09
レーダーから消えた無数の赤い点について、キースはもはやなにも言わなくなった。赤い点がなくなったということはつまり、あの悪趣味な影の群れどもがいなくなったのだと、楓はそれくらいなら理解した。が、レーダーからその群れどもが突如として消えたことには疑問を持たなかった。そもそも、その「れーだー」というヤツがどのような仕組みでどのようにして自分たちの周囲の情報を得ているのかさっぱりわからないしわかりたくもないのだ。だから、「れーだー」にどのようなことが起こったとしてもどうとも思うこともできない。
ふたりは静かな草原を長いあいだ歩き続けた。陽が沈み、また登った。それも何度も。しかし、楓の知る一日の感覚とは大分ずれていた。携帯用に持参していた簡素な朝食をとり、昼食をとるまでのあいだに、二度は太陽が沈んでいるのである。時間の流れが速いのか、もしくは陽の動きが早いのか、あるいは己の感覚が狂ってしまったのか。もともと楓の知る時間の流れではまだ半日しか経っていないため、陽が三度目に沈む頃になっても無眠で歩き続けることができた。陽が昇ってから沈むまでを一日と数えるのならば、三日も疲れを知らずに歩き続けたことになる。さすがに己の感覚が狂っているとは思えない。
草原はあまりに静かであった。楓は砂漠のような荒廃した場所を歩んだことがあったが、それでもこの草原のように沈黙はしていなかった。砂漠であれ、草原であれ、その地は生きている限り呼吸をしているものである。その呼吸を、この草原からは感じられない。
草原は人工物がなにひとつない場所なのだと思えていたが、そのようなことはないようだった。道中、青い球状の物体が宙にぷかぷかと浮かんでいるのを見つけた。風も音もないのに、支えるものもなく、宙に浮かんでいるのである。楓は旅を続けていたため、多くのものを目に焼き付けてきたが、このような珍妙なものを見たことはなかった。手で触れてみたい気もしたが、なにかとてつもないことが起こってしまうのではないかと怖く、また、楓が青の球体に興味を注がれるのを見てにやにやとするキースの顔が腹立たしかったため、ふいと興味のない振りをしてやり過ごしていた。
他にもいくつか目に着いたものがあった。まず、人が使用した道具のようなものが落ちていた。刃物状の武器のようだったが切れ味はとてつもなく悪く、いったいなにに使うのかわからなかった。また、目に着いたというよりも、目につかなかったというべき事柄――植物以外の生物がいない。鳥も、昆虫もなにひとつとしていないのである。無呼吸の草原の理由を、楓は知った。あの影の群れどもを別とすれば、植物以外の、生命の営みがない。いったいこの地はなんなのだろうか。
たった半日しか歩いていないというのに、キースが休息をとることについてぶつぶつと言葉を連ね始めたため、ふたりは適当な場所で腰をおろすことにした。
楓は溜息をつきながら草葉のうえに腰をおろした。旅を続けているせいで服が汚れるのを気にしなくなったわけではなく、もともとそういう性格だった。むしろ男性であるキースのほうが気になるらしく、そわそわしていた揚句、腰をおろすのに最適なものが見つからなかったのか立ったままでいた。
楓は腰をおろしたまま、刀の鞘に手を置いて眼を閉じた。そうしていると、まるで彼の声が聞こえてくるようで安心できるのだ。楓のかつてのおせっかいな相棒であり、はじめて親愛の情を寄せた彼。
「落ち着いていますね」
キースの言葉で楓はまぶたをあけた。
「慌てても仕方がありませんから」
楓はやんわりとたしなむように応えた。
実際にそう思っていたし、どうせ行くあての希望がほとんどない流浪の旅だったのだ。今更見知らぬ土地に行き着いたとて慌てる必要がなかった。
「知らない場所、知らない生き物が不安にならない?」
キースは一言ひとこと考えるようにして訊ねてくる。
知らない生き物? あの影の群れのことだろうか、と楓は思う。得体の知れない人物や、奇妙な魔物、豪傑な魔族とはいくらでも出会ってきた。己の知らない未知なる生物が、今更どれだけ現れようと不思議には思わない。だが、キースの言わんとする『知らない生き物』はどうもそれとは異なる種の言に聞こえる。
「ここは私たちの住む場所とは異なる世界なのではないか、と私は考えているわけです」
キースのその言葉に、楓は首をひねった。
「そりゃあ、わたしたちの知らない場所なのだから、別の国、あるいは土地なのでしょうけども……」
「いや、違うんです。その『世界』ではない。たとえば、書物の世界と現実の世界――そういった類の『世界』の違いです」
楓は書を読まない。字を読むことはできるが、物語が描かれているのだという書物を手にした試しがない。楓の歩いてきた道にある街々には、書物を売る店が時たま建ってはいたが、そういうものを趣味として購入できる者は一部の上流階級に位置している。多くの者は字など読んでいる暇などないし、楓にしても同じだった。だいいち、ストーリーというものを知らない。
そういう意味では、楓は『世界』という概念を理解できない。だから、これからキースが言わんとしていることを楓は予想することなどもちろんできなかった。
「私たちは帰れないかもしれない」
沈痛な面持ちでキースは言う。
「そうですか」
とあっさり楓は応えた。他に言葉は浮かばなかった。
楓は帰れなくとも困りはしなかった。帰る場所などもともとないからだ。
「いやに淡白ですね」
その言葉には、楓は応えようがない。
「きっと、私の言っていることを理解されていないんだと思います」
馬鹿にしているような言葉ともとれたが、そういった嫌味はなかった。
「わたしにもわかるように説明をしてもらえますか?」
「できる限り」
そう言ってキースはうなずいた。
「これは推測ですが……。私たちの身体はもう消滅しています」
「なら、ここは極楽浄土とやらですか?」
楓は真面目だった。
旅先に寄った先の村で、その話をしているのを聞いたことがあった。死んだ後に旅立つ場所なのだと言う。歩いてゆくことはできないのだそうだ。山を越えるでもなく、海を渡るでもなく、雲のうえに存在しているのだという。
「いや、そういった類のものではないかと思います」
キースは考えるようにして、数秒のあいだ口を閉じた。キースは、楓が『世界』という言葉の概念を理解できないだろうとわかっていた。いや、知っていたという方が正しい。楓やキースたちの住む『世界』には『国』や『街』は存在しても、『宇宙』や『別次元』は存在しない。発見されていないからだし、発見されようともしていない。そういったものがあるのではないか、という考え方も存在しない。同じように、他の『世界』という考え方は存在しない。だから知らないのは当然だった。
だが、キースは知っていた。
それから、続ける。
「この『世界』の名は知りません。けれど、私たちの知る世界ではない、それだけは確かだと思います」
楓には、まだどういうことなのかサッパリわからない。ただ、ややこしくなりそうだ、と感じて心持ち身構えた。
キースは続ける。
「例えばの話です」
「ええ」
「例えば、わたしと楓さんが恋人だったりします」
「はあ」
突飛な話に、楓は興味がなさそうに応える。
「わたしがグラマラスで悪そうな女にさらわれます。貴方はどうしますか?」
「は?」
興味はないが意味がわからない、という楓の反応。
「どうします?」
「放っておきます。すくなくとも、そんなことはあり得ないかと思いますし」
「冷たくありません?」
「そうですか?」
「いやだから、例えばの話ですって」
「例えにしろなんにしろ、想像するのも難しい……」
うーん、と楓は唸る。
「じゃあこうしましょう」とキースは手を叩く。「楓さんは正義の味方で、悪いことを何一つ許せない性格です」
「そんなことはありません」
「例えですって」
「例えでも、とても難しい」
「正義の味方なんです」
「そんなものになるつもりもないです」
「なったとします」
「はあ」
「わたしがさらわれました」
「はあ」
「正義の味方であるあなたはどうしますか?」
「正義の味方なら、仕方がないので助けにいきます」
「仕方がない、はいりません」
「はあ」
キースはそこで一拍おいた。
ここで本来ならば、つまりそういうことです、と言うつもりであった。例えば○○であり、○○が起こる、そういうことだと。そういった、仮の、空想上の話があるのだと。そして今いるこの場所は、本来ならば自分たちにとってその空想上の世界なのだと。さらに、この場所からすれば自分たちが空想上の世界の住人だったのだと続けるはずであった。
「矢っ張り、なんでもないです」
「はあ」
あまり興味を持たない楓の様子を見て、キースは説明することを辞めた。おそらく説明しても理解できそうに見えないし、楓のように、特になにも考えずにこの場所はこういった場所なのだと、そう受け止めていく方が気が楽になろうのだろうとも思えた。
とりあえず、今は安全である。多少の危険因子は楓がなんとかしてくれそうである。
とりあえず、今のところは。