狂子が」
小声で罵りながら、俊平は自室を後にした。
階段を下り、リビングに向かうと、パジャマ姿にボサボサ髪の母の姿があった。
「……っち」
俊平の姿を認めた途端、沼宮恭子は舌打ちした。
俊平も舌打ちしたかったが、なんとか思いとどまる。
この怪人に逆らえば、おそらく全治に最低一か月はかかる怪我が返ってくる。部活動に参加しているわけではないが、足をギプスで固定したり、腕を吊るしたりしていては日常生活に支障が出る。何よりも、クラスメートたちへの言い訳を思いつくのが面倒なのだ。
レッドラインを踏み越えずに済んだ俊平は、恭子から目を逸らした。
「……早く朝飯を作れよ」
冷めた口調が、命令してくる。
父さんは起きていないのかと言い返したかったが、俊平に選択肢はなかった。
キッチンへと向かい、流し台で手を洗う。冷蔵庫の具合を見て、何を作ろうか思案する。
「おら、早く作れっつってんだろうがよぉ!」
恭子の怒声が聞こえてくる。
顔をしかめて、そちらを睨む。睨んでしまった。
「なんだよ。その顔は? 黙って仕事しやがれ!」
手にしている包丁で、その喉元を掻っ切ってやりたい。
しかし、衝動に身を任せるためには、俊平は無策だった。
「…………はい」
返事に間をおいたためか、また舌打ちが鳴った。
その後も、恭子の怒鳴り声は続いた。
そして、まな板で食材を切っていた俊平に、変化が訪れた。
だんだんと、意識が薄くなっていく。なのに、不思議と眠気はしない。
ああ、またこの時間か、と俊平はその状態を不審には思わない。
ぼんやりとしつつも、恭子の罵倒は聞こえてくる。なのに、反発心がまるで刺激されない。むしろ、リラックスさえする。
自分が朝ご飯を作っている感覚はあるのに、何を作っているのかはわからない。いや、今はそんなことはどうでもいい。俊平は、しばしの間この一時を楽しむことにした。
――意識の靄が、晴れていく。
目の前には、スクランブルエッグを乗せた皿があった。
「兄ちゃん、食わないの?」
いつの間にか、テーブルに着いていたようだ。隣に座っている透が、首を傾げて訊ねてくる。
「あ? ああ、食うよ」
食卓に着いているのは、俊平と、透と、後は妹の寿々(すず)だけだった。
「父さんは?」
将一の姿が、どこにもない。
「もう行った。僕らも早く登校しなさいってさ」
時計を確認する。七時四十五分だった。
「だな」
俊平も、スクランブルエッグに箸を付けた。
俊平にとって沼宮家での生活は、最悪の一言である。だからなのか、俊平には誰にも言っていない特殊な秘密があった。




