07
「敵なんですよね?」
刀の鞘に手をかけた楓が、背後にいる男に問う。得体のしれない相手。額に汗がにじむのを感じる。極度の緊張。両足を肩幅に合わせて開く。じり、と草履が砂利を噛む音が鳴る。その音に落ち着く。深呼吸。
後ろにいる男がどうやって彼らの出現を知ったのかは不明だが、確かに『敵』だと言った。
迫りくる影の軍勢。遠くで無数の陽炎のように揺れている。両の手のようなものを翳し、くねくねと蠢く。そして、やはり原理の理解不能な前進行動。どうやって移動しているのだろうか。蠕動? 楓は影たちの下腹部がミミズのように線条になっているのを想像した。思わず、うえっ、と呻く。
「敵ですね。間違いなく」眼鏡をくいと指で押し上げて、男が言った。「ああ、もしもこっちが間違っていなければの話ですが」
楓には男の言っていることが理解できなかった。理解できたのは、向こうにいる影たちが、《おそらく》敵だということだった。
「わたしにもわかるように説明してください」
肩越しに男を見、楓が言う。大真面目に言ったつもりだったが、なにかの冗談だと思われたらしい。あははと男が苦笑いした。
「レーダーってやつです。ほら、これ」男が宙を指差す。「この無数の小点」指を差した先、実際にはなにもないことに気がつき折りたたんだ。「えーと、楓さんは頭の中の情報を出せますか?」
楓には男の言っていることがわからない。今度は理解できることはなに一つなかった。
「あー」男は頭をかいた。「ともかく、アレらは敵ですよ。しかも、楓さんよりだいぶ弱い。わたしよりは強いですがね。群れていても大丈夫かと」
その言葉通りだと、つまり男は己よりも楓のほうが強いということを明らかにしている。あっけらかんとそのようなことを言っていいものなのだろうか。
それに楓より弱くとも、相手は大勢――しかも、自分と相手の強さの差を測れるほどの実力の持ち主より強い敵――である。
「逃げたほうが良いのでは」
楓は言う。逃げるが勝ち、ということではない。たとえ弱いとわかりきっていたとしても、必要に迫られなければ戦闘する必要などない。ましてや正体不明の相手である。
「えー、戦わないんですか」
男の文句。
「だったら自分で戦ってください」
楓はそう言うなり、手を刀の鞘から離した。同時に、肩幅に開いていた脚の緊張もとく。
「さァ」楓はにっこりとほほ笑んだ。「逃げましょう」
「勿体ない」
なにが勿体ないというのか。男の発言は、いちいち楓の理解の範疇を超えていた。が、楓本人は気にすることを辞めていた。
影の群れを撒くのには苦労しなかった。時間もあまりかかっていない。
見知らぬ土地である。楓と男の二人は体力の消耗に気遣いながら、影の群れどもを振りかえり振りかえり、歩きながら離れた。もし影の群れどもが距離を詰めてきたら一気に離すつもりであった。それまでは歩いて安全な場所を探す。
果てるとは思えない草原。周りを見回しても草花以外になにもない。まるで、海原の中心にいるかのようだった。
が、男が途中で歩を止めた。男より背の低い楓が、男を見上げるようにして問う。
「どうしました?」
「おかしい」男は自分たちを追いかけてきているであろう影たちを確認するため、振りかえった。「やっぱり」
男を見上げていた楓も、つられて振りかえる。
いない。
あの無数の影たちが一匹としていないのである。つい先ほど振りかえった時には、わらわらと、まるで飴玉に群がる蟻のように大勢いたのである。それが、忽然として消え失せた。この、なにもない草原で姿を消すことなど不可能のように思われた。楓は身体に緊張を課し、周囲を見渡した。草花の揺れ、風の音――なに一つとして異質なものを見逃すまいと目を見張った。ふと、その眼に赤い血筋のようなものが枝のような筋を作りながら走る。楓は視ることに集中していた。
「大丈夫ですよ楓さん」男の言葉に、楓の眼から血筋がゆっくりと逆走するようにその道を消してゆく。「奴らは本当に去ってしまったようです」
楓は一度目を閉じ、やがて開いた。するとその眼からはすでに血筋は消えている。
「どうしてわかるんですか?」
男は楓の質問に答えず、ただじっと楓の眼を見ていた。まるで何かを一心に考え込むような顔。男からは楓の眼の様子はわからなかったはずである。楓は無心で男の目を見返した。
男は楓の視線にハッとし、表情を変えた。
「なんの脈絡もなく、レーダーから無数の点が消えたんですよ」
男は頭のなかに現れる情報のうちの一つに、レーダーがあると説明した。それは正方形状であり、中心に白い円があり、自分自身を差すのだと言う。そして黄色が仲間。今は白い点と黄色の点があり、白がキース(男はそこで初めてキースと自己紹介をした)、黄色が楓であるそうだ。楓のレーダーからすれば、白が楓、黄色がキースである。たまに白以外の、赤い円が現れる。それが敵となる者。先ほどは後方に多くの赤の点が追いかけてきていたが、突如として消えてしまったのだと言う。まるで初めからなにもなかったかのように。
楓はキースの説明をある程度は理解した。実際に頭の中でレーダーを表示し、自分とキースを示すものが白と黄の点であることも理解した。が、すぐにそれを頭の中から追い出そうとする。仕組みのわからぬ、気味の悪いもののように思えたからだった。
便利なものなのに、とキースは心底残念そうに呟く。それから頭のなかでのレーダーの消し方を楓に説明した。楓はその通りにする。
楓にしてみれば、便利なものであろうとなんであろうと、突然得た力など信用できるものではなかった。いずれなにか悪いことが起こるではないのかと勘ぐってしまう。それは夏の晴れた朝に現れる黒い雨雲のように、きっと起こるだろうと。そもそも、この力はいったいなんなのだろうか。レーダーだけではない。この場へ異動してから、他にも頭の中にいろいろと現れた。キースはそれらを駆使しようと考えているに違いなかったが、楓にはこれらが恐ろしくてたまらなかった。自ずと得た力ではないのに、どうして信用できようか。自ら望んだわけではない力など、あってはならないというのに。