田中平課長の憂鬱 中編
少し修正しました パート2
何が起こったのかと下を見ると、誰かが刺されたのだろうか人が倒れ、周りには血の池ができていた。
まさか私の会社のすぐ近くでこんな事件が起きるなんて思いも寄らなかった。
早く警察を呼ぶべきなのだろうが、下で呼んでいるであろう人が見えたのでやめておいた。
と、加害者と思われる人物は立ち上がりふらふらと歩きだして人垣に向かっていった。
まさかまだ人を殺すつもりなのだろうか?
それにあわせて野次馬達は牧羊犬に誘導される羊のように群れをなして逃げる。
一方反対側にいた人垣から数人が駆け寄って、倒れている人に声をかけたり脈を確かめている。
遠目から見て、医療には素人の私でも致死量の血が出ているとわかる。
なのでおそらく助からないだろう…
と、倒れている人が起き上がった。
しかし、次の瞬間辺り一面に鮮血が噴き出した。
その血は介抱していた人のもので、原因は倒れていた人に噛みつかれたためのようだ。
周囲の人間も一瞬何が起こったのか理解できていなかった。
が、すぐに事態を飲み込んで蜘蛛の子を散らすように方々に逃げ出したり、呆然と眺めたりしている。
私だって信じられない。
さっきまで致死量の血を流して倒れていた人間が起き上がったのだ。
さらに噛み付いたのだ、驚かない方がどうかしているだろう。
今や街は大パニックになっていた。
噛まれた人は生き返り、逃げている人に襲いかかってまたその人が生き返る。
阿鼻叫喚の地獄絵図とはこういう光景のことを言うのだろうと思った。
というかそんな冷静に考えている場合ではない。
だが頭を働かせないと、とてもじゃないが動きだせるような精神状態ではなかった。
私はとりあえず足に力を込め、自分の部署に行くために階段を駆け降りる。
途中、半狂乱になる社員達とぶつかりながらなんとか部署の入口に到着する。
すると中には同期で専務の倉岸とあの若者、名前は確か長谷川とかいったかな?
この二人を含む数人の社員がいた。
「おお田中無事だったか。外の惨状は見たか?」
と、倉岸に声をかけられた。
流石にこの状況で気付かないやつもまあいないだろうと思いつつ
「ああさっき屋上で見たよ。ここも危ない、早く逃げたほうがいいな…」
と言うと
「駄目だ俺は走れん、車を回してくれ。」
倉岸が言う。
「流石専務マジ渋っす。」
続けて長谷川はタメ口で空気を読まず発言する。
とりあえず話にならなそうなので、一人で逃げようとしたら廊下から
「ぎゃあああああああああああ!!」
と男の叫び声が聞こえた。
おそらく下の起き上がる死体がここまできたのだろう。
だが不思議なもので人間はパニックになりすぎると逆に冷静になってしまう。
そのため頭はかつてないほどスッキリしているようだ。
「な、なんだ今の声は?さっきのやつらが入ってきたのか?そうだ!バリケード、バリケードを作ってここに立て篭もろう。」
倉岸はそんな間の抜けたことを言い出した。
「おいお前ら、専務の言葉が聞こえなかったのか?早くバリケード作れよ!!」
長谷川が続けて怒鳴り散らした。
こんなことが街のいたるところで起きているのだ。
たとえ対処できてもそれは何週間後なのだろうかわからないし、ここには食料もない。
成人男性が飲まず食わずで何日も生きれるとはとても思えん。
私の思いとは裏腹に、社員たちは入口にどんどんデスクを置いていく。
ふと私は娘のことを思い出した。
こんな状況でやっと娘のことを思い出すなんて…元父親として最低だ。
いつものように自分に自己嫌悪してしまう。
とにかく娘に電話をかける。
だが電源が切れているのか、電波が届かない所にいるのか繋がらない。
なんとか娘の安否を確認したいが私もここから出ることが出来ない、なのでおそらくそれは難しいだろう。
とりあえずメールを送っておいた。生きているのならば返信してくれるだろう。
自分の娘と連絡すらとれないとは、本当に歯痒い…
社員達の方を見るとバリケードが大体出来たようで、ドアの前にはデスクやコピー機などが積まれていた。
するとドアから
バンッ!!
と大きな音が響き、バリケードが少し動く。
皆は静まり返り、一瞬その場が凍り付いた…
会社の時計に視線を送ると時刻は午後5時を指していた。
バリケードを作ってから死体達は
ガタガタンッ
と、音をたてドアを押してくる。
そのたびに私や他の社員達がバリケードを元の位置に戻しに行く。
それはまだ差し迫って重要ではないのだ、問題は倉岸と長谷川である。
なぜかわからないが倉岸は自分は専務だからと、社員たち手持ちの食料を管理すると言い出し独占したのだ。
そしてボディーガードとして長谷川を置き、二人で腹を満たした。
流石にこんな状況でみんな冷静でいられるはずもなく。
殺気立ち、今にも倉岸と長谷川を殺しそうな雰囲気に包まれている。
私としては生存者同士、それも同じ会社の仲間で殺し合うのは避けたい。
なので食料を取ってくるのはどうかと提案したのだが…
なんとその食料確保の役を任せられた。
いつもは企画の一つも任せてもらえないのに皮肉なものだ。
と、冷静に考えている場合ではない。
なんとか思考を巡らせ、この状況を生き抜かねばならない。
部屋を出る直前、社員の一人に
「私もついて行った方が…」
と、言われたがそれには
「犠牲は少ない方がいい。」
だけ返事をしておいた。
少しいいこと言ったと思ったのだが、長谷川が空気を読まずに
「早く行けよ田中!!!」
と、言ってきたのでそんな余韻もすぐに掻き消された。
私は部署の隅にある喫煙室の窓ガラスを椅子で割り、廊下へ出た。
動く死体達は、みんなドアの前にいるのか姿はない。私は足早に歩いて、手前にある階段から下へ降りる。
エレベーターは動くかわからないし、いざというとき身動きがとれないので乗らない。
それは開いた瞬間に噛み付かれるという危険があるからだ。
とりあえず目標は雑貨倉庫にある保存食料や缶詰を確保することだ。
そのために、扉を開ける鍵を取りに行く必要がある。
わざわざ1階の警備員室まで鍵を取りに行ってもよいのだが、おそらく大盛況中だろうから遠慮しておく。
私は現在の階から2階ほど降り、そこを左に突き当たって進んでお目当ての場所に到着する。
そこには私の同僚の机がある。
流石にその同僚はいなかったが、机の引き出しを漁ると中には鍵があった。
数年前に用事で鍵を持って雑貨倉庫に来たら、その同僚とばったり遭遇したのだ。
鍵が無いのにどうやって入ったのか聞いたら、会社に無断で複製したらしく。
私は黙ってる代わりに幾度か使わせてもらった。
私は長い間、会社に勤めて甘い蜜を吸ったのはこの出来事ぐらいだから堅実なのだろう。
独り言を呟いてから、同僚が倉庫から拝借したであろう懐中電灯を手に取る。
電池が入っているか確認して、それを持ってさらに階段を降りる。
途中呻き声が聞こえたような気がするが気のせいだろう。
廊下に到着してすぐ周囲を確認する。
フロアは静まり返り、不穏な空気を漂わせている。
まるで私以外の時が止まったかのようだ。
だが時計が動いているのを見て、そんなことないかと思い返した。
そんな事を考えている場合ではないので、用事がある雑貨倉庫に一直線に進む。
倉庫に着くと不審なことに気が付いた。鍵が開いているのだ。
この倉庫は錠前式で施錠されており、簡単に言えば取り付け型の鍵なのだが、それが外れている。
動く死体を連想したのだが、奴らに知能はなさそうだし1階から鍵を持ってここまで来て開ける。
なんて芸当はできないだろう。
一応注意するにこしたことはないので、恐る恐る開ける。
中は暗くて何も見えないので、持ってきた懐中電灯で照らしながら中に入って食料を探す。
近くの段ボールを漁ると、中には製作途中で企画中止になったキーホルダーや備品があった。
食料のあった場所を思い出しつつ、奥に進むと缶詰を見つけた。
そのまま持っていくのは効率が悪いので袋に詰める。
すぐに部屋を出ようとしたとき
ガタッ
後ろから音が聞こえ、臆病な私は体を竦ませる。
多分寿命が3年は縮まった。
静かに振り返ると
「田中課長?」
と、聞き慣れた声がした。
それは毎朝欠かさず挨拶をしてくれる、受付の園崎美穂くんだった。
彼女は被っていた毛布を捨て、少しよろめきながら私の側まで来る。
「よかった課長、生きてたんですね。」
同じ若者でも長谷川とは大きな違いだ。
黙っているわけにもいかないので
「園崎くんも無事でよかった。ところで一人か?」
と聞く。
「いえ、実は…」
どうやらここにくるまでは何人かいたそうだが、その中に噛まれた者がいたようで他の社員に噛み付きだして皆ちりぢりになったそうだ。
そこで園崎くんは救助がくるまで食料のある雑貨倉庫で隠れていたようだ。
彼女は少し疲れてるようだが、ここも安全ではないので一緒に部署まで戻ることにした。
「大丈夫かい?」
と、聞くと
「多分大丈夫です。」
丁寧に返事をしてくれたが、明らかに憔悴している。
速く休ませたいが、状況がそれを許してくれないようだ。
入口に一つの人影が現れた。
呻き声のような声を響かせ、口からは血を滴らせていた。
さらに肌は灰色に変色し、腐ったミカンのような顔に腕が片方無くなっていた。
生存者でないと一目瞭然だ。動く死体はふらふらと私たちに近付いてきた。
非常にまずい。周囲は荷物を置いた棚、後ろには疲れ切った園崎くんがいる。
武器になりそうな物を探せばよかったといまさら後悔した。
「課長、前!!」
園崎くんの声で我に帰ると、目の前に動く死体がいた。
そして口をぱっくり開けて私に襲い掛かってきた。
なんとか首と頭を押さえ、噛まれるのは避けたが死体の体重で後ろに倒れ込んでしまう。
「あが…」
さらに握力は予想以上に強く、首を締め付けられて意識が遠退く。
「課長!!」
同時にゴンッという鈍い音が響き死体が横に倒れる。
見ると園崎くんが消火器を持って佇んでいた。
「課長早く行きましょう。」
という声で私は起き上がった。
いまのやりとりだけで、肩で息をしてしまってる自分が情けない。
嘆いてるだけではいけないので袋を背負い、園崎くんとすぐに倉庫を出ると周囲には動く死体が集まっていた。
「………」
ここからばったばったと時代劇のように倒していきたい。
だが残念ながら私は28年間ずっと会社勤めのサラリーマンだ。
そんな強さもなければ度胸もない。
とにかく元来た道はもう使えない。
「園崎くん、こっちだ!」
「え?」
目の前で呆然としていた園崎くんの手を引き、反対側の廊下へと走る。
こんな状況だ、おそらくセクハラにはならないだろう…多分。
二人で階段を全速力で駆け上がる。
園崎くんは疲れたのか、私の心境を察してくれたのか何も喋らなかった。
しばらく無言で粗い息遣いを残し、部署の近くまで到着する。
相変わらず部署の前は20体程の動く死体が殺到していた。
当然真正面から入れるわけないので、廊下を迂回して私が出てきた喫煙室に到着する。
ドアを2、3度ノックすると中から
「田中課長ですか?」
と声が聞こえる。
「ああ食料を持ってきた、ついでに生存者も一緒に。」
少し後、バリケードを崩す小さな音がしてドアが開く。
私はなんとか生きて帰ってこれたようだ。
中に入ると、外に出る時よりギスギスしていて、何人かは私を睨め付けるように見てきた。
しかし、食料を見ると駆け寄ってきて私から袋をもぎ取り食べだした。
途中倉岸と長谷川の視線を感じたが気のせいだろう。
そんなことより今は園崎くんだ。
「大丈夫かい?」
私は、袋から抜いておいた缶詰を渡し横に座る。
「少し…」
まだきつそうだが顔色は少し良くなったような気がする。
「今は休みなさい…」
もう少し話したい気分だったが、園崎くんの体の調子も心配なのでそう言っておいた。
しばらくして園崎くんは私の肩にもたれる形で眠ってしまった。
昔、電車の中で眠ってしまい肩にもたれかかってきた女子高生を思い出した。
当然その後痴漢、セクハラ、変態ハゲオヤジと罵声を浴びせられたのだが今回は大丈夫だろう。
園崎くんにつられるように私も瞼が重くなってきた、昔はこの程度まだまだ動けるだけの体力は残っていたのに…寄る年波には敵わないようだ。
ゆっくりと意識が遠いていく。
スッと瞳が開かれる。
時計は午後11時を指している。
どうやら随分寝てしまったらしい、見ると周りの社員や倉岸と長谷川も寝ていた。
どうやら皆疲れていたのは同じらしかった。
すると横からふいに
「課長。」
と身を寄せた園崎くんに声をかけられ、思わず身体がのけ反ってしまった。
「非道いですそんなに驚かなくても…」
上目遣いに、思わず身体が硬直してしまう。
私みたいな男には刺激が強すぎるようだ…
少しの無言から改めて喋り出す。
「園崎くん、身体はもう大丈夫なのか?」
少し距離をとり何気なく話すと
「大丈夫ですよ。」
ニコッと満面の笑みで返してくれる。
その瞬間、上司に連れられて初めてキャバクラへ行った時の事を思い出した。
「どうしたんですか?」
不審がられたがどうにかその場を取り繕う。
その甘い空気に耐えれそうにないので私は携帯を開き、娘からメールがないか見ると1件届いていた。
「誰からですか?」
肩を寄せて見ていた園崎くんが聞いてくる。
本当に恋に堕ちてしまいそうである。
「ああ…えっと…」
まだ決まった訳ではないので確かめると娘からだった。
「娘です。」
と質問に返すと
「えっ課長娘さんがいたんですか!!」
と悪気のない一言が突き刺さる。
「まあ……」
「あの一緒に見ても?」
頼みを断る理由もないので了承すると、子供のような笑みになった。
思わずいろんな笑顔ができるものだと関心してしまった。
そしてそのまま本文へと目を落とす。
『パパへ、私はとりあえず大丈夫です。警察官の人と数人で立て篭もっています。
頼りになる男の子もいるので心配しないでね…絶対に死なないで。娘より』
「よかった。」
私はつい言葉を漏らしてしまった。
「え?」
私の唐突な言葉に園崎くんはポカンとしてしまう。
「いやすまない、嬉しくて思わず。」
つい頭をかき年甲斐もなく照れてしまう。
「こんな言い方恥ずかしくて言いにくいんだが、娘は私にとっての宝なんです…」
話しながら少し遠くを見る。
「…わかります。私に子供はいないけど、自分にとっての大切な存在ってことぐらいは。」
園崎くんの言葉に少し歯が浮いてしまう。
「今日はもう寝よう、ここから脱出する方法は明日から考えよう。」
これ以上照れ臭い話は避けたいので毛布を被りながらそう促す。
「クスッ、そうですね。」
そうして少し離れてまた眠りにつく。
次に私が目を覚ましたのは深夜3時。
甲高い女性の悲鳴で起きた。