014
「シグマ!」
ルゥが椿に向けていた拳をそらし、駆けだした。
その隙に椿も動く。動く先は、ずっと様子を窺っていた輩。レーダーに映る、不穏な明滅していた点。
椿は走りながら、シグマとマリィおよびルゥの動きをちらと横目で確認した。マリィの能力を使った常套手段――相手の武器を取り込むまでの手段――により武器を失ったシグマは、マリィの右手の短い槍にのど元に突きつけられ、ルゥはマリィの左手の片手で作動するクロスボウガンを前に動きを止めていた。
マリィの類稀なる異能力。直接肌で触れた物質を体内に取り込むという能力。取り込んだ物質は自在に肌の上から出現させることができる。マリィが『いつのまにかに持っていた』武器はすべてその手に出現させた武器であった。また、袖の下にあった手甲はシャツで隠していたのではなく、ガードする際に腕の上に出現させたものであったのだろう。従って、シグマの見解は半分だけ正しかったと言える。取り込んだ物質が体内でどういった変化をしているのか定かではないが、マリィの肉体の質量や形状が変質することはなく、まるで酸素を取り込むかのように肉体に収めることができる。逆もまた然り、である。
武器を持たないルゥならばシグマのように武器をとられる心配はないため、あるいはマリィを抑えることができるかもしれないと椿は思っていた。が、自身にクロスボウガンを向けられ、武器を持たないシグマに槍を突きつけられたのではそうそう動くことはできないだろう。なんにせよ、三人ともしばらく硬直状態が続くであろうことは予想ができた。
問題は様子を窺っていた男だった。椿は名前を知っている。ウィルという名の男。椿の生み出した小説の中の人物。椿が最も嫌な役目を押し付けていた、一番会いたくない人物。
ウィルが動いたのは椿が動いたのとほとんど同時だった。中肉中背のウィルはさほど早くはない動きで、いまだ動かないミスティに近付いた。ウィルは肉体的には常人と変わらない。従ってルゥのように素早く駆けたりはできない。が、マリィ以上の奇策を弄してくる。
ウィルの特異な能力。感情操縦。干渉した相手の感情を一定の方向へ向かわせることができる。反抗できない強力な干渉だが、完全に操るわけではなく向かわせるだけである。そのため、ウィル自身が操作ではなく操縦と呼んでいる。まるで生産性のない能力だと本人は意味のない能力であるかのように公言して憚らない。が、ウィルの頭のキレと相まって、干渉された者たちがその能力の有用性をことごとく証明している。
椿はウィルの性格を熟知している。なにせ、ウィルはストーリーのカギの一端を握る役であった。狡猾で、慎重。石橋を何度も叩き、渡らないことも少なくない。そして自分の脆弱な身体能力と生産性のない異能力を多く見積もっても過信しすぎることはない。
椿はマリィの性格や行動原理、物質を出納する能力や身体能力を把握できていたからこそマリィを圧倒できた。が、ウィルはそうはいかないかもしれない。頭が良く、感情の向きをコントロールできる輩。
ウィルが動くタイミングはここしかなかった。ほとんどの者が身動きを封じられ、自分の能力が最大限に発揮できる場面。
椿より先に、ウィルはミスティの腕をとった。片手で腕を捻じりあげ、もう片方の手でナイフを首筋に当てる。
「動くんじゃない」
とウィルが言った。
椿はウィルとミスティの前で動きを止めた。間に合わなかった。ウィルがこの場面で動き出す場合、ミスティを人質にとるということくらいわかったはずだった。椿の方がウィルよりも早く動けたはずだった。が、間に合わなかった。ウィルの方が確かにミスティよりも近くにいた。しかし本当なら余裕をもって椿も間に合ったはずだったのだ。
……余裕を持って?
椿は自分の考えに疑問をもった。ミスティが人質になるかもしれなかったという場面で、なぜ余裕をもったのか?
椿は歯を食いしばった。やられた。すでにウィルに干渉されていたのだ。ウィルが身体能力が常人のそれとあまり変わらないとわかっていたからこそ、その点に関して侮ってしまった。そこにつけいられた。そこに干渉されたのだろう。結果、『余裕をもって』しまったのだ。
「2、3質問がある」
とウィルが声を張り上げて言う。
椿はもとより、ルゥとシグマ、それにマリィも硬直したままウィルへと注意をむけた。
「お前たちの目的はなんだ」
椿は眉をひそめた。それはこちらこそが聞きたい質問であった。
――なぜブルー・ボックスを破壊したのか?
――なぜ襲ってきたのか?
そして、
――どうしてこの世界にいるのか?
さらに言わせてもらえば、目的なんてものは、ない。
ミスティと以前――まだ椿が『楓』ではなく『椿』であった頃―――つい数時間程まえ――に約束した、新しくできたサウス・アイランドへ行こう、というたったそれだけのこと。途中――紆余曲折とまでは言わないが、椿のなかで葛藤があったものの――サウス・アイランドと思しき場所――しかしどうもそうとは思えないが――へ転移をした。たったそれだけだ。他にはなんの他意もない。
椿は黙っていた。答えられないし、応えられない。いやルゥとシグマには何か目的があったのかもしれない。と、椿は二人を見る。が、ルゥもシグマもマリィとの硬直状態を解かないままで何も言わない。
「答えないか。それとも答えられないのか」
ウィルは独り言のように、そう言った。
ウィルもまた動揺しているのだろうか、と椿は思う。そうだとすれば付け入る隙はあるはずだった。
そもそもウィルとは椿が創造したストーリーにおいて多くを語らない人物だった。口数は多いが、その行動原理や信念を隠したまま、主人公である楓たちのまえに何度か登場する。謎の多い人物として描いていた。彼が登場することによってストーリーが進んだり、大きな混乱を迎えたりしていた。そしてそれは、彼が望んでやったことではなかった。ストーリー上では未だ描かれていなかったが、ウィルは他の登場人物とは別の次元の葛藤を一人でおこない、その答えを己の行動原理として動いていた。椿にとっては、楓に次いだ主人公格のキャラクターであった。言わば、裏の主人公といったところか。
椿は口を閉ざしたまま、考えた。ウィルに何かを問おうとした。矢張り、ブルー・ボックスを破壊した理由を尋ねるか、あるいは何故この世界にいるのかと尋ねるか。
椿は口を開いた。
「どうしてマリィと行動しているんだ?」
言ってから、そんなことはどうでもいいことではなかろうかと自分で思う。マリィは楓に対する組織に属しているが、ウィルは属していない。ウィル個人と組織は相対していないが、仲間意識をもつことはないはずだった。
が、そんなことは些細なことではなかろうか。
「お前は誰だ?」と、ウィルが言う。椿に向けてであった。「一見、僕の知った女性の容姿に見えるが、違う。中身が違う。お前は、誰なんだ? どうして僕の連れのことを気にかけるんだ?」
中身が違う、というウィルの言葉に、椿は一瞬ドキリとした。ずいぶんと的を得た言葉である。
ウィルの言った『僕の知った女性』とはおそらく楓のことなのだろう。確かにウィルの知っている楓とは違う。が、中身が違う、という言葉や、ただの他人の空似だと捕えてはいない言い方――『お前は、誰なんだ?』――から、ウィルが椿のことを警戒しているのだということはわかった。そう、まるでルゥとシグマのことなど眼中にないような。